工房だより9811
仕事がヒマで金がないので、遠くへ遊びに行けない、そこで明治時代に遊びに行こう、というこの頃です。
県立美術館に小林清親がかかっていたので見てきました。
続いて子供が世話になっている浜松市の学生寮の寮祭と言うのを「田舎の親爺」という役どころで覗いたついでに、
寮の有る文京区千駄木から、両国の江戸東京博物館まで散歩に行ってきました。
「新宿のヤミ市」の模型を見に行ったのですが、模型製作のレポ−トと一緒に買って来たのは川瀬巴水の絵葉書でした。
文庫本の「戊辰物語」など思い出し、千駄木から両国までテコテコと歩いてしまいました。
神田の聖堂というのは、あれは神田明神とお城の間に作ったのですね。
野蛮人を教化しようというのでありましょうか。
柳橋の船宿で「船徳」をやるような、櫓舟の貸し舟は何処かに無いか聞いてみましたが、知らないとのこと。
両国の大川端には知らぬ間に堤防の外側に遊歩道が出来ていました。
ダンボールハウスがいくつか並び、隅田川の水面が少し近付いて、少し大川になっていました。
小林清親には「吉原田圃太郎稲荷」の絵があります。
歌舞伎の「十六夜ナントカ」という外題で、太鼓のドロドロと共に、大川の向こうへ血のような色をした月が登り、
というのが有り、あれかな、という位なのですが、
廣津柳浪の「変目傅」では
「、、、太郎稲荷と北廓との間、俗に吉原田圃と呼べる田の中の、路より一間ばかり去れて、、、」
と来ると、やはり他殺死体と言うことになります。
最初「方圓舎」と号していた清親が、そのうちタダの「画工」と記す様になった辺りを小木新造さんが書いていますが、
やはり暗い方の清親が地で、ガス灯なんぞの明るいやつは居直って書いているような気がします。
昭和5年4月春陽堂刊の「明治大正文学全集第三十五巻/廣津柳浪・廣津和郎」の巻頭は「雨」となっていますが、これも
「敷居羽目の蒼苔と齊しく、人に人の色」無き「貧民窟」
の暗い話です。横山源之助の「日本の下層社会」と言う様なちゃんとした本はそれ、
ですが、柳浪の「近代心中もの」は清親の暗い方を鑑賞する手がかりとして有り難いものです。
同じ暗さが、昭和に入って引き継がれているのが川瀬巴水の絵である様に思えます。
清親の時代には、居直って書いていた文明開化の明るさが「圓圓珍聞」に爆発したのですが、
巴水の頃には既にそれも出来ず、「大陸」-朝鮮半島の明るい青い空が残されています。
巴水は浜名湖の絵を2点残しています。
一つは御一新後の一時、清親が下役人をしていたと言う、遠州新居の関所近くの夕暮れの船溜りで、
石垣の上の灯の中に諸肌脱ぎになった船頭が夕涼みをする図、
もう一つは大陸に続く様な明るい空の下で浜名湖の細波がキラキラと輝いている図、
という明暗一対となっています。
先年はこの暗い方の絵と同じ場所を書いてみたので、次には明るい方を書いてみようとも思っています。
そう言えば「新宿のヤミ市」の模型も、現代の我々の感覚からすれば裸電球の明かりが暗く、
清親描く所の、浅草などの盛り場をシルエットとなってうごめく人影を思い出させるものでした。
東海道筋の地方都市である浜松には、江戸・東京の様にこの時代の文芸・美術が豊富に残されている訳では有りません。
しかし東海道鉄道開通と共にこの地に移転して来た帝国製帽、日本型染などの工場立地条件の一つが
「気候温暖人情純朴で労働争議などおこりそうに無い。」というものだった。
ということから、その後の浜松の発展を逆算することもできるでしょう。
大正元年に新橋工場、大森工場の職工を主体とした鉄道院浜松工場ができると、
「彫りモンのひとつも入ってなくっちゃ、職工たぁ言えねぇ」という人々の暮らしの上に近代産業が組み立てられて行きました。
「浜松まつり」というのも、どうも司馬遼太郎さん言う所の「野蛮な日本人」の証明みたいな祭りですが、
浜松に関して言う限り、近代都市は西洋近代のごとくに「市民」が作ったのでは無く、
小林清親の時代と同様、蒼苔の生えた裏長家に住み、良い腕を持ちながら、
酒を飲むと手が付けられない、といった「職人衆」が作ったもののようです。
日本語で「腕」というと「専門職業的技能」を指しますが、
英語で"arms"というと「武力」を意味する訳で、このあたりが日本の近代化の特質の一つでは無いでしょうか。
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