本は乱丁にあらず
『山之口貘詩文集』
「貘」然と、駄々洩れるその心地よさ 〜『山之口貘詩文集』

 本屋へと行ったのだ。

 すると、目の前にあった講談社文芸文庫の『山之口貘詩文集』が、
 「買えばどうだ」
 ときたもんだから、
 「いや、貘さんならもう二冊も持ってます」
 そう答えると、
 「何言ってんだ、僕んちのミミコも書いてるんだ」
 とまたきたもんで、
 「それなら」ってばかりにレジへと持ち込んだのだ。

 なら、どうだ。
 そいつは文庫の顔して、なんと千二百円也と来るではないか。してやられたり、天国で貘さんも笑ってることだろう。生きてる内は、かねがね金が無いものだと嘆いてたのに、この世にいないとなったなら千二百円とはそりゃ剛毅なことだ。それでも、「ミミコ」こと山之口泉の「著者に代わって読者へ−父は、やや変種の詩人のようである」に免じて許してやってくれ。貘さんならきっとそう言うことに違いない。
 だから、僕は諦め顔で、かの変種の詩人の貘さんに思いを馳せるのだ。
                    ■
 山之口貘という詩人は、沖縄出身の詩人などときた。ヤマトで大成した詩人でもなく、沖縄ローカルな詩人でだってない。打ち捨てられた詩人であるのかといえば、そうでもなくて、一種独特な座りどころ。知る人ぞ知ると、えばったものでなく、伝説の埋もれた大詩人でも当然にない。知っている人には、たまらん人で、知らん人には、居なかったも同然に。生前「貘さん」と呼ばれて親しまれていたというこの詩人は、ボヘミアンであり、貧乏詩人であり、借金屋であり、便所の汲み取り屋でもあった。

 高田渡が唄う「生活の柄」で知ったのだ。もうかれこれ三十年も前になる。
 で、詩集を買って、筑摩文庫の茨木のり子『うたの心に生きた人々』という本にも出逢った。すると昨年『貘−詩人・山之口貘をうたう』というトリビュートアルバムが出て、随分お久しぶりだときたもんだ。それではということで、この『詩文集』と逢うことになる。

 こりゃぁよろしい。随分とよろしいのだ。とにかく寡作の詩人である。その上、散 文など数えるほどで、『山之口貘四巻全集』でなければ読むこともできなかったのだ。 が、その全集も絶版で今やお目にかかることもない。
 さて、いかほどのもの。それは読まずに判らない。
 とにかく、のんべんだらりんの心地よさが、のべつくまなく、こんにちわとやって来て、無遠慮に上がり込んでは、お茶を一杯、所望つかまつる。ってなもんだ。

 「貘」然と、駄々洩れるその心地よさに、うつつを抜かす、僕だった。
text by あがったaboutME!


[乱読メニュー] | [CONTENTS]