Cross Review
[ ハリーとマック を語るクロス・レビュー編 ]

Harry&Mac

架空のラストシーン/石井英和

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 これは、オ−プニングが作られただけで放り出されていた映画のためのラストシ−ンだな、とか思ったわけです。映画本体は存在しない。空白のスクリ−ンに風だけが吹き抜けている。

 ハリ−&マック両氏がまだ新進気鋭のミュ−ジシャンで、ベルボトムのジ−ンズを本気で履いていた70年代初め。彼ら二人は、それぞれのやり方でニュ−オリンズへの憧れを歌っていた。でもって、20年以上の歳月をすっ飛ばして、今、二人は肩を組み、「さあ、懐かしいニュ−オリンズへ帰ろうよ」と歌っている。が。このアルバムの世界から逆算して、二人が「ニュ−オリンズの日々」を送っていたはずの時期のアリバイ潰しをすると、ハリ−氏はテクノのオジサンをやっていたし、マック氏は東南アジア方面で現地の歌手の音盤制作にかかわっていた。いなかったところには帰れませんてば。

 外国の音楽を自らのものとして奏でるなんて、実のところ、不可能事だ。そんなことする必然性って、どこにもないんだもの。だけど、惚れちゃったら仕方がない、やるより。だけどそこは血の池地獄だ。いなくていい場所にいる自分を正当化するための、不利な戦いを戦わねばならないのだから。ただ、何も手にしていない青年が、遙か遠くの惚れた音への憧れを歌うのは勝手だ。たとえ破れ去っても、その姿は時に美しくも見える。その「オ−プニング」を踏み出したと主張する権利は、ご両所とも、確かに所持している。

 そして今、流れ過ぎた時間の果てにこのアルバムが、「懐かしのニュ−オリンズ再訪」を記念する二人のスナップ写真が、飾られた。それには、初めから古びて見えるように、セピア色の着色がなされている。旅されることのなかった旅の終わりだ。オ−プニングはすでにあり、今、エンディングを作り上げたのだから、「本編」もどこかに存在するはずだ、という不思議な論理の元に、「懐かしいニュ−オリンズ」は戦わずして二人のものになった。

 アルバムのサウンドは立派なものです。日本人名義のこんな音を20数年前の「あの頃」に聞かされていたら、私は。ひゃあ。たまんねえだろうな。が、この「立派さ」は、実は、魚釣りに行ったけど、釣り糸は垂れず、帰りに魚屋に寄り、金を出して買ってきた魚の「立派さ」だ。いつの間にか、その金を都合できる地位を、ハリ−&マック両氏は、手中にしてしまっていた。あえて、「悲しいことに」と言おう。

 その「立派な音」の中の二人の歌声は、なんだか私には不安を孕むものに聞こえる。二人のタマシイの疲弊が感じ取れる。実のところ、二人は一体、無意識の部分では、何を求めてこのアルバムを作ったのだろう?二人は期せずして、遂に手に入れられなかったもの、あるいはどこかに落として来てしまったものへの挽歌を奏でてしまった、そんな気がしてならない。哀しいアルバムだと思う。


石井英和
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