横浜1972

210420

青山アパートから
横浜1972
岬めぐり
シンガポールの大川端
穂國

大学に入学してからも、横浜にはよく遊びに行きました。高校時代の友人が何人か神奈川大学にいたからです。

横浜駅東口のMM21がまだ高島埠頭と呼ばれており、どろりとした匂いを放つ運河があって、荷船が舫ってありました。

1972年、ヴェトナム戦争が泥沼化した頃で、バリケードストライキをやっていた神奈川大学に泊まり込んで、瑞穂埠頭の米軍補給廠に沖仲仕のバイトに行ったことがありました。レートが良かったのと、「何でも見てやろう」という本があり、ベ平連に興味があったので、ちょっと米国まで行って、日本という国の形を見てみる、という興味がありました。

ヴェトナム戦争反対
戦車を止めろ

という看板を潜って中木戸職安で切符をもらい、まっすぐ歩いたところが瑞穂埠頭です。

京浜港運という荷役会社に行って、班長に切符を渡すと米国へ連れて行ってくれます。

国境の橋を渡ると、そこは米国です。

日本人のガードマンがゲートを守っていますが、日本では無いのでカービン銃には実弾が入っており、侵入者を射殺しても罰せられないそうです。駐車場には「日本土産」の乗用車もあります。

向こう側にはリバティ船の着くバースがあります。後年サンフランシスコのノースビーチに接岸したJeremiah Obrienというのにも乗ってみたことがあります。船員や戦時中にリバティ船で運ばれた人達の、同窓会場になっているようでしたが、維持費が嵩むらしく、募金のお願いがあちこちに貼ってありました。

荷役作業できつく言われたのは、荷物を吊っているワイヤはいつ切れるかわからんから、常にワイヤが切れた時に飛ぶ方向をイメージして、ワイヤの下には入るな、ということでした。ワイヤが切れて何10トンの積荷が落ちて、下敷きになるだけでなく、飛んだワイヤが当たれば人間の胴体など簡単に切れてしまうそうです。

どこにも書いてないのに、酒が入っている荷物はわかるようです。すると操作ミスが起こり、荷がばらけて辺りは酒だらけになります。猛者はズボンの中に瓶を隠して持ち帰るようです。

荷箱がばらけて軍服のバッジがザーッと流れ落ちたこともありました。ポケットに入れて持ち帰り、アメ横へ行って売ったら結構な金になったそうです。

圧倒的な米校区の豊かさを見せつけられたのは、休憩時間に食堂を覗いてみたものです。50cm程の皿3枚にハム、ソーセージ、スパムが山のように盛り付けてありました。その時は米国の豊かさを、見せつけられたような気がしましたが、今から見ると最も安い食肉加工品という感じです。

ゲート前にずらりと並んでいたのは生命保険とバーでした。有り金を全部ここで使う人もいたのでしょう。米兵と結ばれて渡米した人もいるでしょう。お幸せな良いのですが。


ヴェトナムでの戦況は絶望的でしたが、日本の造船業は盛んでした。戦後日本の復興は朝鮮戦争から始まったそうです。当時はアルミの梯子を米軍に売って大金持ちになった人がいたそうですが、ヴェトナム戦争の方が規模が大きかったかもしれません。日本は米国の下請けだったのです。第二次大戦後賠償ということで各国に渡した資金は、日本国内の国策企業に還流する仕組みが作られました。それがそのうち無償援助となり、有償援助となりましたが、現地でそれが理解されていたかどうかは疑問です。今では中国が近隣諸国にお金をばら撒いていますが、タダだと思っていたら国家経済が中国のもの、という仕掛けは日本がお手本かもしれません。



泉谷しげると古井戸がフォークコンサートをやっています。

2000年に通りかかったので、同じ場所を覗いてみました。相変わらず日本ではなく米国です。

造船所は無くなって

高島埠頭がMM21になっていました。

岬めぐり
gookという言葉