ジャズ・ピックアップ
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『MOCAMBO SESSION』
守安祥太郎 『MOCAMBO SESSION』
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JAM SESSION FOR MUSICIAN 3
THE HISTORIC MOCAMBO SESSION'54      Porydor ROCKWELL MP-2490
Recording Data:July,27,28,1954 Club"MOCAMBO",Yokohama,Japan

Personnel :Shotaro Moriyasu(piano)
Akira Miyazawa(tenor sax)
Akira Watanabe(alto sax)
Hisao Suzuki(bass)
Jun Shimizu(drums)
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Tunes Side A:
I Want Be Happy(10:06) (Irving Caesar-Vincent Youmans)
Out Of Nowhere(11:01) (Edward Heyman-Johnny Green) 
Side B:
This Love Of Mine(6:12) (Frank Sinatra-Sol Parker)
Strike Up The Band(16:03) (Ira & George Gershwin)
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【解説】
----------このレコードについて----------

ひさしぶりにジャズ・シーンに復帰した清水潤(ds)を祝うために行われたジャムセッションのライブ盤。といってしまえば味も素気もないわけだけれど、ここに記録されたテイクから聴こえてくるものは、単にジャズの演奏といったこと以上に、当時(1954)、モダンジャズがどうあったかという状況そのものが聴こえてくる、という意味で、貴重な資料でもある。

「JAM SESSION FOR MUSICIAN 3」とあるから、1,2 もあるに違いない。いまのところ手元にはこれしかないのでこのレコードを聴きながらということになるけれど、つい最近この「THE HISTORIC MOCAMBO SESSION'54」のCD3枚組が発売された(らしい)ので、手に入り次第そちらも紹介したい。

貴重な、ということでいえばもうひとつ、このセッションに守安祥太郎(p)がいたということが奇跡である。もちろんそれを録音していたというのも奇跡であるわけだけれど、どちらにしても、このレコードがなかったならぼくたちは守安祥太郎を知らなかったわけで、誰に感謝していいのかわからないけれど、取り合えず感謝を百回くらいいって、次ぎに「MOCAMBO SESSION」のことをちょっと書いておきたい。

----------MOCAMBO SESSION----------

横浜にあったクラブ「MOCAMBO」で行われたこのジャムセッションが清水潤の復帰祝いだったとは既に書いた。 世話人は、沢田駿吾、井出忠、ハナ肇、とある。で、会計係が植木等だった。わぉ! クレイジー・キャッツ、と連想するのは勝手だけれど(笑)、この頃まだクレイジーは結成されていない。参加したミュージシャンはこのレコードに入っている人たちの他、秋吉敏子(p)などもいた。さぁ、後誰と誰がいたんだか。こんど出たCD3枚組にはそちらの方のテイクも入っていると思われるのでぜひ手に入れたいものだ。

有楽町に「コンボ」というジャズ喫茶があった。そこにミュージシャンがよく集まるのは、当時なかなか手に入らなかったモダンジャズの新譜が聴けるからで、バッド・パウエルの「ウン・ポコ・ロコ」が入った盤などすり減って三枚くらい買い換えたというからすごい。清水潤、守安祥太郎、沢田駿吾、宮沢昭、高柳昌行、秋吉敏子、渡辺貞夫、等々、このセッションに集まったミュージシャンの全部が夜毎集まっていたといって過言でない。

録音を担当した岩味潔によれば、27日、「コンボ」に集まったミュージシャンが手分けして機材を横浜まで運んでくれた。録音機は手製、マイクはアイワのベロシティーひとつだったという。
1954年7月27日。夜11時半から明け方まで。会費500円。かくして歴史的セッションははじまった。

実はこの録音はその昔 ROCKWELL というレーベルで一度発売されたことがある(45回転EP盤)。そのときのタイトルは「守安祥太郎 メモリアル」というもので、収録曲は「I Want Be Happy」と、もう一曲は「It's Only Paper Moon」(これはラジオ東京にあった音源で MOCAMBO SESSION のものではないらしい)だった。もちろんEP盤に収まるように編集されたもので、しかしその頃はそれでしか守安祥太郎(p)の演奏を聴くことはできなかった。

