愛知の産業遺産を歩く 27


船頭平閘門

Sendohira Lock

−治水事業の遺産−

Heritage of flood control enterprise


石田正治

ISHIDA Shoji


 木曽川・長良川・揖斐川というわが国有数の大河が流れる濃尾平野、肥沃な大地ではありますが、かつては洪水の多発地帯でした。岐阜県海津町油島の地は、水源の異なる三川が合流し、もつれあうように流れていたために、洪水氾濫が繰り返される地域でありました。人々は自衛のために輪中を造り、水害を防いでいました。しかし、輪中だけでは、水害をなくすことはできません。根本的な解決策は入り乱れて流れる三川を分離することでした。


三川分流工事

 最初の分流工事として知られているのは、薩摩藩士によって行われた宝暦治水(1754〜55)です。三川の内、木曽川の土砂流出が多いため、木曽川、長良川、揖斐川の順に河床が低く、油島の所では河床の高低差は八尺(約2.4m)もありました。そのため、増水になると木曽川の奔流が長良川へ、それがまた揖斐川へと流れ込んで水先を押さえるために、最も低い位置にある揖斐川流域の洪水被害は甚大でした。宝暦治水では、そのためにまず揖斐川と木曽川(長良川)を分離する工事が行われ、締切堤が造られたのです。締切堤には工事の完成を記念して植えられた日向松が今は大樹となって茂り、通称千本松原と呼ばれています。
 宝暦治水は、三川分流をめざした最初の事業でありましたが、工事は完全なものではありませんでした。その後も人々は洪水に悩まされつづけたのです。
 明治になり、政府は雇工師の オランダ人技師デ・レーケに木曽三川の治水計画を委ねました。デ・レーケは、1878(明治11)年、現地を踏査して改修計画をまとめました。工事は1887(明治20)年に着工、25年の歳月を要して三川を完全に分流することに成功したのです。
 国営木曽三川公園にある展望タワーに登れば、三川分流工事の偉業の跡を一望にもとに眺めることができます。
右から揖斐川、長良川、木曽川。揖斐川と長良川を分離しているのが千本松原締切堤

From right,the Ibi-river, the Nagara-river, the Kiso-river. The Senbonmatubara separated the Ibi-river and the Nagara-river.


船頭平閘門

 三川分流工事によって、不便になるのは船と筏です。当時は、桑名が物の集散地でした。例えば木曽の木材を筏にして桑名まで運ぶとき、揖斐川と長良川では今の伊勢大橋あたりで合流しているためそこで船は行き来きできますが、木曽川と長良川では、一旦伊勢湾まで出なければならず、かなり大回りとなります。そこで、木曽川の河口から約12km遡ったところ、海部郡立田村船頭平の地に三川分流工事の一環として木曽川と長良川を結ぶ閘門が造られました。
 閘門とは、水位を調整する土木施設です。逆流を防いだり、水位差のある川や運河を通る船のために水位を調整します。世界的に有名なものは1915年完成のパナマ運河の閘門です。日本では、江戸時代に造られた埼玉県の見沼通船堀閘門が最初の閘門で、最大のものは、1921(大正10)年に完成した利根川と横利根川を結ぶ横利根閘門です。
 船頭平閘門は、1899(明治32)年に着工、1902(明治35)年に完成しました。構造は、標準タイプで写真にみるように中央の閘室と呼ばれる水槽を鋼製の扉ではさんだものです。前後の扉を交互に開閉することによって、水位を上下させて船を通すのです。
 船頭平閘門の大きさは、当時使われていた最大の船に合わせて造られました。全長は約56m、閘室は幅4.9m、長さ24mの巨大な水槽となっています。閘室の土手は石を張り、前後の扉の部分は煉瓦積みとなっています。記録によれば、煉瓦を約180万個、セメント1390トン使用しています。煉瓦は赤紫色で、煉瓦積みの部分は、 角を石で装飾的に補強 しています。美観にも配慮したていねいな仕事ぶりがうかがえます。
 船頭平閘門が完成した明治末期は、年間、筏が2500枚、船が約二万隻(一日平均60隻)がこの閘門を利用しました。昭和になっても年間一万隻の船が通行していましたが、1933(昭和8)年に尾張大橋、1934(昭和9)年に伊勢大橋ができて陸上輸送の時代となり、その数は激減しました。現在は漁船やレジャーボートがわずかながらに閘門を利用しています。
 なお現役ではありますが、三川分流工事の完成によって誕生したのがこの船頭平閘門であり、それは治水事業の記念碑というべきものでょう。船頭平閘門一帯は船頭平河川公園として整備され、その公園内には、デ・レーケ像が立っています。また、公園の一角には、治水史や郷土史、三川分流の工事誌、デ・レーケに関する資料を収集公開している木曽川文庫があります。     (いしだ しょうじ・愛知県立豊橋工業高等学校)
船頭平閘門

Sendohira Lock, built in 1902.


◇メモ

◆輪中

水害を防ぐために、一村または数村が堤防で囲まれ、水防共同体を形成したものをいう。

◆ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke 1842-1913)

1842年、オランダのゼーラント州コリンスプラートで、海岸港湾建設業者の息子として生まれる。家業に従事しながら土木工学を学ぶ。1873(明治6)年に来日、1910(明治43)年に帰国するまで、日本各地の河川・港湾の土木工事の計画・指導をした。1913年、アムステルダムで死去。


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