ローマ帝国

2014.10.9

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地中海東岸

ギリシャ本土で栄えた文明は、紀元前323年までにマケドニアのアレキサンドロスによる遠征によって地中海東岸からペルシャに広がり、ペルシャの技術が地中海にもたらされた。アレキサンドロスが32歳で死んだあとも、帝国は繁栄し各地に天文台、科学アカデミー・学校・図書館などが建設された。ローマ人はそうした文化遺産を十分に活用することができ、自ら科学技術にエネルギーを傾注するよりも、領土拡大を中心課題とした。

元々はギリシャに端を発した地中海東岸のヘレニズム文化は後に各地のイスラム教徒によって継承され、現在の西ヨーロッパの科学技術のほとんどはイスラム教徒から学んだものだと言って良い。

地中海帝国

紀元前後の東地中海で使われた船は、縦帆式の小型のものが多く、長距離航海には適していなかったが、ローマは地中海のほぼ中央に位置し、シシリア島、コルシカ島、マルタ島などを足がかりに、アフリカ北部に達する事が出来た。

そうした海域をローマ軍は制圧するに至った。ローマ軍が使ったのは帆に頼るものではなく、大型の手漕ぎ戦艦で、ガレー船と呼ばれるものだ。ガレー船は奴隷が漕ぐものではなく、兵士が漕ぐ「浮かぶ軍隊」だった。

ガレー船は奴隷が漕ぐ、というのはハリウッド辺りが、ガレー船と奴隷船を取り違えた辺りが源流ではなかろうか。

「浮かぶ軍隊」が発達したのはアドリア海、エーゲ海と言った多島海で、一日行程ごとに女を侍らせての、どんちゃん騒ぎが出来る港が条件だった。なじみの港が無ければ敵の港を焼き払い、食事も女も略奪、ということになる。

その頃の「世界地図」を見ると「アジア」というのはトルコ南部の事だ。人外魔境の向うはどうなっているかと言えば、海の果てから海水が虚空に落ちているので、船を進めると戻って来れない。

地中海を制圧して豊かになったローマ市民は、もう海賊をやるのに飽きてしまい、制圧した帝国領土を植民地にすると、そこから傭兵部隊を募集する様になった。のちにローマ帝国の崩壊を招くポエニ戦争はそうした植民地の傭兵部隊の反逆だった。

英語の”volunteer”というのは元来この手の「傭兵」の中の「給料2倍殺傷力2倍」という「志願兵」を指す言葉で、日本でいう「ボランティア」の様に、タダで公に尽くす、という「御奉公」とは別のものだ。

ローマ陸軍はどうであったかというと、教科書p85に見る様に、ドナウ川の南、ライン川の西を限りとする帝国領土内に、石畳を敷いた街道を整備した。僻地で叛乱があっても戦車(と言っても20世紀に使われた装甲無限軌道車ではなく、チャリオットと呼ばれる戦闘用馬車だが)が街道をすっ飛んで来て、たちどころに叛乱を鎮圧してしまうのだ。この時代、ラインの東・ドナウの北は人外魔境であり、ロマンチック街道(ローマ街道)というのは人外魔境に面した戦跡地なのだ。

地中海の富を集積したイタリアの諸都市国家は、都を飾るためにギリシャ神殿に倣って建物の様式を競い合った。現在列柱の柱頭に代表される「古典様式」(教科書p92)と呼ばれるものはローマ建築を体系化したもの、とされるが、それが体系化されたのは15世紀以降の「ルネサンス期」だろう。


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ローマ時代のローマの中心市街地は、中庭を囲む5階建てのマンションという、現在の日本の都市景観と似た要素を持っている。ただ足りないのは窓にはめるガラスが無かったぐらいだ。1階が店舗、2階が金持ち、上に行く程貧乏人という構成は、エレベータが実用化される19世紀末まで変わらない。

「世界七不思議」のひとつ「パンテオンのドーム(教科書p92)」は、最近の調査で、シシリア産の軽石を骨材に使っている事が判明した。ALCと同じ軽量コンクリートだ。

「カラカラ浴場」(教科書p89)などローマ時代の「浴場」には、浴槽もあったろうが、ガラスの無い時代に建物全体が床暖房で暖められた会議室が重要な施設だった様だ。一杯機嫌で薄着の若い娘をからかいながら重要会議をしていたのが、帝国崩壊の一因だ。

東西に分裂したローマ帝国は5世紀始めに西ローマ帝国が滅び、帝国の中心はエーゲ海と黒海をつなぐビザンチウム(教科書p98)今で言うイスタンブールに移った。イスラム教下にある東方世界と、キリスト教世界との間の交易で栄えたビザンチウムは、つまり「国境の都」であり、一旦戦争が始まると戦場と化してしまう立地条件を持っていた。

ローマで栄えたたキリスト教は、黒海沿いのブルガリア・ルーマニア、ドナウ川を遡る交易ルート沿いに、チェコ・スロバキア・ポーランドに伝えられ、アルプスの北側に受け入れられていった。ハプスブルグ家の元で、ウィーンが世界の中心となったのは、峠を越えればヴェニスに至る、というだけでなく、ドナウ川沿いの交易が大きいだろう。

ウクライナ・ベラルーシ、ロシアと言ったスラブ諸国では、それぞれの正統派教会が建てられたが、豊かな伝統を元にした木造宗教建築が残されている。

現在ヴェネツィアのサンマルコ寺院(教科書p100)正面上に置かれている、4頭の馬の銅像は、1453年にビザンチウムが滅びる時に、運び出されたものだと言う。

8世紀にはイスラム勢力はピレネー山脈に至り「イスラム教徒に奪われた土地を取り返そう。」という「レコンキスタ=失地回復運動」が続いた。

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