神輿が週る様になった時のいきさつ
焼津神社は元入江神社といった、年々八月十五日例祭には神輿を城之腰に迄進めるのが通例で其道筋は古来松村家(現電信電話局)の門前をすぎ江川橋を渡り本宿に出て北に折れ御休町の御休場に着御するのがコースであった。
処が明治十一年頃より新地(現中央通)漸次人家増加し商家軒を連ね更に堰(小川新地)も又之の通りに接続して
静浜街道として開けて来た。この時南の鰯ケ島に神輿御休場を設けた。そしてこの御休場に通御するに新地より堰へ更に南に至るべく焼津町では相談がまとまった。
焼津新地の住民は之に賛同したが、南へ出るには如何しても他村である小川村堰(小川新地)の承諾を得なければならない。処が当時城之腰村外ニケ村(鰯ケ島村北新田村)の官選戸長飯塚孫次郎なる人があった。
この人曽根十兵衛外堰の主な人々の集った処に米て「若し金五十円を焼津神社に献納すれば神輿が永遠に堰を通るという新例を開いてやらう」と云って来た。
主脳部連も通っては貰いたいが金額が多いので困り区民に謀ったが失張り同様である。再三合議の末金十五円に負けろと折衝した処、飯塚戸長金五十円よりびた一文引けないと煩として承諾しない。
その内明治十九年八月十五日の例祭の当日となり行列は進み松村家前より新地(中央通)に転じて来た。
飯塚戸長使者を曽根十兵衛等の処え急ぎ来らせて「もう行列や神輿が当地に進んで来ようとしている早く献金を決定しなければ神輿は長左衛門稿(ちようざんばし)を渡してしまうが宜しいか」と。
長左衛門僑は田子稿を渡らないで鰯ケ島に越ゆる橋である。当方も再三合議の上決定した金額であるので事急なりとも前言をひるがえすことは出来ない為遂に回答を与えなかった。
処が神輿も行列も中途でうろうろしている訳にもゆかず、且堰にも進むことが出来ず遂に止むなく長左衛門橋に至った。橋は幅一間の狭い稿であり神輿は特大と米ているし、輿かき、警護神宮供奉又行列の人員頗る多く、剰へ拝観人橋の前後に雑沓を極め、よく橋が折れなかったと当時見物に行った古老が述懐した程の困雑であった。
この為翌二十年八月又例祭の時至り遂に前年の困苦に懲り金十五円の当方の申出で、示談整い此地通御の例を永遠に開いた訳である。同時戸長代理より堰への仮領収書には次の様にある。
仮領収証
一金拾五圓也
右者入江神社献納金前書之通正ニ領収候
何レ幹事方ヨリ本証取之差上可申候也
明治二十年八月八日 飯塚孫次郎代 市川鉄蔵㊞
小川村字堰町御中
小川町史
小川町役場 昭和29年12月25日刊所収 原文縦書き
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