ROCKWELL という名称は、録音を担当した岩味潔と評論家の油井正一の名前からつけられたもので、このレコードは(EP盤と同じく)両氏のプロデュースによって作られていて、タイトルが変わったのは、守安祥太郎だけではなく、他のミュージシャンや当時の状況まで照準に入れたいということであったろうし、さらには、このセッションがミュージシャンのミュージシャンのための、という自主的な発案で行われたということも表したかったからに違いない。

とはいえ、(聴いてみればすぐわかることだが)セッションの中心となっているのは守安祥太郎で、このレコードについて語るというのは即ち守安祥太郎を語るということである。リアルタイムで聴いているわけではない。頼りになるのは、昔聞いたうわさとなにかに載っていた記事(うろ憶え)、昨年出版された植田紗加栄著「そして、風が走りぬけて行った〜天才ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」、そしてこのレコードだけである。うーん、大丈夫かなぁ(笑)。

----------(補足)----------

いま聴いているこのレコードはもしかしたらLPとしては再発のものかも知れない。というのは、1975年に同じポリドールから「幻のモカンボ・セッション'54」、サブタイトル「守安祥太郎に捧ぐ」というLP2枚組が発売されていて、その年の「日本ジャズ賞」を受賞した、とある。そのときのポリドールのディレクターは岡村融であったそうだが、いま聴いているこのレコードに岡村の名前はなく、ディレクターは矢野泰三となっている。

盤に小さく「幻のモカンボ・セッション」と印刷されているからますます混乱してくるわけだけれど、サブタイトルに「JAM SESSION FOR MUSICIAN 3」とあるから、これは先のレコードにつづいて発売された「3」という意味かも知れないし、あるいはまた再発された3枚組の中の「3」という意味かも知れない。まぁ、素直に解釈して、再発ということにしておこう、かな。

----------守安祥太郎 発見----------

昔すごいピアニストがいてさ、というような話を聞いたのがもうずいぶん前で、それから少したってEP盤の「守安祥太郎・メモリアル」を手に入れた。

いや、びっくりした。この天を駈けるようなスピード感はなんだ。こんなピアニストがいたんだ、ジャズ、日本のジャズ、ビバップ、チャーリー・パーカー、バッド・パウエル、奇跡、ぼくの知らないところで(笑)、等々、そのとき襲ってきた思いをいちいち書くことはとてもできない(大体よく憶えていない)。ともかく興奮して何回も聴いたのを思い出す。

----------幻のモカンボ・セッション----------

思い出した。これは2枚組じゃなかった。vol1、vol2というように発売されていて、それをどうして憶えているかっていうと、スイング・ジャーナルのレコード評に確か2枚のジャケットが写っていた。だからいま聴いているこのレコードは、「JAM SESSION」(あるいは「JAM SESSION FOR MUSICIAN」)というシリーズで発売する企画の3番目、というのが正しいと思う。それが自然だ。ただ、これが「幻のモカンボ・セッション」vol1、vol2の前に出たのか後に出たのかっていうのがわからない。ライナーノーツに小さく「スイング・ジャーナル選定ゴールド・ディスク」って書いてあるからその辺りを調べればわかるかも知れないな。

(あとから分かったことなんだけど、モカンボで行われていたジャム・セッションは一回きりじゃなくて何回か行われていた、その3回目が「清水閏(潤じゃなくて閏が正しいらしい)復帰祝いジャム・セッション」で、それが即ち「幻のモカンボ・セッション」であり「JAM SESSION FOR MUSICIANS 3」の3の意味であった、ということのようです。)

なかなか演奏の話に入れないんだけれど、もう少し守安祥太郎について書いてみたい。なにしろレコードには4曲しか入っていないからすぐに終わっちゃうんだ(笑)。

----------守安祥太郎(1)----------

守安祥太郎(1924-1955)については、植田紗加栄著「そして、風が走りぬけて行った〜天才ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」に詳しい。取材が多岐にわたっているのと、関連の話が矢継ぎ早に挿入されるので、途中でこんがらがってしまいそうだけれど、それが著者の狙いでもあるらしく、油断できない(笑)。

守安祥太郎が学生時代、慶応ヨット部の主将であったというのは驚きだが、その辺りは割愛する。守安がジャズの世界に足を踏み入れたのは昭和24年(1949)頃のことらしい。学校を卒業して会社(なんでも冷蔵庫を売る会社だったらしい)勤めをしていたのがどうして、ということになるが、小学生の頃からピアノは上手でショパンなど弾いていたらしい。らしい、ばっかりで申し訳ないけれど、なにしろ全部なにかの受け売りなのだ、これから先は断定的に書いてあっても「らしい」と読んでください(笑)。

