【解説】
1966年、デューク・エリントン・オーケストラ2度目の来日の直前に録音されたエリントン名曲集で、単なる代表作の再演ではない今日的なアダプテーションを施された名盤といわれている。またエリントンが作編曲/バンドリーダーとしてだけではなく、ピアニストとして大きくフィーチャーされているのも魅力である。
----- エリントンの面白さ -----
もし、無人島に一枚だけ持って行くとしたら、というような話があって、そういうとき、それがどうして一枚なのかなどと考えていては話が成り立たない。そこまで考えなくても暇つぶしであるのはわかっているのだからなんでもいいようなものである。が、そういう暇つぶしでもあれこれ考えてしまうのはどうしてだろう。
ジャズを聴くようになって、あれが好きだこれが好きだとなって、結局どういうことになっているかというと、昔よく聴いていたのがそうでもなくなったり、昔よく聴かなかったのはいまでもあまり聴かないけれど、しかし、ずっとつづけて聴いているのにデューク・エリントンがある。
エリントンの面白さ。これを話すのが難しい。難しく考えるから難しいだけの話かも知れないけれど、どこがいいの? と聴かれてここがあそこがとすぐにいえないのが面倒である。そのくらい面白い、というわけです。例えば、ビッグバンドということでカウント・ベイシーと比較する。よく日本のビッグバンドでエリントンやベイシーをやりますね。プログラムに並んでいたりする。そう同列に扱うというのはビッグバンドのサウンドというところを重視した結果で、しかしそれがエリントンの面白さの全部かというとそんなことはなくて、むしろそういうところとは反対のもっと個人的なところ、即ちエリントンの音楽そのものに面白さがあると思うのです。
厚生年金ホールだったか産経ホールだったか忘れましたが、ベイシーを初めて聴いたとき、最初の一音で「わっ、すげぇ」って思った。目の前がいっぺんに明るくなるわけです。じゃ、エリントンはどうだったか。わっ、すげぇ、ともなんとも思わない。ところがこれがボディーブローのようにだんだん効いてくるのです。そういう違いはベイシーとエリントンの音楽の違いそのものなんだと思う。そういうところにエリントンの音楽の面白さの秘密があるのではないか、とも思います。
数あるエリントンのレコードの中で、これ一枚、というのはつらい。エリントンというのはそういう「これ、一枚」が一番似合わない人だと思います。ですから、無人島は一旦忘れて、ここでは THE POPULAR DUKE ELLINGTON に限らないで、エリントンについて、アレコレお話をしていきたい。おつき合いよろしくお願いします。
----- 夜も昼もエリントン -----
どういうわけか「THE POPULAR DUKE ELLINGTON」を3枚持っています。LSP3576(1966 輸入盤)、SHP-5585(1967 日本盤)、それから1981年に出た「RCA不滅のジャズ1800」というシリーズの廉価盤(曲順などはこれに依っています)。いずれもLPですが、もちろんCDでも発売されていて、そちらの方は持っていないので番号がわからない(御存知の方、教えてください)。
なぜ3枚も持っているんだろう。持っているのを忘れてまた買ってきたのか、誰かに、いいぞ!といってあげるつもりだったのか、おそらくそんなところだろうと思いますが、ということはかなり前からこれを聴いて気に入っていたらしい。もちろん、あの、ミンガス、ローチとのトリオは大好きでしたし、そのすぐ後に出たアーロン・ベル、サム・ウッドヤードとのトリオもよく聴きましたから、エリントンは好きだったに違いない。とはいえ、最初はエリントンのピアノが好きでオーケストラの方はあまり興味がなかったような気がします。どうもそんな気がして仕方がない。それがいつの間にかエリントンのレコードを集めるようになって、さぁ、それからが大変。夜も昼もエリントン。エリントン中毒。約してトン中(^^)。 あ、いや、これは私がいったんじゃありません。加藤総夫という人がその著書の中でそう書いているんですが、そう書くくらいですからその加藤氏も相当のトン中、いや、エリントンフリークで、その本を読んだときは、渡りに舟、じゃなかった、同志に会ったような気がしてとても嬉しかった。
