文化祭での指南車の展示は大きな話題となり好評であった。新聞各紙とテレビが復元された指南車を紹介した中で、テレビのニュースを特に注目して見た人がいた。高山の南車台組の人々である。さっそく学校に問い合わせの電話があり、文化祭の終わった一週間後には学校に訪ねて見えた。話を伺えば、かつて南車台組は、指南車を持っていたという。歴史は古く、天明5年(1785)に屋台製作の見積もりの記録があり、天明8年(1788)には祭りに曳かれている。ところが明治31年(1898)、組内34件が高山大火で全焼するという悲運に遭遇し、焼け残った屋台は維持存続が困難となり、他に譲渡されて、その後は消息不明となって今は現存していないようである。以来、テレビニュースを見るまでその指南車がどういうからくりものであったのか、わからなくて復 元できずにいたのである。
南車台組の人々の熱意に心を惹かれ、同年の師走、高山を訪ねた。組が現在所有しているの祭りの代車を調べて、指南車に改造できるものか、その可能性を探るのが目的であった。まだ、私は高山祭を見たことがなかった。屋台は、屋台会館で見ることができたが、実際に祭りに曳き回される屋台を設計するとなるとことは簡単ではない。どのような問題が介在しているのか、想像もつかないことであった。ただ、直感的にいい機会であるように思われた。調査の翌日、日枝神社を訪ね、そこから屋台が曳き回されるであろう道を想定して、歩いてみた。屋台としての指南車のイメージが少しづつできつつあった。豊橋に帰り、さっそく構想図を描いてみることにした。以後、屋台製作の話はトントン拍子に進んだ。かつては、皇帝の権威の象徴であった指南車、幸運を強く引き寄せ、不可能と思えたようなことが可能になった。以下、月日を追って、春祭りに指南車が披露されるまでを紹介しよう。
ところで指南車は、祭りに曳くことができるようになったが屋台として完成してはいない。これからは、漆を塗り、金の金具を付け、飾りの彫刻も付けたりして、他の屋台のようにきらびやかになっていくのであろう。
振り返ってみれば、その構想から完成まで無我夢中になった4カ月であった。3月になり、祭りが近づくと徹夜の作業が続いた。むずかしい局面も少なくなかったが、不思議に付きが回ってきた。普段、縁起を担ぐようなことはないのだが、この指南車には何かそうした福の神が乗り移っているように思えた。祭りに幸運を招く指南車として、末長く飛騨びとに親しまれることを祈りたい。
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