たったひとつ、守安の口から述べられた記録というのがある。「ミュージック・ライフ」29年8月号。相倉久人インタビュー。

「戦後、会社勤めをしているうちにジャズに興味を覚え、戦後4年目の頃、三原橋にあった「新興キャバレー」というところのコンボに入ったのがそもそものはじまり。もっともこれはバンドとはいえない様なシロ物だった」

守安は昭和27、8年頃にはもう第一線のジャズプレイヤーになっていた。わずか3、4年のあいだにだ。スイング・ジャーナル、28年10月号の人気投票中間成績では11位。ちなみに、1位は中村八大、2位は秋吉敏子。世はまさにジャズ・ブームだった。

----------守安祥太郎(2)----------

守安がビバップに傾斜していったのは昭和25年、笹山美洋(g)のレッド・ハット・ボーイズに在籍していた頃だったろう。当時バンドが出演していた横浜の「400クラブ」に、ある日ジョー・ネズバッドというピアニストが遊びにきた。この黒眼鏡のおしゃれな黒人の弾くピアノは当時の最先端のジャズ(ビバップ)であった。簡単にいえばバッド・パウエルのスタイルであったわけだ。

守安の(ジャズの)師匠はこのジョー・ネズバッドだったと証言する人もいるくらいだから、かなりの影響を受けたのは間違いなく、守安はパーカー、パウエルに熱中することになる。この頃の横浜は市街地の60%が進駐軍に接収されていて、兵の階級、肌の色別に何十軒という軍専用のクラブがあったという。レッド・ハット・ボーイズはブローを得意とするバンドで黒人兵に人気があった。その頃横浜で活躍していたバンドにもうひとつCBナインというのがあって、リーダー・馬渡誠一(後年、アレンジャーとして高名)以下、清水閏(ds)、松本英彦(ts)、等がいて、音楽的にはこちらの方が優れていたらしい。

昭和26年、シャープ・アンド・フラッツのデビューにあたり、守安は原信夫からアレンジを依頼される。それ以来、シャープのアレンジのほとんどを手がけ、約3年間に400曲のアレンジをしたというから驚く(その譜面は31年、当時シャープが出演していたクラブの火事により焼失した)。スイング・ジャーナルの人気投票にアレンジャーとして登場したのはこの頃で、ピアニストとして登場するよりも前のことであった。

昭和27年は守安にとって多事多難な年であったと植田は書いている。詳しくは触れないが、角田孝(g)、厚母雄次郎(ts)、南部三郎(vib)、といった人気バンドに次々と参加したものの、いずれのバンドでも守安の評価はもうひとつだった。無理もない、どのバンドもスイングミュージックあるいはダンスミュージックを主に演奏するバンドであったから、いまや「ジャズ=ビバップ」の守安にとって決して居心地のいいバンドではなかったに違いない。守安の本当の活躍は28年を待たなければならない。

----------守安祥太郎(3)----------

昭和27年から28年にかけての4ヶ月間、銀座のクラブ「ハト」に出演していたバンドに注目する必要がある。メンバーは守安の他、宮沢明(ts)、塚本芳雄(b)、田谷泰裕(ds)。塚本芳雄は後に慶応の学生であった三保敬太郎(p)、西条孝之介(ts)、等とクール・ノーツを再編成する人物だ。この名もないバンドはそれまで出演していたシックス・ジョーズ(リーダー・渡辺晋。中村八大(p)、松本英彦(ts)、等がいた人気バンド)が他の仕事場に移ったため、契約の残りを消化するためだけに編成されたらしい。なぜこのバンドに注目するかといえば、ここにはじめて守安と宮沢明(ts)の接点が見られるからである。

その4ヶ月の仕事の後、守安になんとそのシックス・ジョーズから誘いの声がかかるが(中村八大がビッグ・フォーに参加したため)、これを断り、佐久間牧雄(cl)のゲイ・プレイボーイズ(後のジョーカーズ・クインテット)に参加することになった。佐久間はモダンな感覚のクラリネット奏者で、当時人気投票では鈴木章治、レイモンド・コンデにつづいて3位を占めていた。つい最近(といっても5、6年前か)、横浜の「ジャズメンズ・クラブ」で行われたジャムセッションでその佐久間のクラリネットを聴くことができたけれど、病気療養中とかで音は頼りないもののその気迫には驚かされた。

