ジャズ・ピックアップ
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『Very Cool』
リー・コニッツ『ヴェリー・クール』
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Lee Konitz  『Very Cool』    Verve POCJ-1933
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Recording Data:May,5,1957 at NYC
Produced by Norman
Personnel :Lee Konitz (Alto sax)
       Don Ferrara (Trumpet)
       Sal Mosca (Piano)
       Peter Ind (Bass)
       Shadow Wilson (Drums)
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Tunes Side A:
Sunflower(8:05) (Don Ferrara)
Stairway to the stars (5:21)(Parish/Malneck/Signorelli)
Movin' around (7:47) (Don Ferrara)

Side B:
Kary's trance (7:11) (Lee Konitz)
Crazy she calls me (7:24) (Meyer/Kahn/Caesar)
Billie's bounce (6:10)(C.Parker)
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【解説】

リー・コニッツといえばトリスターノ(P)。トリスターノ派とかトリスターノ・スクールといわれるほどの流れを生み出したレニー・トリスターノは独自の音楽理論的展開を用いた人でした。

そして1927年10月13日にシカゴで生まれたリー・コニッツもまたそのトリスターノに14歳から17歳までの間、教えを受け絶大な影響を受けます。

その後プロ入りしたリー・コニッツはパーカー派のバップフレーズが全盛の時にあっても独自のスタイルを崩さず、スタン・ケントン・オーケストラなどを経た後、トリスターノ門下生とも言われたミュージシャン達と共に、コンボ形式でトリスターノ流ともいえるスタイルを継承していきます。

ロング・フレーズから成るメロディ・ラインとタイム・キープ的なバックとの対比が織り成すコンボでの演奏は、個人のソロを聴かせる熱いハードバップ期にあって、ひときわ精彩を放つ構築的な音楽方法としてまさに美学に満ちていたように思います。

そうした方法論ゆえに「クール」という言葉を与えられたリー・コニッツですが、バンドとしての音楽の構成は例え「クール」であったとしても、エモーショナルな表現部分では決して単なるクールでは無かったと言えます。クールという言葉を温度表現として捉えるならば、むしろ冷たい炎という形容こそ良く似合うかも知れません。

そして「クール」という評判を逆手に取ったかのようなこのアルバムタイトル「Very Cool」は、じつは「Very Hot」なのではないでしょうか?ではご一緒に聴いてみましょう。

1. "Sunflower"

「cohesive intuition(凝集性のある直感)を持った素晴らしいインプロヴァイザーである」。この"Sunflower"という曲を作ったトランペッターのドン・フェララに対するコニッツの言葉です。

澱み無く流れ出るテーマメロディはまさしくトリスターノ作法に満ちているように思われます。ボクはトリスターノ自身の音楽はよく知らないのですが、彼の門下生と言われる人達の演奏を聞いて、逆にトリスターノはこうなのかな?などと逆昇って想像しています。

対位法とか無調音楽を取り入れたなどと当時のアルバムレビューにありますが、ビバップ〜ハードバップ期に顕著なはっきりとした転調をむしろ嫌い、ロングフレーズからくる意外な場所でのアクセントや、対位法を用いた上での集団即興などが醸し出す雰囲気は、むしろとても新しく今の音楽的アプローチに通底しているようにも思います。

ボクは今この曲を聴いて、このテーマのメロディが持つ魅力は例えばジョン・スコフィールドの独自のソロラインと相通じるものがあるように感じました。

それほどトリスターノの主張した音楽のアプローチは方法論としてもインパクトがあると思います。ただしかし、熱いハードバップ全盛の当時においては、白人的な、それこそクールなスタイルという評価を得るに留まったということだったのでしょう。

