キネマ館に雨が降る(映画的日記片)

【キネマ館に雨が降る】

その1 オープニング・ロール
 その路面電車は「チンチン電車」と呼ばれている。駅に止まるその度に、チンチンという鉦の音で合図をし、そしてまたチンチンというその鉦の音で出発を知らせる。
 トントンと、チンチン電車のステップを降りる。路面の一角のセーフティゾーンはまるで浮かぶ驛にある沈むホームのように、一段高くしつらえてある。とても素早く飛び降りた僕は、飴色の空に、とっておきのメロディを口笛で吹かしてみる。
 ガタンッゴトンッ、ゴトンッガタンッと発車するチンチン電車をやり過ごし、僕はまるでアメリカ映画のように車の隙間を縫いながら車道を突っ切って、その寂れた商店街へと続く露地へと入り込む。

 此処からなら、永遠の遠国。
 烟草屋では、今日もまたちっちゃな老婆が雲を浮かべて烟草をふかしつつ微睡み、微睡みつつ雲を浮かべて烟草をふかす。その烟草屋の角を曲がると、ひねもすひっそり閑と、ビリヤード。テラスには、今にも朽ちて落ちそうな「ダンスホール」というネオンサインが、肩身を狭そうに寄り添ってある。
 キネマ館が見え出すと、不思議に飴色の空は、その破れ目から、雨を降らす。
 今日もキネマ館に雨が降る。
 小走りになった僕は、仰々しくもけばけばしい映画の看板に視線もくれず、切符売り場の薄幸そうなお姉さんに声をかける。
 「大人を一枚、くださいな」
 物差しを使っては切符を一枚切り離し、私はこんなに不幸なの、仕草の中にもねっとりと、そのくせ、もぎりはきびきびと。
 ひとっこ一人いもしないロビーは、いつも決まって夕暮れて、重たいドア一枚向こうの闇夜へと僕を誘う。
 古鉄の塊のように鈍重な自動販売機から濃ゆい珈琲を一杯、烟草を一服燐寸で火を点けて、ふうぅっと烟を吐き出すと、烟は何にもなかったような夕暮れに溶け込んでいく。
 頑是なくもがっしりとしたドアを開ける。突然に流れ出てくる音と闇に、夕暮れ夜が一線を乱して鬩ぎ合う。ドアは締まり、人工の夜の闇に体が慣れてくる。僕がいつもの居心地の好いシートに身を沈めると、古いニュースフィルムは、キネマ館の中にも、ざぁざぁ雨を降らす。
 キネマ館に雨が降り、降られるままに僕はキネマと雨の煙る世界に我を忘れる。
 開幕のベルは華やか、だ。

  イメェジ
 はっぴいえんど『風街ろまん』
 あがた森魚『噫無情』
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 幾人もの人々によるサインの文字が、右から左へと流れていく。イランの国の映画、だ。両親によって、軟禁されている二人の少女を助けて欲しい。隣人の手による嘆願書なのだ。
 実際にあった話だという。新聞報道があって、若干十八歳というサミラ・マフマルバル監督が、現場へ行き、当事者たちの出演を得て撮られた映画だという。
 そのタイトルはシンプルにして『りんご』。
 なぜ父が少女たちを軟禁するに到ったか。それは哀しみの物語である。国や風習や宗教や貧困の織りなす嘆きの物語でもある。が、単純明快な児童虐待の物語とはいえない。
 縷々語る父親は、恥じることなく正直だ。福祉事務所の女性は、負けることなく強情だ。そして、何にも増して、二人の少女の表情は、開けっぴろげできらきらと光る。
 もどかしい口調も、たどたどしい歩き方も、危なっかしい人づきあいすらも、そのすべてが、初々しく瑞々しい。その少女は手にしたリンゴでポコンと友の頭を叩く。それは嫌いだからではない。好きだからこそ叩くのだ。
 生きてるって、きっと相反していることなのだ。だから「不仕合わせ」と「幸福」もまた、コインの裏表に違いなく。
 遠いイランという国が、今、ここであるかのように思えてくるから不思議だ。
 映画は、天・地・人を選ばず。差異と同一もまたコインの裏表でしかない、きっと。


                              text by あがった

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