終わりの始まり



伊達の都の夜は更けて


 某月某日、仙台のライトアップを見物。仙台を「杜の都」というのは戊辰敗戦後、 市内が荒れ果てて、草木が生い茂ったからだそうであります。 ではありますすが伊達男と伊達女の都ですので、 すっかり勢いを取り戻して暮れの夜も賑わっているのであります。 私の様な田舎ものは現在のア−ケ−ドの豪華さ、 商業集積も無いのにビジネス街のブールヴァールをライトアップしてしまう剛毅さに魂消てしまいます。 なにせ伊達の都でありますので、元禄の頃には「芭蕉の辻」とて、 田舎ものが目を回しそうな、この世のものとも思われぬ豪華さを誇る町並景観が出来上がっていたのであります。

一説には「杜の都」になったのは戊辰戦争の為だけでなく、 積年の財政赤字によるものとも言われております。 領民の1/3が餓死したという天明の飢饉以降、幕末まで藩財政が回復することはなかった、 のだそうであります。そうした歴史を飲んだ「芭蕉の辻」の現在は、 というと、一角は日本銀行仙台支店さん、これは解りますね。 明治9年、金碌公債とともに始まった近代財政の出先です。 後の3軒はというと、先ずは安田善衛門さん、、、 この方は百万両貸して「仙台の米は升屋の米」といわれ、 結局三十万両を踏み倒された蔵元升屋の代わりに、 明治のGHQが連れて来たのでしょうか。次が第七十七銀行さん、 大蔵省の御指導のもとに合併なさった、地元の蔵元でありましょう。 と残る一軒を見ると看板が出ていない。 「はて、こちらはどなた。」 と引き上げながら裏門を見れば、取り忘れた表札が「山一証券」。


東海道新幹線は

 丸子橋下流で多摩川を渡り東京へ入ります。 線路は久が原台・荏原台・目黒台という武蔵野大地の東端を一直線に走り抜けます。 台地は切り通しで削り、谷筋には所によっては高さ30mを越す様な高架橋が掛けられています。 台地部分では切り通しが騒音防止上も有効なのですが、車窓から谷筋の屋並みを見下すと、 さぞかしうるさいだろうな、と思います。

 その昔、「地獄の黙示録」というヴェトナム戦争の映画があり、 ヴェトナムのジャングルの上を行く米軍のヘリコプターがオープニングシーンでした。 大田区雪ケ谷・馬込といった谷筋上空を「飛行」する新幹線は、 丁度その高さが「地獄の黙示録」のオープニングで、 ジャングルの上を行く米軍のヘリコプターに似ているのではないかと思うのです。 映画ではバックに確かワグナーの「ヴァルキリーの飛行(ひぎょう、と読んで下さい。 その方が無気味です。)が流れていました。血塗られた地獄の戦場から選ばれた勇者を、 天国にある「勇者の国」へ連れ去る、という北欧のヴァルキリー伝説を基にした音楽ですが、 ここでも台地の上に並ぶ 学校・工場・近代的住宅地と、 谷筋にひしめき合う江戸時代からあまり変わらない姿の町家が、見事な対象を示しています。

 明治22年の東海道鉄道開通と共に、府内から溢れ出た手工業が大田区の基になっている、 といわれます。線路の左手、田園調布は後藤晋平が、 当時の北米の近郊住宅街とイギリスで提唱された「田園都市」を基に構想されたことで解る様に、 東京の近代を象徴しています。それと対照的に谷筋にひしめく町並には、 江戸時代の「場末」がそのまま増殖したのではないか、という思いを強くします。

 日本近代産業揺籃の地を抜け、大崎で山手線と合流した新幹線は東海道八ツ山橋を潜り、 高輪大木戸あたりで右に曲って江戸城の外堀に作られた駅に到着します。


 

 

建設業にはこのところ「終わりの始まり」みたいな雰囲気が漂っています。 確かに人口比で1:2である日本と米国の建設業のサイズが同じである事から見ても、 業界全体が調整期にあることは確かでしょう。しかも問題は我が建設業界に留まりません。 日本の経済・社会全体が、明治以来歩んで来た近代化の道のりを、 振り返る時期に来ているとも言えるのではないでしょうか。

「買ってはいけない」という本がこのところベストセラ−になって話題を呼んでいます。 雑誌に連載された各種商品の安全性チェックをまとめたものです。 目を通してみると、日本の「消費者」がバブル崩壊と共に、 順調な経済発展の為に疑う必要のなかった近代化と、同じく疑うこと無く買い求めていた、 近代的な商品に不安を抱き始めていることが見て取れます。 戦後日本の経済構造を「護送船団方式」と称することがありますが、 産業側が「護送船団」によって守られていたのと同様、 消費者の側も「護送船団」によって守られていた様な部分が有りはしないでしょうか。 自分でもはっきりと自覚しないままに、高度消費社会に引き込まれて、その恩恵に与っていたという。

明治時代はさておき、我々の知る限りの戦後における、 浜松の歩みは常に街の「明るい未来」に恵まれていました。 焼跡というどん底から始まった浜松の戦後復興は 「神武景気」「所得倍増」「東京オリンピック」「大阪万博」 という日本の戦後を代表するかの様に「ガチャ万」の時代からから「ポンポン」の時代へ、 そして「テクノと自動車」時代へと不思議な程順調に推移しました。 街の「明るい未来」は常に手の届くところにあったのです。

戦後五十年間、順調に走り続けた日本は先進国と肩を並べる経済大国になりましたが、 ここに来て「息切れがしてひと休み」といったところです。 「日本人はしょんぼりする時も皆一緒に、しょんぼりする必要のない人までしょんぼりしてしまう。」 と言われる通り、浜松の街にも元気がありません。 話をするにも中心市街地の地盤沈下、設備投資の海外移転といった話題が中心となってしまいます。 こうした時代、我々建築士も目前の業務に留まらず、 「浜松が元気になる法」を考える必要があるのではないでしょうか。 長い目で見て建築士の業務が発展するためには、街が元気になることが欠かせない条件だと思います。

戦後の五十年間、あるいは建築士会の五十年間を振り返って、気になるのは東京を含め、 日本の大方の都市がそうである様に、浜松の街の「明るい未来」も、 浜松に住み、仕事する「浜松人」が自分の頭で考えたものばかりではない、 というところです。もう長い間、自分の頭で考えなくても、 街の「明るい未来」は常に何処かから降って湧いたものだったのです。 確かに「ガチャ万」から「ポンポン」へ、そして「テクノと自動車」という地場産業界での 「浜松人」は、平均的日本人にくらべれば自分の頭で考える能力に優れていた様です。 しかしそれに較べれば、というよりそうした環境に恵まれ、 後を追う形で浜松の街は作り上げられて行ったのではないでしょうか。 もちろん他の街にくらべれば浜松駅前が「歩道橋のおばけ」になってしまうことを防いだのは、 我が建築士会の先輩を初めとする「浜松人」の努力によるものでしょう。 しかし、戦災復興都市計画の初期、市長の首を飛ばす事態にまで発展したまちづくりのうねりは、 新幹線開通・駅前整備の頃を境に次第に収束して行きます。 

pagetop