Conversation
[ Yonaka&Shinyaの Harry&Macを語る 深夜対談編 ]
MidnightConversation

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松山"Shinya"晋也 & 中山"Yonaka"義雄

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Round about Mid-Night
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Yonaka yonaka:じゃがたらのOTOなんかは言っていたけど、70年代の細野晴臣の『トロピカル・ダンディー』からの3枚のアルバムの路線とかを継承しようとするような"90年代の日本のロック"って見当たらないですね。

Shinya Shinya :エスニックという意味ででしょう。なくなってしまったね。

Yonaka yonaka:『ハリー&マック』に関して最初にポイントになるのは、細野/久保田の両氏のなかで、70年代的な路線というのは、その後のYMO/サンセッツの時代にも培われたきたのか、それとも切れていたものがここに来て急浮上したのか?そのあたりの脈絡だと思います。

Shinya Shinya:難しいところだ(笑)。久保田麻琴に関していうなら、"切れていた"・・・・・・・
というより、忘れていた路線だと思うね。忘れたかったのかな(笑)。
そのあたりは解らないけどね。いまの90年代の空気が、彼に昔の自分を思い出させたんじゃないかと思うんだ。


Yonaka yonaka:松山さんは『ミュージック・マガジン』でも細野氏にインタヴューもしてますが、制作に至った経緯のようなものを簡単に。ラジオの番組で細野さんが語ったところによれば、ハリー主導でこのプロジェクトは動き出したみたいですが。

Shinya Shinya:そのあたりはぼくのインタヴューでは触れなかったけど、細野さんが言うには、ずっとこの10年来、ふたりでなにか演ろうって会うたびに言っていたという話です。久保田さんにしてもほんとうに演りたかったと思うんだ。

Yonaka yonaka:ぼくはね、70年代に彼等が目標まで到達したとは考えていなかったんです。細野晴臣の『はらいそ』、夕焼け楽団の『セカンド・ライン』、高橋ユキヒロ『Saravah 』、ムーンライダース『ヌーヴェル・ヴァーグ』、矢野顕子の『ト・キ・メ・キ』、どれも70年代後半の見事なアルバムですが、あの時点で日本のロックはサウンド・プロダクションという意味でスタート・ラインに立ったんじゃないかと考えてきました。そしたらニュー・ウェイヴが来てしまった。で、積み上げてきたものを壊してしまいますよね。このあたりはぼくの個人史とも大きくリンクしてるわけで、ヒジョーに屈折率が高そうなアルバムが出てしまった。あの当時を知ってる人間には『ハリー&マック』素直に喜べない。ヤバイなと思いつつも、ないことにしてしまえば(笑)、いいんですが、やっぱり気になって、買ってしまいました。それで、すごく素直に聴けてしまいました(笑)。困ったことに………。「マグノリア」と金延幸子の「時にまかせて」が、ベスト・トラックです。

Shinya Shinya:もちろん、ぼくも素直に聴けて、久保田麻琴の歌って素晴らしいなって思ったんです。それこそ素直な感想としてね(笑)。ぼく自身のなかにも凄く響いたのは”歌”なんだよね。日本人で、ほとんどマトモに歌を唄える奴なんていないんじゃないかってずっと思ってたんですよ。もっと端的に言うと80年代以降ね。それで時が経つにつれて下手さが加速していると思う。歌が下手というより、表現力として稚拙になってきてるというのが、ぼくの持論だったんだ。そういう意味では久しぶりに、ほんとうに良い歌をしみじみとした思いで聴けたなというのが正直なところですね。多分、歌が本来持っている力、唄い手の表現力というようなものを、おそらく細野さんは、口には出さなかったけど、ここ7〜8年気付いていたと思うんですよ。あのひとはホントウに本能の人だからね。4〜5年まえから、色々な機会に会うたびに、"歌をやりたいんだ"って言ってたんです。

Yonaka yonaka:細野さんが本能の人というのは、驚きました。そういう風に考えたことがなかったから。『ハリー&マック』の前に、森高千里がありましたね。森高のキャッチーさと、『はらいそ』がひとつになれば面白い世界だなと、妄想を膨らませましたが。ぼくはあのアルバムありませんでした。コクがないんですよね。どうせなら、イアン・マシューズ好きらしい江口洋介のプロデュースやればよかったのかも知れない(笑)。