さてこの"Sunflower"という曲のメロディ自体がすでに彼等の音楽の魅力を代弁していると思う訳ですが、つづいてコニッツのソロが始まります。

この頃になるとコニッツの音色もソフトでクールという訳でも無くなってきていると思うのですが、もちろんそれ以前とガラリと変わる訳でもなく、またそんなに簡単に一度獲得した音色などは変えられないのが本当のところだと思います。しかし彼の熱い意欲はアルトサックスを発音する度に感じることが出来ます。ソロのスタート時点などはむしろラウドな発音気分すら持っているのが分かりますし、ロングフレーズにおける後半部分をともかくとすれば、ブレスの後などのフレーズ立上りの音などには熱さを含んだ彼の呼気を感じます。

2番手のソロは作曲者でもあるドン・フェララのTpですが、彼も素晴らしいソロラインを聴かせてくれます。ややもすると冗長で平坦な印象しか残し兼ねない彼等の方法論ですが、観賞に耐えるインプロヴァイザーが緻密に丁寧に歌うとこれほど素晴らしい音楽になるのですね。

二人のソロに共通するのはやはりトリスターノの方法論的アプローチだと思うのですが、なぜこれがそんなに異質でなおかつ興味を引くのかと考えてみました。それは呼吸ではないでしょうか? 管楽器の呼吸という意味ではありません。音楽のメロディそのものが持つ自然な呼吸というものが、バップ以降のモダンジャズで言うところのそれとは違ったリズムを持っているように感じます。ヨーロッパ的ななにかかも知れない。しかし紛れもなくそこには美学の存在を感じますし、そうした方法論にのっとった彼等のソロも、ハードバッパー達と同様の熱いエモーショナルなインプロヴァイザーであったことは確かなように思えます。

2. "Stairway to the stars"

コレクティブ・アンサンブル、集団でのアンサンブルとは何だかとっても当り前のように思いますが、トリスターノ・スクールを表す時に良く出てくる言葉です。

この辺りが対位法を用いた音楽技法ということだと思うのですが、このスローな4ビートのバラッドでもそうした方法論を用いてテーマが演奏されます。

ただの二管がハーモニーを作っているのではなくて、それぞれがお互いに絡み付くようにして独自の美しいテーマメロディを演じています。こういう作法だと両者の音質がブレンドされやすい必要があると思いますし、それ故に余計トリスターノ門下生同士じゃないと、ということになってしまうんでしょうね。しかしその事が後の発展に結び付かなかった原因でもあるというのが残念なことでもあります。

このアルバムではありませんが「with Warne Marsh」などでは、アルトとテナーといった大きな音色の違いがある二管なのに、まるでその音域の違いからくる音色の差を意識させません。エッジの立ち過ぎないというのか、マイルドで一見ソフトな音色を使い、両者が絡み付つようにして時間と共に音楽という布を織り上げていく様は、まさに美学という言葉を現出させてくれるようです。

さてこの曲、テーマの後はコニッツのソロになります。むむむ、一段とソフトに吹いていますね。コニッツは良く歌っているが、テーマ途中でのソロパート(サビ/ブリッジ部分か?)での方が一段と出来は良いように思えます。この辺りもクールといわれたトリスターノの方法論が広まらなかった原因かもしれません。というのも、テーマ途中部分でのソロはおそらく何度も(ソロの)構成やメロディをどうするかなどといった問題を事前に充分用意しておけたと思うからです。ある意味では事前の準備がとても重要な方法だったのではないかと思うのですが、全くの事前準備のないスポンテイニアスなアドリブソロ部分がやや見劣りするのは、こうした構築的な音楽方法論のデメリットかもしれません。

もちろん、そうしたデメリットを補って余り有るのがコニッツなどの名インプロヴァイザーであるとは思いますが。

コニッツのソロは後半、サル・モスカのブロック・コードのバッキングをソロパートのように迎え入れながらエンディング・テーマに繋げていきます。

「He' also a real pacer.」コニッツのサル・モスカ評です。他にも彼を評して「時間が過ぎていくのを恐れず、空白を作れる。多くのピアニスト達に見られるように、無理強いして弾いてしまうことがない」というコメントを残しています。確かにコニッツが言うようにモスカはガイダンス的なハーモニーバッキングや、ソロに呼応して割って入ってくるタイプのピアニストではありませんね。コニッツの着目した部分(a real pacer)がいかにも彼(コニッツ)らしいと思います。

