2014.1.26


▽ 02着陸


 1月26日は内田雄造さんの命日だ。私は建築設計で糊口を凌いでいるが、建築設計でも背景となる街並がまことに重要な要素であることを、教えてくれたのは内田雄造さんだ。先生と呼ぶとヤメテヨ、とおっしゃるだろうが、安田講堂に立てこもり、まちづくりについて考えを深めていた斯界の碩学だ。

 どのくらい碩学かと言うと「抵抗の都市計画運動」と名付けた通り、中央集権制の国法によっては、まちづくりなんて有り得ない、ということに我国で気付いた人は、彼を以て空前絶後であることからも知れる。民主国家では市民が生んだ普遍的ルールを「法律」と呼ぶのだ。ケヴィン・リンチ先生は

  200マイル離れた街のまちづくりなんて不可能

   What Time is This Place?
   Kevi Lynch
   MIT Press, 1976

とおっしゃっているのだが、我国では権力の侍女たる、斯界の権威連はこれに気付かないか、あるいは気付かないふりをしている。

 枠組壁構法に触れたのも雄造さんが米国からもたらした「農家住宅自作の手引き」なるUSDAのパンフレットが始まりだった。後に建材輸入をやることになるが、米国の街並に触れても、雄造さんから教わった「自助」「他者の尊重」といったことが、米国のまちづくりの底流にあることを実感出来たことが、大きな収穫だった。

 21年ぶりに当時の書き付けを引っ張り出して読んでみても、面白かったことが色々と思い出される。これからの日本のまちなみ、あるいは住宅設計のヒントになるやも知れないので、公開してみようと思う。



1992年10月の末から10日ほど、ウエストコーストヘドライブに行ってきた。やはり建築士会の会員である河合君と二人で、途中サンフランシスコでは、西高時代の悪友であるK君が3日ほど同行した。法学部の助教授である彼は、専門のラテン憲法の資料を探しに、中南米に古本屋漁りに行くと言っていた。河合君は真面目にアメリカ建築研究の準備をしていたが、私の方は建築の背景となるまちづくり、あるいはその背景となる人々の生活の方が興味の中心デアル。と称して観光にいそしもうというわけだ。もっとも観光客様御用達の見せ物ばかりを見るのでなく、アメリカの普通のまちを見ようというわけで、それには自動車が一番だ。シアトルからモンタレーまで、行って帰って7日間、3,500kmというドライブであった。

鋸の歯そっくりのキャスケード山脈が、遠く成層圏特有の朝焼けに染まっている。そこからこっちは見事な雲海だ。Yチケットの僕達のさらに後部座席には団体客が乗っている。質素な服を着た人、ちぐはぐに派手な服を着込んで、順にレースのリボンまで飾った子供なんかが、緊張感を持った声で話しているのを聞くと、どうもヴェトナムあたりからアメリカ人になりに来た難民であるかのようだ。アメリカ合衆国は、はなっから移民の国であり、いまだにそれを続けている。目本のように、国民が国民としての自覚を持つ前から国があった、というのと違い、アメリカ人に「なったひと」が「国民」であるというのが、日本とアメリカ合衆国の大きな違いの一つだ。

成田空港でも、別室に隔離されていた元ヴェトナム人達だけでなく、搭乗ゲートの先頭には韓国語しかしゃべれないというおばあさんがしっかりと陣取っていた。「アンニョンハシムニカ。」しか喋れない僕がなんとか聞き出したところでは息子さんが アラスカで暮らしていて、そこへ呼び寄せられたらしい。シーズンオフで観光客の少ないこの時期には、結構こうして人生そのものをノースウエスト008使に乗せ、太平洋を渡る人が多いのかも知れない。

前の座席に座った白人青年も、シンガポールからアメリカにコンピュータの売り込みに行くのだと言い、

僕の英語は中国訛りだから。

と落ち着かない様子で繰り返していた。