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2008.8.19
住宅地の近代 | ||
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鴨江というまちそれまでの伝統的な繊維産業に加えて、日本形染、帝国製帽、日本楽器、といった近代産業が立地し始めた浜松を、大正年間に飛躍的に発展させたものに1912年創業の国鉄浜松工場があります。1890年の東海道鉄道開通によって、近代技術に目覚めた浜松町民は、150余名の陳情団を結成、 国会への猛烈な誘致運動を通して名古屋に打ち勝ち、国鉄の車両整備工場誘致に成功しました。 | ||
![]() 日本国有鉄道浜松工場「40年のあゆみ」より | これに先立ち、名古屋には適当な敷地が無いこと知った浜松町民は、隣接する浅羽村大字東鴨江と大字伊場を合併し、用地30万坪余を買収していました。現在の伊場町・鴨江町が概ねその用地に当ります。鴨江の山を削って伊場の田んぼを埋める、といったものだったのでしょう。鴨江町は真言宗鴨江寺の門前町で善男善女が集まるところでしたが、当時としては廃仏毀釈の空気もまだ残っていたのでしょう。伊場は、 | |
といったものだった様です。こうして戦災復興の区画整理などより一足早く、当時の鴨江町が近代的市街地として整備されることとなった様です。現在のグランドホテル北西にはそうして作られたであろう整然としたまちなみと、それ以前の細街路がまだらになって高台まで続いています。
路地を辿ると大正時代の市街地の匂いがそこかしこに残っているのですが、それも売れそうも無いマンションの群れに埋もれつつ有り、今の日本では「アーバンデザイン」と言う言葉が死語になっている事を感じさせます。 警察署等司法関係の近代施設が整備されるのと平行して、1925年には伝馬町旅籠町から遊郭が鴨江のヤマに移転しました。人口の8割が男であり、武家屋敷の女中を除けば女の姿等無く、「恋女房と子供を育てる」なんてことが殆どあり得なかった江戸の町同様、浜松にもそうした施設が必要と考えられたのです。 1912年創業当時の国鉄浜松工場には新橋工場からの750名を筆頭に、各地から職人が集まりました。
ということで、それまでの浜松宿の姿は大きく変わりました。日清戦争後の労働争議に根を上げた帝国製帽が、大田区蒲田から浜松へ来たのは「気候温暖人心純朴で労働争議など起きそうに無いから。」というのが理由だったそうで、祭りで気炎を上げる現代の遠州人とは大分雰囲気が違う様ですが、これも国鉄浜松工場の操業とともに、江戸の下町から流れ込んだ大量の職人衆が江戸っ子気質を持ち込んだためではないかとも思われます。
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![]() 昭和3年帝国陸地測量部五万分一地形図「濱松」より ![]() 大将7年帝国陸地測量部五万分一地形図「大田」より |
「何となくやんなっちゃったから」子供が親を殺してしまう、という現代と違い、文化問題、思想問題、労働問題といった社会問題解決のため、当時の司法機関は統治機構という性格を今より強く持っていた様です。「軍隊に入って初めて日常的に洋服を着て靴を履いた」という日本人が圧倒的に多かった時代であり、司法機関も普通の人が近代建築に触れる数少ない機会だったしょう。
学校と工場・鉄道施設を除けば、司法機関が殆ど全ての近代建築、というまちなみの姿は、例えば植民地ではいっそうくっきりとした姿を見せてくれます。建築士会では1980-90年代に韓国の大田市と交流をしましたが、地図を見ると1918年の大田市はそうしたまちなみの姿をしています。左図の記号は次の通りです。 |