というような話をしているとなかなか「THE POPULAR DUKE ELLINGTON」に入れないわけですが、エリントンの話をしていることが即ち「THE POPULAR DUKE ELLINGTON」を話すということにもなるわけで、これはどちらを先にしても後にしても同じことです。
では一曲目、「Take The "A" Train」。
1. Take The "A" Train
御存知、デューク・エリントン・オーケストラのテーマ。作曲はビリー・ストレイホーン。ビリー・ストレイホーンがエリントンに協力するようになったのはいつ頃からでしょうか。この曲の初演が1941年といわれていますから、少なくともその前からであるのは確実です。後に作曲された同じ作曲者によるチェルシー・ブリッジやラッシュ・ライフがフランス印象派の趣を感じさせるのに対して、この曲にはそういうところがほとんどありません。明快である。そこが万人に好まれるところでしょう。
初めての来日では、このテーマに乗ってエリントンがにこやかに登場するという仕掛でしたが、二度目の来日のときは、ピアノトリオで始まるというこのレコードと同じ展開で、これが実に意表を突いてかっこよかった。
3拍子で始まって(譜面に書けば8分の6拍子か)4拍子になる。そしてあの有名なイントロダクションがあって全員のテーマへ。この全員になる前までの2コーラスが圧巻です。エリントンのピアノ、これがもうなんともたまらない。なに、テーマをただ弾いているだけですが、そのフレーズの合間に聴こえてくるアルペジオのなんという美しさ。もちろんエリントンが弾くからそうなるわけで、アルペジオそのものがどうということではありません。で、これ、数えてみると、上昇のアルペジオが2回、下降のアルペジオが6回。そんなこと数えてどうする(^^)。しかし下降の方が断然多いというのはどうしてなんだろうか。
全員のテーマの後はクーティー・ウイリアムスのソロ。ここはこの人でなくてはいけない。聴いている中にルイ・アームストロングを思い出します。こういう人がいるからデューク・エリントン・オーケストラの深遠な音楽ができあがるのだ。
しかしエンディングの最後に鳴るピアノのコードはどこか変だ。どこか変な感じ、それがエリントンの音楽の秘密である、というようなことを加藤総夫は書いている。その秘密がわかればねぇ。ところで、"A" Train とはなにか? A列車、と訳されていますが、これは「地下鉄の名前である」とか「黒人奴隷解放運動の組織名である」とかいわれています。
ここでちょっとエリントンのことでコメントを頂きましたので紹介します。
************************* *久田 頼氏より
映画『或る殺人(Anatomy of a Murder)』はオットー・プレンジャーがメガフォンをとった映画で、1959年の作品ですが、主演は、ジェームス・スチュワート。この映画全体の音楽を担当したのがデューク・エリントンでした。
音楽だけでなく、楽団自らも出演しエリントン自身も台詞を喋るシーンがあるそうです。ちなみに、エリントンの出演映画としては7本目にあたる作品で、これの映画がエリントンの出演した最後の作品になったものです。
蛇足ながら、この後エリントンが映画音楽を担当した作品には、『パリの哀愁(Paris Blues)』('61)、『クィーン・メリー号の襲撃(Assault On a Queen)』('66)があります。
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----- モダンで洗練されたサウンド -----
「或る殺人」、ありましたね。レコードのジャケットも見たことがあるんですが、聴いた記憶がありませ ん。うーん、聴いていないはずはないんだけどなぁ。
同じような一枚に「ドラム・イズ・ア・ウーマン」というのがあります。この中の一曲目(おそらく)が、昔、ラジオの音楽番組のテーマになっていて、もうどんなメロディーだったかすっかり忘れてしまいましたが、エリントンのピアノで始まる不思議な感じがする曲で、いまだったらCDで出ているんじゃないかと探しているんですがまだ見つかりません。
