手許に1971年の連雀大通りの写真があったのを取り出して眺めてみました。
30年間で最も変わったことと言えば、当時は圧倒的に地元資本による、
地元での設計と施工で出来上がっていたまちなみが、圧倒的に東京資本の為の、
東京の設計事務所と建設会社による設計と施工に移り変わっていたことです。
このまま事態が推移すれば浜松市には建築士はいらない、と言う時代が来るのが目に見える様です。
今まで地場産業界の努力によって支えられて来た浜松の街の「
明るい未来」は一体これからどこへ向かうのでしょうか。東京資本の為に、
東京の設計事務所と建設会社が浜松にもたらしてくれる街の「明るい未来」像は、
東京の繁栄のおこぼれにすぎないことが簡単に想像されます。
日本経済全体が調整期に入り、護送船団に拾い上げてもらう時代が過ぎたこれから、
地方都市の「明るい未来」の姿は自分達の手で作り上げる以外にはないのではないでしょうか。
街の「明るい未来」があれば、街には元気が出ます。
そしてこれからますます激しさをまして行くであろう地域間競争に打ち勝つためには、
街に元気があるか、ないかが決定的な要素になる様な気がします。
我が国がバブルの頂上に向けて快進撃を続けていた1980年代、
米国はヴェトナム戦争の痛手に傷付き、将来への希望を失った社会不安に揺れていました。
映画の「バックトゥーザフューチャー」等にその頃の米国の暗い未来が描かれています。
そうした時期、米国の各都市では地元建築士が市民に「未来づくり」を懸命に訴え続けていました。
そして自らの手で街の「明るい未来」の姿を描くことに成功した都市は、
1990年代に入って飛躍的な発展を遂げています。
例えばワシントン州シアトル市では80年代に作り上げられた"VISION2020"が市民に元気を与え、
都市再生の原動力となっています。
肝心なことはそうした未来像が市民・住民と地元の専門家の手で作られることではないでしょうか。
今までの高度成長期の様に「おこぼれ頂戴」では明るい未来はありそうにもありません。
自分達の手で街の「明るい未来」の姿を造り出すことの出来る都市だけが生き残る、
という時代が既に来ている様な気がしてなりません。
建築士会・浜松支部がいわゆる「まちづくり」の為に果たすべき大きな任務はこの辺りにあるのではないでしょうか。
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