3. "Movin' around"

コニッツ自身のソロを味わうには、やはり曲そのものもトリスターノ作法で作られているものがベストかも知れません。そういう意味ではこのA面最後の曲は、再びドン・フェララの作曲によるもので、典型的なトリスターノ・スクールの味わいに満ちていると言えばいいのでしょうか、コニッツのソロも快調です。

均一で一定のリズムを背景に、あくまでメロディとメロディのアクセントが生み出すリズム・テンションに注目を与えるといったスタイルです。だからドラマーには多くを求めない。このアルバムでもドラマーのシャドウ・ウィルソンだけがトリスターノ門下生とは何の関係もないスタジオ・ドラマーであったそうです。ドラマーの喜びそうなアップテンポにも関わらず、ライドシンバルでの4ビートレガートとハイハット以外には見事なほどに殆ど何も叩きません。これは門下生のベース、ピーター・インドのベースラインにも出ていまして、決してスケールを中心に演奏している訳ではないのですが、まるでモーダルな曲の演奏のような印象を残すベースラインとなっています。この辺りも均一的な背景を演出するのに大きな役割があるように思えます。そしてこの均一、一定といった背景があってこそ、フロントのまるで蛇がうねるような長いフレーズの魅力が浮きだってきます。

ロングフレーズは演奏者だけでなく、聴く者にもその途中での呼吸を許しません。普通、管楽器をフルパワーで鳴らせば、このように長いフレージングはメカニカルなパターンフレーズであったり、特にフレーズ後半では乱れたりするものですが、トリスターノ門下生の名手でもあるコニッツやドン・フェララにとっては、むしろ長いフレーズの後半部分こそ聴かせどころといってもいいのかも知れません。

-----リー・コニッツとチャーリー・パーカー-----

コニッツがアルトサックスであるにも係わらず、パーカーの影響を受けている/いない、でちょっとした論争になったことがあります。一番の声は「全くパーカーの影響を受けていない」というものでした。「バードではなくバッハの影響である」と言われたりもしました。しかし一方でバードことパーカーとの共通点を指摘した声もありました。

70年代初頭の頃ですが、「コニッツこそ一番のパーカーの継承者である」と言い切る人もいました。その場合は他のパーカー系アルト奏者は全てイミテーターであって、パーカーの演ろうとしたことを正しく受け継ぎ、それを発展させたのはコニッツである、という意味であったように覚えています。

パーカーの場合は、むしろフルパワーで16分音符に乗せて爆発するように一気に展開するのですが、これを8分音符に置き換え、その分だけ長くなる時間に耐えられるように息のコントロールをして再現してみると、コニッツ=パーカー直系という意味も理解出来ると思います。

実際のところ、パーカーの影響がどれほどであったかというのは、コニッツの音楽の魅力と何の関係もない筈なのですが、当時のマスコミなどの声は無視できないところまでコニッツに無言の圧力となっていたようです。またトリスターノ流オンリーでは袋小路に入り込むとも感じていたようで、このアルバムが録音された前はコニッツは悩みながら、自身の方向を修正し始めた時でもあったようです。

-----呪縛からの開放-----

パーカーの死がマイルスを始めとする東海岸の黒人ミュージシャン達には大きな解放でもあったと言われていますが、このアルバムでもそれは表れているようです。パーカー/ビバップの方法論との関わりをあれこれ取り沙汰された彼等トリスターノ派ですが、少なくともコニッツに関しては、これ以後パーカーとの関与を自ら認めていますし、このアルバムの最後の曲などは、そのことを身をもって証明してみせたとも言われています。