エリントンでは60年前後からのが好きです。「THE POPULAR DUKE ELLINGTON」の少し前、ベースにアーロン・ベルがいた頃。この時代のエリントンが一番いい。正確にいえばドラムがサム・ウッドヤードになってから。ソニー・グリアの時代がいいという人もいますが断然サム・ウッドヤードです。ひとつにはその頃からエリントンを聴き始めたということがあって、それ以前のものはあまり聴いていなかった。どうしてもその頃のサウンドが耳から離れないというわけです。モダンで洗練されたサウンド、そういうサウンドが好きなんですね。
2. I Got It Bad(And That Ain't Good)
待ってました! ジョニー・ホッジス。ここではこの曲は彼のためにある。ジョニー・ホッジスがフィーチャーされた演奏は数多くあります。美しい音色を生かしたバラード、そしてブルース。しかしスケールが大きいというかなんというか、ちょっとしたことでは動じない(実際は知らない)、こういうのを貫禄というんだと思う。
ジョニー・ホッジスはひたすらかっこよく吹くことに専念してきた。ミュージシャンなら誰でもそうだと思いますが、ここでも彼は「どうだっ、いいだろ」っていっている。で、ほんとにいいんだから困ってしまう。困ることはないか(^^)。
ピアノのイントロダクションが美しい。あのエリントンとコルトレーンのイン・ア・センチメンタル・ムードのイントロダクションに匹敵する。ここだけリピートして何回も聴きたい。
3. Perdido
テーマを吹くチャック・コナーズのバス・トロンボーンがユーモラス。後半に出てくるジミー・ハミルトンのクラリネット。これがまたいい。新しいんだか古いんだかよくわからないとりとめのないフレーズ。不思議な人ですね、この人は。
4. Mood Indigo
1930年に作曲されたこれも超有名な一曲。うーん、変ですねぇ。曲は単純な「線路はつづくよどこまでも」と同じようなものだけれど、この頼りないメロディー(^^)がこう演奏されるとそこは幽玄の世界。この3管だか4管だかのハーモニーについて、「私はプロの音楽家であるけれど、たった3本の管楽器とエリントンの指一本で、どうしてあんな音が出るのかわからない」といったのはかのアンドレ・プレビンですが、うーん、何回も録音されたそのどれを聴いても(といっても全部聴いたわけじゃない)どこか変。
どこかの学校ではエリントンのサウンドを体系的に教えるらしい。しかし、そういうことで解決できないであろうサウンド。エリントンは遊んでいるんでしょうね。いい方を変えれば感覚的ということだ。音楽するこころざしの問題である。なんといってもいいわけだけれど(^^)、こういう音楽を聴いていると神様に感謝したくなります。
5. Black and Tan Fantasy
曲とタイトルの関係ってどうなっているんだろう。曲は内容を表す。確かにそうであろうけれど、例えばこれが Sophisticated Lady ではまずいとしても、The Mooche だったらどうか。
また、タイトルにそれ相応の意味があるとわかったところで、では、それと音楽とはどういう関係にあるのか。この曲名が表すのはある方がおっしゃったように「クレオールと二グロ」といったことを俯瞰した内容になっているのかもしれませんね。それを幻想といったのが深い。か、どうかよくわかりませんけども(^^)。
この曲も有名ですね。有名だけれど他の人がやっているのを聴いたことがない。こういう曲になると、こう構成されていることがひとつの曲だから、最初のテーマだけ取り出して演奏するというわけにはいかないんでしょう。それにしても劇的な演奏。曲の構成そのものが劇的である。力強いピアノのイントロダクションにつづくもの悲しいテーマ。しかし光は射してくるのだ。ブルース。…そして突然のエンディング。幻想は終わった。現実に戻った後に残るものはなにか。というように聴くのは正しいのか、間違っているのか(^^)。
それにしても各音がなんて有機的に結びついているんだろう。他の展開があってもおかしくないところであっても、聴いているとき、これ以外のことをあれこれ想像することはできない。1927年の作品です。
6. The Twitch
シンプルなピアノ、しかしエリントン以外の何者でもない、というイントロダクションで始まる軽快なブルース。
