茶室の源流

2014.10.16

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韓国の民家

豊臣秀吉に側近く使えていた千利休は秀吉の朝鮮出兵に抗議し、切腹申し付けられている。 利休の茶室の意匠を眺めていると、韓国・朝鮮の住宅建築に習っている感じがあちこちに見られる。元々茶道自体が「不老長寿の仙薬」として珍重されたのであり、堺の薬酒問屋というのは舶来品の輸入業者でもあったのだ。

考現学で有名な今和次郎は大正11(1922)年に朝鮮半島に旅行し、「民家論」にその折のスケッチがある。 上図はその当時としても古い形の住宅だということだが、これから伝統的な韓国の住宅デザインが良く伺える。

これは全羅南道の都草島で見かけたもの。テレビのアンテナが立っているところからすると、まだ使われているのだと思う。

「民家論」にある「房」のパース。8尺X8尺が律令時代に決められた住宅の基準寸法だそうだ。鴨居が無く、着るものなど廻縁に吊す。垂木は丸太が基本で、垂木間は予算のある建物ではシックイ塗にする。このあたりが千利休の「侘び茶」の茶室の手本だったのではないだろうか。

日本と韓国で大きく違うのは「土塀」だ。どうも韓国では「囲い」が屋敷構えの基本であるようだ。韓国は日本と同様水田稲作の伝統が古いのだが、中国と日本に挟まれて戦乱が絶えず「敵を防ぐ」という意味合いがあったのだろうか。日本でこれに近いのは沖縄の伝統民家の屋敷構え。

塀がすなわち部屋の外壁で、中庭を建物が囲む、というコートハウスは、都市住宅としては広く見られるものだが、韓国では田舎のエリート階級の住宅にも良く見られる。中国の四合院などに倣ったものかもしれない。


今和次郎「民家論」より

貴族の別荘

全羅南道潭陽郡南面支石里には15世紀の貴族の別荘である瀟灑園がある。

自然主義的な田園生活を送るのに理想的な風水を選び、土塀で囲って塀の中が自然を利用した庭園になっているのは、ソウルの王宮にある「秘苑」と同じだ。

いくつか残る建物はいずれも小さな「房」の廻りに広々とした縁側を持っている。そして屋根はご覧のように秘園の建物と似た見るからに「屋根の建築」とでも言うべき重厚なものだ。

王宮の秘苑



ソウルの昌徳宮は王族のリビングクウォーターだった。表側には国家建築という構えの建物が並んでいるが、奥の山懐に抱かれたところに「秘苑」と呼ばれる庭園がある。興味のある人は現地を当たってほしい。

この手の秘園はヴェルサイユ宮殿のプチトリアノンが有名だ。宮殿内の秘密の場所に立入禁止の庭園を作って、農村の建物を並べ、王族貴族が百姓の真似をして遊んでいた様だ。

昌徳宮の秘園も似た様なものだろうと思うと大間違いで、そこに並ぶ四阿の建物には面白いものがある。見た目には屋根の重厚な様子に圧倒されてしまうのだが、平面を見ると、一体これは何だろう、と考えざるを得ない。

上左の芙蓉亭の平面は「亜」の字を建築化したものだそうだ。「亜」型の建物というのは紀元前後の唐長安城の南に作られた天を祀る建物が「亜」型だったそうだ。そういわれると、他の建物にも、それぞれの「宇宙的な」意味があるのだろう。秘園といってもバロック建築の「濃い味」にくたびれ果てた王侯貴族が、プチトリアノンで若い娘にブランコをこがせて、「○○ちゃんのパンツが見えた。」とやるのとはえらい違いだ。(教科書137-147)

韓国・朝鮮は中国の儒教を重んじた国で、儒教から「気」と「理」を高度に哲学化して国家経営の基本としていた。秀吉の軍隊が破竹の勢いで都に迫った時にも、王宮では「倭人の様な野蛮なものが我が都を犯すなどという事は、論理的に有り得ない。」などと議論を繰り返していたそうだ。

このところ日本を悪者にするしか手が無い韓国だが、この際「悪いのは秀吉で、秀吉をやっつけて国交回復をしたのは家康だ。」という事で、家康君を韓国へ売り込んでみてはどうであろうか。

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