しかしそう言わざるを得なかったような状況だったのではないか?というのもひとつの疑問であり、興味も湧くところです。

言わざるを得なかったというのは、それだけパーカーに対して敬意を表していないというのか、当時の極めて当り前なパーカー以降のモダンジャズの伝統を踏まえていないという声に対して、「いいや、そうではない。ちゃんと伝統を踏まえつつ自己表現をしている。」といった声明のようなものを彼が表明せざるを得なかったのでは?という意味ですが。

パーカーの死でやっとパーカーとの関係のある/なしを越えて自由に自己表現が伸び伸びと出来るようになったという事なのかも知れませんが。

さて、このアルバムのライナーにはコニッツ自身の声で最近のプレイスタイルの変化についてのコメントが述べられていて、これはちょっと興味のある部分です。

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簡単に訳すると「いつも自分の演奏を自分のフィーリングに近付けようとしてきた。」 (contact with my feeling)「自分が今演奏していることと、それが自分にどう感じるかをいつも 意識していた。」「不思議な言い方に聞こえるかもしれないが、そ れはこういうことだ。」「ある時トリスターノとクラブセッションがあり、最後に彼がどうだ ったと聞くので、私は"まぁまぁ"(So-So)と答えたが、彼は、『何 言ってるんだ。ゴキゲンだったじゃないか』(Gee, You sounded crazythat set.)と答えた。」「私の感じたものと、私(の演奏)が彼に与えたフィーリングはそれ ほど距離があることに戸惑ってしまった。」「でも近頃は自分の演っていることと自分の感じ方がもっと近くなっ てきているんだ。」

さらに続けてこうも言っています。

「やっと解ったことなんだが、自分が出来る事は演奏中に自分を楽し ませるっていう事なんだ。独自の音楽で世界をアッと言わせる事な んか、もうどうでもいいんだ。」「そうなれば一番重要な事はプレイをエンジョイすることで、例えス トレートなメロディを演奏するだけであっても構わないし、私はそ れで満足出来る。だいたいメロディを演奏するのは若いミュージシ ャン達が考えている程簡単なことでは無いのだ。」

「最近私はひとつの良い音を鳴らすことにこだわっているのだが、」

「若いミュージシャン達の演奏にはいろいろ良いものを持っているが、 演奏者自身の感情(the player's personal feeling)を伴った一音 を聴くことがないなあ。」

ルイ・アームストロングがいかに深い感情を伴った一音ずつで演奏しているかについて述べた後、レパートリーについて。

「良いメロディや良い進行を持った曲は挑戦に値する」「がしかし、もしその曲を完璧に演奏出来るようになったら、私はも っと難しいものに挑戦しつづけるだろう。」「例えば"Crazy she calls me"はまだ始めたばかりなのだが、モノに するまで15年か20年は演るだろう。」

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若きコニッツにとって、トリスターノとの事は「世間をアッと言わせてやるゾ」的な気分でもあったということなんでしょうか?

確かにこのアルバムではコニッツが自身の方向に一段と自信を深めて取り組んでいるように思えます。トリスターノの方法論から始めて次第にホットな部分をも垣間見せながら。いや、ウォームなという感じはそれ以前にも充分感じさせてくれていたのですが、このアルバムではラウドなほどのホットさをも感じさせてくれると思うのです。そしてそれが従来のトリスターノ派コニッツに加わったことで一段と魅力にもなっているというのがボクのこのアルバムの感想でもあります。

4. "Kary's trance"

B面一曲目のこの曲はコニッツの末娘Karyにちなんで作られたコニッツのオリジナル曲です。

やはりトリスターノ作法にのっとって作られていますが、オーソドックスな白人4ビートスィングの雰囲気も顔を覗かせたりもしていて、素晴らしい魅力となっています。ドン・フェララ、サル・モスカと3人でのユニゾンでテーマを演奏したあとに続くコニッツのソロは、溌剌とした雰囲気に溢れています。むしろバッハ的であるとも評された延々と続くフレージングからくるフィーリングとは別に、ぐいぐいと進むジャジーなドライブ感も良く出ています。このアルバムでベストのソロではないでしょうか。