エリントンに軽快っていう言葉はあまり似合わないのかも知れないけれど、ともかく体が揺れてくるような気分。ひとつにはこれがシャッフルであるからなんだけれど。そういえば、Perdidoもこんなシャッフルだったっけ。エリントンっていわゆる4BEATの感じがほとんどしないんですよね。ベースはそうやっていても結局そういう感じがしない。エリントン、チャーリー・ミンガス、マックス・ローチのトリオがどうだったか忘れましたが、ともかくエリントン・オーケストラではそういうのを聴いたことがない。で、それが新鮮、というところにまたエリントンの秘密があると睨んでいます。
そうしかできない「切実さ」っていうのがある。エリントンはもちろん、メンバーにも。切実さ、なんて言葉はないのかも知れないけれど、そうとしかいいようがない。エリントンが好きな理由のひとつはそこです。しかし新鮮というのはなにか。エリントンって「どこか変」と前に書きましたが、その「変」がどうやらその新鮮さに関係あるらしい。これも睨んでいるだけですが(^^)。その変、いや、その辺をどう解明したらいいのか。途方に暮れています。
7. Solitude
途方に暮れる、とまではいかないけれど、この曲、この演奏に関してはあまりいうことがない。エリントンのピアノもローレンス・ブラウン(tb)のソロも文句なし。こういうように何気なくやっていてそれがいいっていうのがいいんだ。ということで、次。
8. Do Nothin' Till You Hear from Me
うーん、これもいうことないな。解説に、ステージで演奏されるエリントン・メドレーの一部と同じルティーンです、なんて書いてある。以上、心安まる2曲。トロンボーンの音色のせいかも知れない。
9. The Mooche
どうも気になって Solitude 聴き直してみました。文句なし、はいいんだけれど、「心安まる」は、心安まらなかった(^^)。どこか引っかかってくる音楽というのはそうならないものだ。この Solitude にしても、美しいメロディー、美しいトロンボーンの音色、というだけでは説明できないなにかがあって、そこにどうしても引っかかってしまう。エリントンのピアノだ。
昔のピアニストということで、例えば、アート・テイタムでもテディ・ウイルソンでもジェームス・P・ジョンソンでも誰でもいいんだけれど、こういう人たちはみんな非常に上手に聴こえるわけです。上手というのはピアニスティック的に洗練されているというような意味ですが、そういう意味で、エリントンのピアノは上手に聴こえない。これはエリントンがそちらの方に関心がなかったということにはならなくて、しかし、そうならなかったことに私たちは感謝しなければいけない。なぜならば、そこに美しさを見出す人々がいて、そしてエリントンがいる。
エリントンのピアノはスケールが大きい。というか、その一曲を俯瞰している趣があります。で、ピアノを聴いているのにピアノを聴いているという感じがしない。音楽を聴いているって感じがする。引っかかりながら聴いている。美しさはまた覚醒させるのか。そこでこのThe Mooche 。映画「コットンクラブ」でも演奏されていた Black and Tan Fantasy と同じような曲想になる一曲。
エリントンのコットンクラブ初出演が1927年。 Black and Tan Fantasy の初演が同じく1927年ですから、この2曲はコットンクラブで盛んに演奏されていたんでしょう。3部作というような話も聞いたことがあるんだけれど(後で誰かが考えた、おそらく)、そうすると後1曲はなんだろう。Creole Love Call かな。
どこかエキゾティックに聴こえるテーマにつづく管のアンサンブル。ここが大好き。ここもリピートして何回も聴きたい。しかしそれにつづくマイナーとメジャーが入り交じったソロ部分はなんだ。Piano in The Foreground というレコードでもそういう曲があった。なに、そうしたかったからだけさ、と、天の声。そりゃそうだけど、そういうことで音楽に陰影がついたりするんだよなぁ、と、これはこっちの声だ。
しかし The Mooche とはどういう意味なんだろう。ちょっと気になる。部作というのが本当ならばなにか共通の背景があるはず。とは思ってもそちらの方は苦手なんだよなぁ。