Shinya Shinya:森高の前にも、スウィング・スロウズっていう歌物を越美晴と一緒に作っている。間違いなく90年代に入って細野さんは、"歌"ってものは強いんだということを再認識していたはずです。80年代の中頃から、スタジオ・ワークというか、エレクトロニクスの作業に没入していって、それを極めたワケだけれどね。その方向はいまも継続しているけど、その一方で、歌の力っていうものへの認識は大きく膨らんでいったんじゃないかと思います。

Yonaka yonaka:シカゴの音響派の人達もオーソドックスな音楽というか、いま松山さんがおっしゃれたような"歌の力"みたいなものを重視してますね。

Shinya Shinya:そのまえに鈴木惣一郎との『カントリー・ガゼット』もあったしね。特にジム・オルークがそうなわけだけど。『ハリー&マック』には、ジョン・フェイヒーみたいなインストもあるし、全体を覆うダウンナーな雰囲気とかは、アメリカン・ゴシック(=^_^;=)な匂いもするね。

Yonaka yonaka:難しいですね(=;_;=)。ハワイアンの調の曲もどこか暗いところはあるし、歌詞はサンセッツに近いですね。それに夕焼け楽団系列の日本のアメリカ指向のロックの基本である、"憧れのニューオーリンズ"みたいなナイーヴな部分もないし、またパブ・ロック的な屈折もない。久保田麻琴は、夕焼け楽団時代のことを、あれはブリンズリー・シュワルツであって、ディレッタントの音楽だったみたいなことを言っていたけど、『ハリー&マック』はサウンドの掌握という意味では、70年代の仕事とは比較になりません。優れている部分は圧倒的にこちらのほうが優れていますね。客観的に全体が見えている分、余裕があるんですね。だから、久保田の歌も生きていますね。特に、「マグノリア」と「時にまかせて」にはそれを感じました。70年代だと、照らしあわせるモデルがひとつしかなかった。端的に言ってしまうと、ザ・バンドとかドクター・ジョンとかジェフ&エイモス、ヤング・ブラッズ、グレイトフル・デッド、リトル・フィートとかね。細野さんはヴァン・ダイク・パークス、マーティン・デニー経由で、自己韜晦的に屈折させていたわけですけど。
今回は、70年代の自分達の音楽を客観的に見つつ、その片方にアメリカン・ゴシック(=^_^=)といいますか、単純に云うと"まともやらなくてもいいネオ・ルーツ・ミュージック"みたいなものももう一方の視野に入っているので、作品としての構造が重奏的になっているし、プロダクションは洗練されているし、ダメ押し的にジム・ケルトナー、ガース・ハドスンといった大リーガーが本物の演奏をしている。さっき松山さんは本能とおっしゃられていたけど、作品としては計算されていると、ぼくは思います。


Shinya Shinya:細野さんもインタヴューで言っていたけど、あそこで唄っている久保田麻琴っていうのは30年前に初めて生ギターを持ったときのナイーヴな姿というかな、それが30年間、氷結されていたままのものが、マンモスみたいに突然解凍されたみたいなものだって。だから、凄くナイーヴで、だから夕焼け楽団を比較に出すのは間違っていて、あれは『まちぼうけ』の久保田麻琴の姿がタイム・スリップしてきたものなんじゃないかな。

Yonaka yonaka:確かに、サウンドとは対照的に久保田の唄にはすごく無防備な所がある。そこがアメリカン・ゴシック(=^_^;=)的に感じられたのかな。

Shinya Shinya:上手い歌というのと同時に、その表現している人の無防備さというのも『ハリー&マック』の大きなポイントで、夕焼け楽団的なマニアックに煮込んだものを期待しても食いたらなさが残るかもしれません。正反対のアルバムですからね。でも、ここまでいろんな面で考えさせてくれるアルバムというのも少ないわけですし、凡百のミュージシャンには作れない日本のロックなのは確かですよ。

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in the Mid-Night_Hour

cheers for 松山晋也 & 中山義雄


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