「我が国の更生保護の源流は、明治21年、金原明善による保護団体の設立にあると言われています」
 令和元年10月7日東京国際フォーラムにおいて、天皇皇后両陛下ご臨席のもと、5000人が参加し更生保護制度施行70周年記念全国大会が執り行われた中で、大島 理森 衆議院議長が祝辞の冒頭で述べられた。
 その約1ヶ月後の11月14日、南保護区保護司会の視察研修として保護司と更生保護女性会員が更生保護の父とも言われている金原明善翁の生家を訪れました。
 明善の孫にあたる記念館の金原利幸館長から1時間近く仔細に説明をいただいた後、館内を見学しました。
 明善を保護団体の設立に走らせたのは「吾作事件」がきっかけと言われています。
 吾作事件について『法務省HP更生保護の歴史』から引用して紹介します。
 「当時,静岡監獄に,あらゆる罪科を重ねた吾作(仮名)という囚人がいた。多くの看守,押下がほとほと手を焼くほどの問題受刑者であったが,副典獄(今でいえば刑務所の副所長)であった川村矯一郎の熱心な訓戒が効を奏して心底悔悟するに至り,出所の時には川村副典獄に「今後は道に外れるようなことは,誓っていたしません」と必ず更生を遂げ再び監獄には戻らないことを誓って獄を去っていった。
 吾作は,10年以上も獄にあった。喜び勇んで我が家あたりまで帰りついて見ると,背戸の柿の樹も,庭の木々も昔のままに繁っている。己が家も昔のままではあるが,中に住む人は変わっているらしい。様子をうかがってみると,もはや父母はなく,かつての我が妻は他人の妻となっているらしく,見知らぬ三人の子供たちと仲睦まじくしている。そのまま家に入っていくわけにもいかず,やむなく村内の親戚を訪ねて一夜の宿を乞うたが,「お前のような悪者は泊めるわけにはいかない」とにべもなく断られ,せめて一晩庭の隅なりと頼んだが,それさえもまかりならぬと追い返されてしまった。すごすごと引き返した彼は,警察署にゆき,その袖にすがろうともしたが,「放免になった者を手にかけるわけにはいかない」という。
 寝るに宿なく,食するに一文の金もない。以前の彼だったら,たちまち悪事に走ったはずである。が,脳裏に浮かぶのは,川村副典獄の訓戒である。川村副典獄との約束である。二度と悪事はできない。彼は遂に川村副典獄にあてた長い書置きを残して,村外れの池に身を投じ,自らの命を断ってしまった。
 矯一郎は,この報知を受け,書置きを手にすると長大息をついた。そして金原明善に会うと事の仔細を語った。話を聞いた明善は,「川村さん,あんたの名訓戒も,人を殺すに至っては功徳とはいえない。改心して監獄を出た者を社会の中でしっかりと保護する方法を考えなくてはいけません。常々,あんたは,欧米には出獄人を保護する団体があると言っているが,それをなんとか,静岡県にも作ろうではありませんか」と提案をした。この出獄人保護会社の設立の発端となる金原明善と川村副典獄とのやりとりは,明治20年中のできごとと思われる。ここに二人の行脚が始まり,県下の有力者を主唱者に依頼して,出獄人保護会社の設立を図ろうとする運動が始まったのである。」

金原利幸館長の説明 明善記念館(生家)内 明善記念館内
金原明善翁生家と書かれた石碑 明善記念館全景 遠州の古刹 龍潭寺にて