半僧坊と
インド洋

2014.10.16

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引佐町奥山方広寺縁起には次の通り半僧坊大権現の事が記されている。高町の半僧坊はサテライト施設である。

方広寺の開祖である無文元選禅師が1350年に唐(現在の中国)より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師がお乗りになっている船を今にも飲み込もうとする勢いでした。

そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻が高く眼光鋭い一人の異人が現れて、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。

1371年禅師が奥山の地に方広寺を開かれた時、再びその異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。その際、禅師の「汝、半ば僧に似たる所あり」とのお言葉に「我は半僧なり」とご満悦の体で、自他共に「半僧」と称したのだそうです。

禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」と言って姿を消したそうです。


半僧坊大権現御開帳は15年に一度なので、平成25年に参詣に行って来た。御尊像は真っ黒で良く見えなかったが、開帳記念の下されものに御尊像の写しが掘られていて、これを見ると大権現様はペルシャ人らしかった。大権現様ペルシャ人説は次の本を読めば納得出来る。
文明の海洋史観/川勝 平太/中公叢書/1997

ヴェトナムもサイゴンまで行くと、船が何となくインド洋っぽい。

要するに14世紀頃の世界貿易の中心はインド洋であり、主人公はイスラム教徒であった、ということになる。元々砂漠の民であったイスラム教徒は、目標物の無い砂漠で、星の位置から目的地に達する術を身につけた。後にはこれを航海に応用して、陸地の見えない大海原で、星を読みながら目的地に達する事を覚え、それまでの沿岸航路ではなく、目的地に直行する技術で印度洋の交易ルートを開発した。

12世紀には仏教国であったモルディブにイスラム教が伝わり、インド・アフリカ両大陸から数千キロ離れたこの地が、インド洋の交易の中心地となった。 明の永楽帝という人がおって、1405年から30年程、インド洋に大艦隊を派遣している。「西洋取宝船」と呼ばれる3,000トン程の巨艦数十艘に、27,000人余が乗り組んでいたと言う。西ヨーロッパはまだ未開の地で、ポルトガル国王が作らせる事の出来た船が、せいぜい300トンという時代である。 この時に西洋取宝船が滞在したのもモルディブだった様だ。艦隊司令官の鄭和もペルシャ人だったらしい。

17世紀に入るとイスラム教徒から「星読み」を学んだキリスト教がインド洋を征服、大西洋を渡って近代が始まるが、それまでにイスラム教徒は台湾まで往来していた。図は台湾基隆港で見掛けたペルシャ風のライオンさん。

台北にはイスラム街もあって、真清=ハラルレストランなどがある。中国人は豚肉大好きだが、イスラム教徒は戒律で豚肉は食べないので、肉といえば牛肉だ。黄牛というのは水牛かもしれない。ヒンドゥー教徒の中には牛肉は食べない、という宗派もあり、なんでも食べるのは日本人か。


対岸の泉州には仏教のお寺、キリスト教のお寺と同時に、立派なイスラム教のお寺もある。

泉州古建築/泉州歴史文化中心編/新華書店天津発行/1991 より

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