28年8月、上田剛(b)のフォー・サウンズ結成には、守安、宮沢明、平岡昭二(ds)が集結した。宮沢明は守安の推薦であったという。このフォー・サウンズの時代こそ、守安の才能が花開いたいわば最盛期といっていいかも知れない。「守安、宮沢は自分のスタイルを形成しつつあって、二人のプレイはすさまじい気迫がこもっていた」とは内田修の言葉である。この年にはハンプトン・ホース(p)が軍楽隊の一員として来日し、日本のミュージシャンとセッションを重ねていた。ホースはフォー・サウンドの演奏を聴き、「日本にもこういうジャズをやるバンドがあるのか」とつぶやきを漏らしたという。

宮沢はやがて秋吉敏子(p)のバンドに移り、二人の共演はジャムセッションでしか実現しなくなった。幻のモカンボ・セッションは宮沢が守安の下を離れた、3、4ヶ月後の後のことだ。

----------守安祥太郎(4)----------

昭和29年8月(幻のモカンボ・セッションの直後)、守安は沢田駿吾(g)率いるダブル・ビーツに迎えられる。ダブル・ビーツのメンバーは、沢田、守安、五十嵐明要(as)、滝本達郎(b)、五十嵐武要(ds)である。若手のメンバーに囲まれ守安自身も張り切っていたのだろう、ダブル・ビーツのレベルはみるみるアップされた。30年の2月号、5月号のスイング・ジャーナル誌でダブル・ビーツは高く評価され、守安の存在もはっきり評価されるようになった。

守安の行動に異変が見られるようになったのはその頃からである。ピアノの下にしゃがみ込んで腕だけ上に伸ばしてピアノを弾いたり、ピアノの蓋を閉めたまま隙間から手を入れて弾いたり、鍵盤のないところを弾いてみたり、高揚してくると突然ピアノの前を離れ、近くのお盆を持って踊り出したり…。

クマーナという曲がある。かなりのテクニックを要する曲だ。それを後ろ向きで弾く。弾く、と簡単にいっても実際これはかなり難しい。猛練習を重ねたに違いないがこれは見事完成した。もちろん大受けだった。しかしお客には大好評なもののミュージシャン仲間には不評であった。相倉久人が守安にたずねたところ、「お客を楽しませないといけないから」と語ったという。

リーダーの沢田としてはお客が喜ぶのは嬉しいものの、さすがに「やらなくてもいいよ、やめようよ」といったらしい。答は「クマーナで売り出せ、俺を材料にして売り出せばいい」だった。

渡辺貞夫(as)はある日突然守安から「ジャズはエンターテイメントだよ」といわれたという。渡辺はフォー・サウンド時代からずっと守安に私淑していた。この守安の変化はなんだったのか。クマーナをやりはじめた頃からピアノの弾き方までも変わってきた。ビバップからカウント・ベイシー風のカンサスシティ・スタイルのジャズにである。

話を急ぐ。守安はステージとステージの合間の休憩時間までピアノを弾いていた。ダブル・ビーツのメンバーは、「天才のやることだから」と黙ってやりたいままにまかせていた。30年9月29日、新宿のジャズ喫茶「オペラ・ハウス」のスタート時間になっても守安祥太郎は現れなかった。八方手をつくしても行方は知れず、10月6日になって、大崎警察署管内の身元不明死亡者の中に該当しそうな人物がある、とわかった。

9月29日付けの朝日新聞、朝刊、社会面。

28日9時10分ごろ国電目黒駅構内で、山手線内回り電車に、灰色レーンコート、黒ズボン、黒の短靴をはいた32、3の男が飛び込み自殺した。大崎署の調べでは現金6千円と飲食店「どん底」のマッチを持っているだけで身元不明。

----------守安祥太郎のピアノについて----------

長々と(でもないか)守安祥太郎のことについて下手な要約をしてきたのは、ぼく自身が守安のことをよく知らなかったからに他ならない。何年になにがあってどうしたこうしたというのが直接守安の音楽に関係ないことであっても、こうやって守安の足跡を辿っていれば、少しは頭が整理されてきて、それで音楽までわかったような気分になる(笑)。

