建設業にはこのところ「終わりの始まり」みたいな雰囲気が漂っています。
確かに人口比で1:2である日本と米国の建設業のサイズが同じである事から見ても、
業界全体が調整期にあることは確かでしょう。しかも問題は我が建設業界に留まりません。
日本の経済・社会全体が、明治以来歩んで来た近代化の道のりを、
振り返る時期に来ているとも言えるのではないでしょうか。
「買ってはいけない」という本がこのところベストセラ−になって話題を呼んでいます。
雑誌に連載された各種商品の安全性チェックをまとめたものです。
目を通してみると、日本の「消費者」がバブル崩壊と共に、
順調な経済発展の為に疑う必要のなかった近代化と、同じく疑うこと無く買い求めていた、
近代的な商品に不安を抱き始めていることが見て取れます。
戦後日本の経済構造を「護送船団方式」と称することがありますが、
産業側が「護送船団」によって守られていたのと同様、
消費者の側も「護送船団」によって守られていた様な部分が有りはしないでしょうか。
自分でもはっきりと自覚しないままに、高度消費社会に引き込まれて、その恩恵に与っていたという。
明治時代はさておき、我々の知る限りの戦後における、
浜松の歩みは常に街の「明るい未来」に恵まれていました。
焼跡というどん底から始まった浜松の戦後復興は
「神武景気」「所得倍増」「東京オリンピック」「大阪万博」
という日本の戦後を代表するかの様に「ガチャ万」の時代からから「ポンポン」の時代へ、
そして「テクノと自動車」時代へと不思議な程順調に推移しました。
街の「明るい未来」は常に手の届くところにあったのです。
戦後五十年間、順調に走り続けた日本は先進国と肩を並べる経済大国になりましたが、
ここに来て「息切れがしてひと休み」といったところです。
「日本人はしょんぼりする時も皆一緒に、しょんぼりする必要のない人までしょんぼりしてしまう。」
と言われる通り、浜松の街にも元気がありません。
話をするにも中心市街地の地盤沈下、設備投資の海外移転といった話題が中心となってしまいます。
こうした時代、我々建築士も目前の業務に留まらず、
「浜松が元気になる法」を考える必要があるのではないでしょうか。
長い目で見て建築士の業務が発展するためには、街が元気になることが欠かせない条件だと思います。
戦後の五十年間、あるいは建築士会の五十年間を振り返って、気になるのは東京を含め、
日本の大方の都市がそうである様に、浜松の街の「明るい未来」も、
浜松に住み、仕事する「浜松人」が自分の頭で考えたものばかりではない、
というところです。もう長い間、自分の頭で考えなくても、
街の「明るい未来」は常に何処かから降って湧いたものだったのです。
確かに「ガチャ万」から「ポンポン」へ、そして「テクノと自動車」という地場産業界での
「浜松人」は、平均的日本人にくらべれば自分の頭で考える能力に優れていた様です。
しかしそれに較べれば、というよりそうした環境に恵まれ、
後を追う形で浜松の街は作り上げられて行ったのではないでしょうか。
もちろん他の街にくらべれば浜松駅前が「歩道橋のおばけ」になってしまうことを防いだのは、
我が建築士会の先輩を初めとする「浜松人」の努力によるものでしょう。
しかし、戦災復興都市計画の初期、市長の首を飛ばす事態にまで発展したまちづくりのうねりは、
新幹線開通・駅前整備の頃を境に次第に収束して行きます。
|