「遠州新居町」
川瀬巴水
昭和6年
新居町関所資料館蔵
1997年の源太山


東海道風景選集「浜名湖」
川瀬巴水
昭和6年
渡邊版画鋪 刊
1999.1

川瀬巴水は「遠州新居町」を描いたのと同じ昭和6年に「浜名湖」と題する木版を製作しています。
新居の平野 昌先生から

太祇の

木戸しまる音やあら井の夕千鳥

と山頭火の

水のまんなかの道がまっすぐ

を御教示いただき、ちょうどこの二句が巴水の二面の木版に対応しているのに気付きました。
「遠州新居町」は現在の新居町が、「わが街」としての安らぎを昔と変わらずに持ち続けている事を我々に伝えてくれます。江戸時代、日暮れとともに閉じる関所の門をくぐり抜け、宿場に入った旅人がほっとするのと、交通渋滞を抜けて我が家に帰り、ほっとする現代人にはどこか共通するものがあるよう感じます。

これに対して川瀬巴水の「浜名湖」からは、山頭火の句と同様、1930年代という時代の精神を宿している、という印象を受けます。

湖心を和船が進みます。背景には大崎半島でしょうか、平らな森を戴く岸が横たわり、その向こうには湖北の山が連なっています。夏の太陽が夏雲を眩しく照らし、雲は湖面にそのままの姿を映しています。遠くに見える湖北の山の色もあくまで鮮やかで、なにか手に届かない遠くに有るような、非現実的な印象さえ湛えています。

光と陰のコントラストが強いのがいかにもこの時代のものでは無いでしょうか。光にあふれる夏雲は、同じ頃、巴水によって描かれた朝鮮の風景にも現れます。巴水の描く原色に近いキラキラとしたこの光は、1930年代という時代の一つの側面でしょう。

この時代、関東大震災からの復興が次第に姿をあらわしつつ有りました。巴水も東京内外に出来た新名所を絵にしています。水の画家である巴水ですから、隅田川に掛かる橋の絵も残されています。

明治以来、鹿鳴館の類いの紙芝居的、とも言える近代化によって発達してきた東京は、関東大震災で灰燼に帰し、都市構造を根本から近代化する機会を与えられました。道路・橋を中心とした都市計画事業が進められ、巴水が「浜名湖」を描いた頃にはこれらの橋が帝都の未来を象徴すべく相次いで完成したのです。

巴水は震災復興事業の筆頭株であった「清洲橋」を描いていますが、そこには原色に近いキラキラとした光は無く、1930年代を現わすもう一つの側面が感じられます。画面一杯、溢れんばかりに描かれた清洲橋は、鋼鉄の圧倒的な強さ、有無を言わせぬ近代技術の力ずく、を現わしています。そして黄昏の陰の向こうから突然姿を現わす、それまでの隅田川の川筋の情景とは異質なその姿は、まるでそれから十数年後に現れる事になる戦艦大和の様な姿をしています。

年譜によると「昭和7年・浜名国道開通」とあり、国道橋が出来たのも同じ頃と、いう事のようです。その頃から昭和15年オリンピック開催を期して勝鬨橋正面に東京都庁を移転する、という今でいえば臨海都心計画が進められましたが、巴水が「遠州新居町」に記した「昭和6年8月」の翌9月18日に北京近郊柳条湖で発生した事変は拡大を続け、山頭火が「水の中の道がまっすぐ」と作った頃には国連脱退、オリンピック返上へと向かっていました。

山頭火が浜名国道に見たのと同じ、真直ぐな道が、上海へ、真珠湾へ、シンガポールへ、ニューギニアへ、と水の中を伸びて行く姿に未来を予感していたのがこの時代だと思います。山頭火の作句の数年後には火柱に包まれるこの水の中の真直ぐな道を、我々の父祖は綿織物を担いで進み、これが遠州地方の近代産業の基礎となりました。

60年後の現在、名古屋発ポートランド行き直行便は、天候が良ければ離陸後田原上空を通過し、浜名湖上空で向きを変えて「水の中の道を真直ぐに」オレゴン州へ向かいます。