Cross Review
[ ハリーとマック を語るクロス・レビュー編 ]

Harry&Mac

なしくずし的卒業検定/中山義雄

LINE

 『ハリー&マック』はオヤジによるオヤジ狩りではないかと穿った見方もしたくなるが、20年遅れて届けられた卒業アルバムというような感傷は確実に裏切られる。ヴェテランが余裕で作った味わいはない。アルバムのコンセプトはキャッチーだが、中身はあくまでも計算された音楽であり、そういう意味では昔のままなのだ。70年代に日本のロックが目指した水準というのを、もっとも解り易く提示してくれていたのが細野晴臣氏のYMO以前の仕事だとすれば、『ハリー&マック』に接すると、日本のロックは20年以上にも卒業検定をなしくずし的に放棄したまま留年を続けていたことを追認させられるからである。

 では、このアルバムはある世代にとっての卒業試験に当たるのかというと、それもまた違うのである。まあ、数曲の出来の良いトラックでは、モラトリアムの良さというのを、後ろめたい気持をともない噛み締めることはできるはずだ。屈折したノスタルジアだね。

 出来の良いトラック、たとえばズルズル引きづるような和製スワンプ、「マグノリア」などは、空間の生かし方が上手い。20年前ならローバック・スティプルズばりにトレモロを効かせたギターのフレーズを中心にサウンドを組み立てしまっていただろうが、音楽全体を久保田はしっかりコントロールしているのが解る。久保田がここ数年手掛けたハワイアンのサウンド・プロダクションは素晴らしく、10年前のサンディーの仕事よりは遥かに評価できるものだと思う。久保田の錬金術が生かされているのは、もう1曲金延幸子のカヴァー「時にまかせて」である。このテンポ(『デキシー・フィーヴァー』の「ワイルド・アバウト・マイ・ラヴィン」や「らくだブルース」の線)で、全体が統合され、曲のクオリティーもこの(3)(13)の2曲の水準に達していればというわけにはいかなかった。蛇足ながら(10)は久保田のオリジナルとなっているが、ジェリー・リー・ルイスの「ミート・マン」のデイヴィッド・リンドリーのヴァージョンを下敷きにしたもので、このあたりも変わらないといえば、昔のままか?

 和製の亜米利加音楽としてばかり、本作を見るのは不本意かもしれないが、アルバム全体を覆うダウナーな雰囲気、明らかにジョン・フェイヒー風のギター・ピース(7)やら、藤原進也はだしの"ポエム"をロビー・ロバートスン風に朗読する(2)など、原理主義的なリヴァイヴァルから解放された90年代のアメリカ音楽の新しい流れに目配りが効いているのは明らかだし、70年代の細野&久保田の諸作同様に遠心力がテコになっているのは間違いない。優れたロック・ミュージックとは、必ずしもドラスティックな感覚の延長線上に存在しなければいけないなどというつもりもないが、「時にまかせて」を聴くにつけ、大リーガーの圧倒的な力量やプロダクション・レヴェルの成熟を、超える何かが音楽を輝かせるのだということを教えてくれる。


中山義雄
LINE

[Harry & Mac Top] | [CONTENTS]