守安のピアノはどういうものであったか。ビバップの洗礼を受けた守安のピアノがバッド・パウエルのそれに近かったのは疑うべくもない。とはいえ、人間が違うのだ、守安とパウエルが同じである筈がない。そういったことはパウエルに影響を受けた誰もがそうであるわけで、ひとり守安に限ったことではない。

パウエルのピアノから聴こえてくるいろいろな魅力(もちろんそれ全部を含めてパウエルの魅力なわけだが)、その中で一番守安が惹かれたのはそのスピード感、ドライブ感であったと思う。ビバップの演奏の仕方(コードにしろフレーズにしろ)にも影響を受けたに違いないが、それはこの際特に取りあげることでもないような気がする。優れた「演奏の仕方」というのはそれが個性的であれなんであれひとつの技術になっていくものだ。

パウエルの中に発見したドライブ感、それを守安は増幅していった。この「幻のモカンボ・セッション」は、もうこれ以上増幅できない、これ以上は壊れてしまう(もしかしたら壊れているかも知れない)、というような状態で演奏されたものであるから、ぼけっと聴いていたのではなにを聴いているのかわからない、こちらの想像力を全開にする必要があるのだ。

----------演奏内容について----------

確信に充ちた演奏。守安のピアノは破綻しかかっているのかも知れないけれど、それは表層だけのことで内部は充実している。この「内部の充実」というのが、音楽を音楽たらしめるもの、といいたいわけだけれど、そこで、内部の充実が表層に現れない筈がないという理屈を持ち出せば、その通り、破綻しようがしまいがそこに個の必然(確信)が感じられなくては話しにならない。

I Want Be Happyでも、あるいはStrike Up The Bandにおいてもこれらはアップテンポで演奏されているが、守安のイントロにつづいての宮沢のソロには初々しさと力強さが同時に感じられる。後年のフレーズのゆったりした大きさはまだ顕になっていないものの、これを聴いていると、既に完成された守安と新進の宮沢(歳はそんなに違わないのに)という組み合わせの妙に感心し、また微笑ましくもなってくる。

つづく守安のソロが圧巻である。次から次ぎに出てくるフレーズは尽きるところを知らない。うーん、やっぱり容れ物から出てくるわけじゃないんだな、こういうのは。このレコードにはアップテンポの曲しか入っていないので、守安のスローがどういうものであったかわからない。スローがよかったんだ、という証言もないわけではないが、少ない。しかし、これだけのピアノを弾く人間が例え得意不得意はあっても、あっちがよくてこっちが悪い、とも考えにくいわけで、ここではその数少ない証言を信じたい。

守安と宮沢は突出していた。ジャズがどうのこうのではなくて音楽的能力においてである。俗な言葉でいえば耳がいいわけだ。そんなことがどうしてわかる、と聞かれれば困るけれど(笑)、このレコードを聴いて反対のことをいう人がいたならば、まずそちらを疑うのが先決になってくる。守安が多くの人の尊敬を集めたことの理由のひとつに、その能力に対して、というのがあったのを否定できない。

ともあれ、守安はその能力を余すところなく駆使し、ジャズが(音楽がといっていい)どういうものであるかを身をもって示した本当のジャズミュージシャンであったと思う。

----------終わりに----------

このレコードの後の2曲には渡辺明(as) が参加している。渡辺明は先年亡くなった聞いているけれども、このモカンボ・セッションの後、エンバース・ファイブというバンドを率いて活躍していた。その演奏は、といえば、明るい音色、肩の凝らないフレーズ、等、ちょっとキャノン・ボールを思わせるようなところがあって(そういえば外見もそうだった)実に楽しいものだった。

その頃活躍したしていたアルトサックスには渡辺称が3人いて、それを区別するために、それぞれ、コロナベ、サダナベ、タツナベ、と呼ばれていて、コロナベさんが渡辺明、サダナベさんはいうまでもない、タツナベさんというのは渡辺辰郎のことで、後にキング・ジャズ・シリーズに素晴らしい演奏を残している。

このセッションの頃、渡辺明はまだ新人であった。確かに、守安、宮沢、と比べれば実力の差は歴然としている。しかし、だからといってこのレコードの価値が下がるわけでは決してなく、むしろ、それだからこそ価値がある、といえるのは、後の渡辺の演奏を私たちが知っているからだ。
text by MAMA/YabotME!
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