農業と牧畜業

2014.10.9

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農業と牧畜業

古代の人間は狩猟採取によって食べ物を得ていたと思われる。採取文明は食糧の安定化を図り、畑へと発展する。三内丸山遺跡からは紀元前5,000年に、既に大規模な「栗畑」があった事が確かめられている。農業の始まりだ。

海岸沿いでは海産物の採取・漁労が行なわれていたと考えるのが自然だろう。蜆塚遺跡を始めとする各地の貝塚がこれを示している。諏訪大社では鹿・兎などが肉として供物に使われている。

食べ物を得る技術は次第に高度化していった。我が国では牛馬は家族の一員だったが、西洋では羊など食用の家畜も現れた。これにつれて「夏は巣に棲み、冬は穴に住んだ。」という住まいの形も様々に変わっていった。

日本の古墳時代には吉野ヶ里の様な「国」とでも呼ぶべき大きな権力によって、大規模水田稲作が始まった。静岡県内では三ヶ日町・細江町・引佐町などが水田稲作の先進地とされている。

引佐町の渭伊神社は裏山の磐座がご神体であり、神社の古い形を伝えている。



春先にこうしたパワースポットに農耕の神が降り立ち、秋の収穫まで人々を守る、という信仰は各地にみられる。日本の古代における「神」は、「風神」「雷神」「水神」「太陽神」という様に、エコシステムそのものともいう事が出来る。感謝の対象ではあっても、怖れ、敬い、祈ればご利益がある、というものではないだろう。

日本では稲作に適した年間気温と降水量があり、古代国家が形作られる前から、米が食べられていた。森を切り開いての「陸稲」または、大規模な灌漑排水事業を前提とせず、家族…むしろ同族とでもいうべき大家族の労働で整備出来る「棚田」によるものだ。

日本では牛馬といった動物は、動力源に使われる事が主で、南部曲屋に見る様に、家族と同じ棟の土間で家畜を飼う事が行なわれた。

これに対し、古代オリエント文明(教科書p76)では、動物は神への生贄としても使われ、家畜として人間が支配する牧畜業が発達した。小麦は米に較べて、植物性タンパク質が少なく、肉を食べる必要があったから、とも言われている。

牧畜業では放牧によって動物が育ち、食用になるとともに骨・毛皮などが加工された。土地がありさえすれば、人間が労力をかけなくても済むため、飼育頭数が富を表す事となる。日本と違い、頭数が増えると家畜が逃げない様に、家畜を襲う敵から守るために、囲う必要が出て来る。

日本の住まいの原型が左図の様な「巣」の進化形に求められるのと対照的に、こうした文明では「囲い」が住まいの原型のひとつではないだろうか。

水田稲作では稲藁で厚い(45cm−60cm)屋根を葺けば、長持ちするだけでなく、屋根断熱としても有効だ。雨を防ぐ仕組みが「屋」の「根」とよばれるのも、そうした事によるものだろう。床下を風通し良くして湿気がこもらない様にするのは、夏を快適にする工夫だ。稲藁は畳にも使われ、使われた後で肥料にもなった。

エジプト(教科書p72)ではカイロ周辺は乾燥地帯にあるものの、ナイル川上流に年間降水量が1,500mmを越すサバンナがあり、ここからナイル川を流下する栄養で、肥沃な農地が拡がった。このためナイル川流域という閉鎖システムは、5,000年以上に渡って外界との交流を必要としない、独自の文明を発達させた。

メソポタミア(教科書p76)では年間降水量が100mmないし150mm程度なので、畑作小麦に依存した文明は、高度な灌漑施設を発達させたが、この地域で降水量を供給するのは地中海から運ばれる水蒸気のみなので、過度な灌漑は次第に砂漠が拡がるという結果をもたらした。

それと同時に牧畜業の必要とする牧草地を廻って、領土争いが続き、王国の興亡が繰り返された。

メソポタミアでは大規模な森林が発達せず、建築材料として手軽なものは泥を固めた日干し煉瓦であった。これに小麦畑で取れる麦わらなどで簡単な屋根を掛けてやれば、右図の様な住まいの原型が出来る。

富が蓄積されるに従って、日干し煉瓦は表面にタイルや石を張る様になり、やがて壁そのものを石造とする様になった。

石の壁に対して、石の屋根は遥かに高度な技術を必要とした。アーチとドームが技術的に完成するまでは、使用可能な石材の長さが柱間寸法となり「百柱殿(教科書p79)」の様な柱梁構造が長く石造建築の様式だった。

地中海周辺では宗教建築・宮殿などが石で造られたが、民家建築では石の壁に木造の屋根が広く用いられた。

またアルプスの北側・東ヨーロッパでは森林資源に恵まれていたため、住宅だけでなく宗教建築なども多くが木造で建てられた。ギリシャの神殿建築は、木造建築の形を石で置き換えたもの、という説もある。

エーゲ海とアドリア海に挟まれたギリシャ(教科書p80)では、広い農地に恵まれず、海運が主要産業だった。また多数の傭兵をエジプトなどへ送り出した。最近の研究ではギリシャの建築様式も、こうした出稼ぎの人々がエジプトからもたらしたものとされている。

完成時点でのパルテノン神殿も、これまで考えられて来た様な白色ではなく、エジプト式の極彩色だったと考えられる。

Egyptian Influence on Ionic Temple Architecture
Lucas Livingston
Special Studies: Directed Research Project
University of Notre Dame
December 12, 2000
http://www.artic.edu/~llivin/research/ionic_architecture/など

英語を読むのが面倒い人は挿絵だけどうぞ。
https://higherinquietude.wordpress.com/2014/09/26/in-living-color-greco-roman-polychrome-sculpture-and-architecture/semper_parthenon_1/

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