『no media』

言葉の先にあるもの  VA.『no media』

ポエトリー・リーディング。言い方はどうあれ詩の朗読。歌詞ではなく、詩を語る。

友部正人が呼びかけたミュージシャン達による、ポエトリー・リーディング・アルバムだ。ミュージシャンが、リズムを捨て、メロディを捨て、言葉だけで立ち向かう。何をビートニックの真似事を、面白くねぇに決まってら、と半ば投げやりに聞き始めた。

まずは言い出しっぺの友部による「アクシデント・ツーリスト」で始まる。彼らしい、反復の多い歌詞、いた詩だ。野外で録られたのか、バックには車の音やざわめきがかぶっている。"語る"というよりも文字に書かれた文章を"読む"といった感じだ。決して上手くはない。ぼそぼそと、ほんの少し照れくさそうに進んでいく。

真島昌利、知久寿焼、そして高田渡と続く。「夕暮れ」。懐かしい言葉だ。彼の初めての詩集『個人的理由』に収められていた詩だ。高田渡の場合、ギターがあろうと無かろうと、あまり変わりはしない。ギターの響きがふと止まった瞬間、歌だけがふいに流れ出す時、僕らは何度も渡のポエトリー・リーディングを聞いてきた。語るリズムで歌っていたのだな、としみじみ思ってしまった。

山口洋の咳払いが聞こえた瞬間、このアルバムは表情を変えた。唐突に投げやりな言葉がぶつかってくる。なんの衒い技巧も無いのだが、言葉が太い。そこには"歌うべき"ではなく"語るべき"言葉が存在する。「スウィート・ハート」。このトラックで頂点を迎える。つまらなそうに、感情のかけらも見せずに事務的に突き進む言葉の中に、たまらなく躍動が響いてくる。誰にでも気に入った仕草、心地よい仕草がある。例えば、ひょいと珈琲カップをつまむ指でも、そこに音楽が宿る事がある。山口洋のリーディングは、まさにそんな仕草に似ている。

読み手、としてはアルバム中随一の宮沢和史。その上手さが言葉を滑らせてしまう。表現が巧みになればなるほど、空疎になってしまう。これがポエトリー・リーディングの難しさか。時間そのものを、レコーディングというよそ行きの姿よりもっと自然な時間を記録するのが、ポエトリー・リーディングだ。友部の「札幌」は、1曲目の「アクシデント・ツーリスト」よりももっと自由な時空を記録している。水谷紹の鼻にかかった情けない声にも、独特の風景が焼き付いている。ほんのりと録音された時の空気が匂ってくる。強烈さにかけては、やはり遠藤ミチロウの「パティ・スミスの『ラジオ・エチオピア』が聞こえる」だろう。読み進めていくうちにいつしか熱を帯びていく。この温度差の時空列に聞き惚れてしまう。

text by 小川真一


[B E A T E R 's E Y E]