10. Sophisticated Lady
プレリュード・トゥ・ア・キスなどと共通項のある起伏に富んだ一曲。この曲を歌うのは大変そうです。元は演奏のために作曲された曲なんでしょう。エリントンのピアノが大きくフィーチャーされています。
解説(油井正一)に、「ハリー・カーネイのバリトン・サックスがフィーチャーされ、1分近くも息つぎなしに吹かれるショウアップ…」と書いてありますが、これは日本公演でも披露していましたね。どうなるかわかっていてもはらはらしてしまう。もちろんこのレコードではそういう編曲でやっていませんが。
共通項、起伏といえば、この曲のメロディーが順次進行と跳躍から成っているということですが、大体メロディーというものがそういうものである、という以上にその様子がよくわかるということでは恰好の曲であって、これを歌いやすくて憶えやすいメロディーだとは誰も思わない(でしょうね)。充分に印象的ではありますが。
冒頭、半音階で降りてくるメロディーのなんと官能的なこと。対する中間部の優雅さ。その中間部をエリントンは単音でなにげなく弾いているのです。それでいて実にエリントンである。そういうところにもまたエリントンを感じてしまうんだから始末に負えない。
11. Creole Love Call
ここでは小編成で演奏されています。ジャズにこういうメロディーってあるんだろうか。あるんでしょうね。現にあるんだから。ジャズというよりフォークソングのように聴こえる。で、それがジャズのジャズたる所以といってしまえば、ジャズのルーツに通じる道はここにもあった。
Black and Tan Fantasy 、The Mooche 、それとこの Creole Love Call 。そのどれもがブルースを基調に作られているわけですが、実はそれは歌であって(詞がついて歌われていたという意味ではありません)、エリントンはエリントンの歌を歌っていたに過ぎない。The Mooche には都会的なフレーズが出てきますが、それは前後を対比させる標題音楽的な発想があったからで、これらの曲を透して聴こえてくるのは素朴とでもいいたくなる歌です。
クラリネット3本によるテーマ。クーティー・ウイリアムスのソロ。最後のテーマに入る前、ラッセル・プロコープの吹くクラリネットのフレーズが素敵です。クラリネットといえば、ここではソロはありませんが、ジミー・ハミルトンのクラリネットが変わっています。ラッセル・プロコープはブルージーな感じがするんですが、ジミー・ハミルトンはどこかクラシック風な感じがします。ジャズ的なのにちっともジャズ的でない。
話は変わりますが、ラウンド・ミッドゥナイトの作者にモンクと共にクーティー・ウイリアムスの名がある、と聞いたんですが、みなさん御存知でした? 私は知りませんでした。ということはどこかでいっしょに演奏していたんでしょうか。
----- 終わりに -----
こうして書いたものを読み返してみると、美しいだとか素敵だとか大好きだとか、いや、もう実にどうしようもない言葉ばかり列んでいるのに我ながら呆れてしまいます。もうちょっとなんとかならないものか、と嘆いてみても後の祭り。
また、エリントンのサウンド、そしてオーケストラ、それらの革新的であり前衛的であるところもちゃんと書いてみたかった。ただ「どこか変」であったり「新鮮」であったりでは、それを伝えるにはあまりに不充分である。というか、ほとんどわけがわからない。ま、それだけエリントンを文章で表現するのは大変なことだと思えます。
エリントンとはなにか。確かに、私たちはその作品なり音楽のスタイル、また、「ジャズは自己表現の完全な自由なのだ」といったお言葉、エリントンの偉大さを形容するミュージシャンの発言、歴史の中での位置、意義などを知っているかも知れない。しかし、エリントンの音楽そのものとなるとどうなんだろう。
今回レコードを聴きながら読んだ本。加藤総夫著「ジャズ・ストレート・アヘッド」講談社。「ジャズ最後の日」洋泉社。エリントンのことだけ書いてある本ではありませんが、とても面白いことが書いてあります。興味ある方はどうぞ。
最後にボリス・ヴィアンがいったという言葉を紹介して終わりにします。「きれいな女の子との恋愛とデューク・エリントンの音楽、他になにもいらない」 |