ある意味ではテーマに見られるような4小節−8小節感覚を裏切るようなメロディの区切りからくるリズム、すなわちトリスターノ的という部分でもありますが、これがソロになるとやや希薄になっていて、作為的(構築的あるいは構成的)なといった気分が蔭を潜め、じつに自然に歌っているように思えます。いやしかし、ここでのコニッツのソロは素晴らしい。

続くドン・フェララもいかにも彼らしい持ち味を発揮しています。サル・モスカのピアノ(うなりながら、いや、口でも歌いながら弾いています)のあと、再びコニッツがドン・フェララとの掛け合いのソロを展開します。4小節単位では彼等のロングフレーズがあまり味わえないのは仕方ないですが、面白いのは4小節のソロパートのアタマ部分が「始まり」で、4小節4拍目が「最後」といったタイム感ではないように思えるところです。これぞすなわちトリスターノ・スクール生のタイム感なのかも知れませんね。だから彼等の常套手段は通常はこうした4バース・チェンジではなくてコレクティブ・アンサンブル/インプロヴィゼイションなのではないかと思うのですが、こうしたところにも「解放」の感覚表現が現れているのかも知れないな、と思いました。

5. "Crazy she calls me"

スタンダード・ソングをリー・コニッツがスロー・バラッドとして演奏しています。「ストレートなメロディであっても演奏者のフィーリングを伴った音であれば良い」とコニッツが言っているその通りのような演奏で、特にトリスターノ派ならではの、といった雰囲気は無く、上質のバラッド演奏になっています。

バッキングにおけるサル・モスカのピアノも実に自然に柔らかく動いていて、やがてピアノソロになりますが、あれですねぇ、この人のこうしたトリスターノ・スクール風とは一味違った自由なフィーリングで歌うピアノ演奏をもっと聴きたくなってきました。しかしサル・モスカはその後、教壇に立って教える側に回ったそうです。

コニッツに関しては上質のバラッド演奏であるとは思いますが、アルバム日本語ライナーにあるような「コニッツのバラード・プレイとして最高の出来を示す」(岩浪洋三氏)とまでは感じませんでした。

6."Billie's bounce"

ご存じバードことチャーリー・パーカーの作曲によるブルースです。ジャム・セッションなどでも定番のように演奏されたりしているのでご存じの方も多いと思います。

このアルバムでもまるでセッションのように気楽なリラックスした印象があります。一番手のソロはコニッツですが、彼はそれまでの他のトラックの曲とは明らかに演奏気分が違っていて、それは例えば各フレーズの吹き始めのところに良く現れています。ジャズの伝統的なと言いますか、オーソドックスな方法で音を滑らして吹き始めたりしています。このような吹き方はコニッツは普段はほとんど使いませんので、余計それが目だって面白いです。

続いてドン・フェララですが、まるでスィング時代のように良く鳴ったトランペット音ですね。短めのソロで次のベースのピーター・インドのソロを挟みサル・モスカのピアノへと続いています。うむ、やっぱりサル・モスカのタイム感みたいなものが面白い。

そしてここがこのトラックの興味あるところなんですが、一通りソロを回した後でコニッツとフェララの二人がユニゾンでパーカーのソロをそっくりそのまま演奏しています。なぜこんなことをしたのでしょうか?

ボクにはコニッツの個人的な興味というよりも先に述べたような話題、すなわちパーカーとの関連=伝統に対する尊敬を表明してみせた、という目的があったのではないか?と思えてしまいます。

なおここで聴かれるパーカーのソロはFJAZZ LIB(7)の「MIDI 1001計画」の16番に「BILLI'SB.LZH Billie's Bounce 鋪斡或tき」としてMIDIで打ち込み作品になっていますので、興味のある方は聴いてみて下さい。

ビバップ的な演奏でブルースを演る場合のお手本としても、アドリブ教材としても有意義なものだと思います。
text by たかけんabotME!
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