[*]についてはすでに説明した。 そこに含まれる複数の文字で1文字だとする飲茶的手法である。なんじゃ?と思われそうな「β」はまた[都−者]でも表わすことができる。しかしながら、「唄」や「歌」を[ロ貝]だの[哥欠]だのと書く必要はない。……当り前か。
というわけで、[廣β]美雲の『心動』である。ミレーヌ・ファルメールの次にこれを持ってきたのは、大のお気に入りである「サン・コントルファソン」のみならず、ファルメール・ナンバーが2曲もカバーされているというただそれだけの理由だが、オリジナルが88年で、国内盤の登場が90年、香港にてこれがカバーされたのが89年ということには注意を払っておいていい。他には「桃色吐息」がカバーされていたりするのが、その筋の人(どんな人や?)の購買意欲をそそったりもするのだろう。
が、この作品の醍醐味はそんなカバー曲の存在それ自体にあるわけではもちろんない。それだけならば、数ある[廣β]美雲作品のなかでもぼくの一番のお気に入りになりはしない。ならば、醍醐味とやらはどこにあるのか。それは中華な旋律と西洋のそれとの奇妙な同居にあるのだ。
日本で和洋折衷と呼ばれるこれを、中華圏ではなんというのだろうか。ともあれ、その折り合いが悪ければどちらかに違和感が持たれるだろうし、「とってつけたような」と評されたりもするだろう。そうは感じられなかったということは、だから、選曲についても音作りについても、両者に均衡が保たれているということだ。その度合が、ぼくにとっては最も望ましい状態だったというわけだ。
だから、誰がどう聴いても中華以外のなにものでもないラストの1曲がなおさら光る。中華三昧のなかでこれを聴くのと、フランスに飛び日本に飛びした最後にこれをしっとり聴かされるのとでは、背景がまったく異なるのは道理ではないか。
そのラストの曲が「還有明天」。 二胡が導き、揚琴が歌う。笛が盛り上げ、古箏が煽る。あるいは宋、あるいは唐、またあるいは遥か春秋の時代から、かの国に連綿と息づいてきたであろうと思わせるその旋律。おお、愛すべき中国。麗しの中国。遥かなる中国。大いなる地域と時の流れを、ぼくはそう呼ばずにはいられない。
この美しさを堪能して、やがて気づく。このラストはそのまま冒頭の、やはりインターチャイナな「夜來夜去」へと続くのだと。そう思って見直せば、タイトルからもこの2曲の関係は明らかではないか。なんと迂闊な。しかし、なんと憎い。
というような構成に、ぼくはしてやられたのだった。 ころりとやられてしまうぼくであるから、高中の「チャイナ」をこの後に持ってくるというような周到な計画は望むべくもないのであった。 |