20160910
新居
焼津港

小川町には東海道小川駅がある。残念なことに「のぞみ」は停まらない。「こだま」も停まらない。普通浜松行きも停まらない。1500年前の駅なので、線路が無いのだ。

焼津青峰山から田子の橋を渡って小川新地へ向かう。「おがわ」ではなく「こがわ」と読む、為念。

田子の橋は田子重発祥の地なのでわかりやすい。明治13年材木商曽根十兵衛氏が、鰯ヶ島から小川本村まで新道を作り、田子の橋を架けたそうだ。遠州笠井に棒屋が「遠陽市場」を作ったのが明治23年というから、文明開化は鉄道よりも港が早い。田子の橋は田子重発祥の地なのでわかりやすい。

田子の橋の西を「小川新地」というそうだ。本村より6尺低かった黒石川沿いの田んぼを埋め立てて、その後の繁栄の元を築いたそうだ。ところがそうした先人に想いを寄せることなく、「新地」と聞くと大阪・長崎などの、紅灯の巷しか思い浮かばない御奉行連は「新町」と勝手に地名を変えてしまい、地域の歴史を毀損しているので、不動明王の仏罰を被ることであらう。この場合「新地」というのは「場末」ではなく「新都心」のココロなのだ。

明治の地図を見ると、黒石川は青峰山の裏を通って焼津へ落ちていたもので、小川の木屋川へ切って落としたのはのは1970年代のことだという。その後も現在に至るまで、集中豪雨に際しては氾濫の危険性をはらんでいるとのこと。大井川左岸の川は海に当たると北に向かうが、右岸の川は海に当たると南に向かうのも潮流のせいだろうか。

小川本村から大富村へ向かう昔ながらの往還をたどり、小川港に達す。

赤青の舷灯を掲げた船は何かと思ったら、由比港から鑑札をもらって桜海老をやっているのだそうだ。漁船の鑑札は結構古いものが多いので、これも江戸時代にさかのぼるものかもしれない。ステンレスの大きなカゴを積んでいるので聞くとプロペラガードとのこと。

富士川SAで桜えびのかき揚げを食ったら、オキアミだった。

と言ったら笑っていた。

浜には造船所に大型漁船が並んでいる。

明治23年に東海道鉄道が開通し、小泉八雲先生が焼津へ避暑に来るようになったのが明治30年だそうだが、その10年ほど前の祭りの様子を推し量る資料が残されている。

神輿が週る様になった時のいきさつ

焼津神社は元入江神社といった、年々八月十五日例祭には神輿を城之腰に迄進めるのが通例で其道筋は古来松村家(現電信電話局)の門前をすぎ江川橋を渡り本宿に出て北に折れ御休町の御休場に着御するのがコースであった。

処が明治十一年頃より新地(現中央通)漸次人家増加し商家軒を連ね更に堰(小川新地)も又之の通りに接続して 静浜街道として開けて来た。この時南の鰯ケ島に神輿御休場を設けた。そしてこの御休場に通御するに新地より堰へ更に南に至るべく焼津町では相談がまとまった。

焼津新地の住民は之に賛同したが、南へ出るには如何しても他村である小川村堰(小川新地)の承諾を得なければならない。処が当時城之腰村外ニケ村(鰯ケ島村北新田村)の官選戸長飯塚孫次郎なる人があった。

この人曽根十兵衛外堰の主な人々の集った処に米て「若し金五十円を焼津神社に献納すれば神輿が永遠に堰を通るという新例を開いてやらう」と云って来た。

主脳部連も通っては貰いたいが金額が多いので困り区民に謀ったが失張り同様である。再三合議の末金十五円に負けろと折衝した処、飯塚戸長金五十円よりびた一文引けないと煩として承諾しない。

その内明治十九年八月十五日の例祭の当日となり行列は進み松村家前より新地(中央通)に転じて来た。

飯塚戸長使者を曽根十兵衛等の処え急ぎ来らせて「もう行列や神輿が当地に進んで来ようとしている早く献金を決定しなければ神輿は長左衛門稿(ちようざんばし)を渡してしまうが宜しいか」と。

長左衛門僑は田子稿を渡らないで鰯ケ島に越ゆる橋である。当方も再三合議の上決定した金額であるので事急なりとも前言をひるがえすことは出来ない為遂に回答を与えなかった。

処が神輿も行列も中途でうろうろしている訳にもゆかず、且堰にも進むことが出来ず遂に止むなく長左衛門橋に至った。橋は幅一間の狭い稿であり神輿は特大と米ているし、輿かき、警護神宮供奉又行列の人員頗る多く、剰へ拝観人橋の前後に雑沓を極め、よく橋が折れなかったと当時見物に行った古老が述懐した程の困雑であった。

この為翌二十年八月又例祭の時至り遂に前年の困苦に懲り金十五円の当方の申出で、示談整い此地通御の例を永遠に開いた訳である。同時戸長代理より堰への仮領収書には次の様にある。

   仮領収証
一金拾五圓也
 右者入江神社献納金前書之通正ニ領収候
 何レ幹事方ヨリ本証取之差上可申候也
 明治二十年八月八日 飯塚孫次郎代 市川鉄蔵㊞
小川村字堰町御中

小川町史 小川町役場 昭和29年12月25日刊所収 原文縦書き

小泉八雲先生はこうした焼津の祭りを見て
“Japan an Attempt at Interpretation”などを書いたのかもしれぬ。

御一新の後、明治23年に東海道鉄道が開通するまで、西洋式帆船と機帆船が物流を変えた時代があった。各地の港はそれで賑わい、東海道五十三次の宿場で、参勤交代の西国武士をむしって暮らしていた宿場町は苦境に立たされる。入江神社も文明開化で栄えたのかもしれない。藤枝宿では気勢が上がらないというか、まさかにこれまでの宿場の賑わいが消えてしまう、とは思わなかったのだろう。

対照的に青島村の人々は東海道鉄道が村を通ることを知って「これだ。」と手を打ったかもしれない。「駅を作って欲しい。」と金を集めて請願したのが現在の藤枝駅の始まりだ。今も残る煉瓦造の倉庫は開業当時のものだろうか。傍に鉄道記念物の標識があるので、小泉八雲先生の時代のものかもしれない。今度読んでみよう。

1500年前の志太平野は「志太浦」と称する大井川の氾濫原で、牧之原を下って初倉駅に着くと、小川駅までは船で渡したそうだ。「越すに越されぬ大井川」というのは、何も江戸時代に始まったわけでは無い。

大堰川というと保津川のことだそうだが、「越すに越されぬ川」「河川改修が必要な川」を「おおい川」と呼んだこともあるかもしれない。小川新地を「堰」と呼び習わしていたことも気になる。志太平野全体が大井川の氾濫原で、豪雨があると流れはどこへ向かうか分からない、という時代が長かったのだろう。

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