鹿鳴館の假装會日比谷公園わ新しい割に種々の記録を有し、就中明治三十八年十月五日此処に催うされし日露屈辱講和に憤慨せる国民大會の崩れが内相官邸(今わ帝国ホテルの地内)焼打、電車焼打、交番焼打、巡査の抜剣、戒厳令発布となつて帝都の秩序が紊乱し、現場を視察せる新聞記者が、 「警官わ只今馬脚を以て盛んに人民を撫しつつあり」 と貼り出した。四十三年の伊藤公の国葬なども記録の一である。電車道を隔てゝ謹厳な黒門わ昔の装束屋敷、今の華族会館、門の位置わ今の勧業銀行正門の処に處にあったのだが門そのものわ昔のまゝで細川侯屋敷跡なる高輪御殿及び本郷前田侯の赤門と共に東京に残される大々名の門の三幅對である。舊幕時代に琉球から朝貢せる使臣わ管轄の關係で薩摩邸に入り、装束を着換えて登城したから薩摩邸一名装束屋敷と呼ばれたが、明治十五年以後歐米心醉時代の鹿鳴館となり、再轉して今の華族會館となった。 鹿鳴館の假装會とて谷干城、三宅雪嶺等の國粋保存黨に攻撃されたのわ明治二十年四月二十日の催しである。其日の假装會に井上外相わ毘沙門天、山縣内相わ小具足、長柄の槍を抱えて萩原鹿之助、大山陸相わ羅紗の羽織の野袴を穿き天性の無器用で別に云う事が無いから時々人混の中え立止まり天井を仰いで、 「私わ薩州の大山彌之助でごわす」 と大呼してわ又歩き出す。下田歌子女史わ源氏物語の夕顔となって内外顯官を悩殺した揚句、伊藤首相の腕に凭れて卒倒し、大蔵省の役人だった渋澤男わ令嬢琴子今の阪谷夫人を山吹の少女に仕心てゝ自分は狩装束の太田道灌に化け、伊藤首相令嬢末子今の井上勝之助夫人と同生子今の末松夫人とが腰簔を附けて松風村雨と云った狂人沙汰、彼も夢是も夢、其後身が今の華族會館で、館長徳川家達十六代将軍は自動車全盛の世に相變らず鐵輪の二頭馬車を轢轆と軋り込む。
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