本は乱丁にあらず
『永遠の仔』
「天涯の孤独を呑み込む」−天童荒太・三作品

 「喪失の時代」である。何もかも喪ってきたのだ。
 この国の形は、どんどんと曖昧になり、しかも腑抜けて行く。既に「人民」も「階級」もその形を無くし、今やもう「大衆」すらその輪郭は定かでなく、「市民」はなおぼやけている。政治の季節は今や昔、「無党派」という透明性が朧気である。誰も天下国家を語ろうとせず、我が物顔の「代理人」どもだけが、この国の形を美辞麗句でもって並べ立ててはみるが、それは誰にも見えない影に過ぎない。この国もまた喪失の中にあるのだ。

 地方も、また、である。ジグソーの一片に成り下がってしまったワンピースの哀しさだ。地域は、もはやその一片から突き出た足の一本の役割すら担えず、「地域共同体」という呪縛の中で、ひたすら喪失という課程を転げ落ちる。
 家族も例外ではない。家の子郎党の時代は遙か遠く。家族は、揺籃の役割すら果たし得ず、社会の最小単位としてのみの機能に特化された。

 ありとあらゆるモデルは崩壊した。「大」であったり、「核」であったり、「ニュー」であったりした家族の形が、我こそはと主張して止まなかったといえ、そのどれもがオンリーワンでなかったことは、明白なことだ。
 「喪失の時代」に、もはや自明なることなど何もないのだ。
 そして、個の時代が胎動する。
 が、「個」は「孤」でもある。そもそも人間は、ひたすらに「孤独」であるはずだ。が、いまだ「個」は「孤」でありえず。

 覚悟ができぬのだ。覚悟ができぬまま「個」を主張する「個」は、その権利をのみ殊更に言い立て、「孤」であるというリスクを回避しようと御託を並べてたてる。それがいかに「虚」であるかを誰も顧みようともしない。
 だから、「個」と「孤」は、まだてんでバラバラに孤立したまま、なりを潜めざるを得ない。

       ■

 天童荒太3作品を読み終えた。言うまでもなく、ベストセラー『永遠の仔』から遡ってだ。

 『永遠の仔』は、トラウマの物語でもある。そのテーマが性に合わんとくると、からっきしなのだ。そもそも何でもトラウマに帰してしまおうという風潮に癇癪を起こしていたのだ。過古に縛られるのは真っ平だ。目は前を見るためにある。足は前に出すためにある。

 その上、幼児虐待や児童への性虐待を想像することが出来ずにいたのだ。それはどうにも埒外にあって、自分の中での実像を結べぬ範疇外に存在していた。

 が、『永遠の仔』が「永遠の弧」を描いた物語なのだと思い始めると、堪らずに読み干すことになった。
 優希もジラフもモウルも、トラウマの自縄自縛の中で、どうしようもなく生を生きている。ひたすらに沈み込み、ひたすらに抱え込み、にっちもさっちもいかんのだ。口に出すこともできぬまま絡め取られ、うっすらとした膜をかぶったまま藻掻いている。

 多かれ少なかれなのだ、と思う。一人きりで生まれ、一人きりで死んでいく。それが人ならば、だからこそ、人と人は触れ合おうとするのだ。天涯の孤独が罪なのではない。天涯の孤独を呑み込めないのが罪なのだ。
 そのあまりに圧倒的な読後感は、即座に前作を読むことへの拒否反応を引き起こす。
 四ヶ月が経ち、次の物語に没入する。

 『家族狩り』は、家族の「喪失」と「創出」の物語なのである。

 既に「喪失」した大野の家族は、「喪失」しつつある亜衣の家族と線を交え、「喪失」の一方で「創出」する馬見原の相反する二つの家族と交差しながら物語は動いていく。

 「家族」は、外側からではなく、内側から喪失する。「逃げ水」の如くなのだ。目に見えはしても、金輪際手に掴むことは能わず。がらんどうなのである。そもそもが何も無かったも同然だ。そして、当の家族も気付かぬままに、立ち枯れていくのだ。あちらで立ち枯れ、こちらで立ち枯れ、それでもなお、誰もが目と口と耳をしっかりと閉じては、さも平穏であるかのように振る舞い続ける。

 もはや、崩れる行くのみなのだ。崩れ行くものは、崩れ行くままに任せよ。家族が立ち枯れたその後に、ぺんぺん草も生えぬか。断じて、否、なのである。家族が立ち枯れたその後にこそ、「個人」は「孤人」としてその姿を現す。家族は、すでに在るものではない。家族は、創出してこそ行くべきものなのだ。
 物語は、それぞれたった一人であった浚介と游子が新たな家族を創出するその門出の描写を描きつつ、が、最後のセンテンスでは、またもや新たなる喪失の予告で幕を閉じることになる。
 で、その前作『孤独の歌声』とひょいと出逢うことになった。縁は奇なモノであるといえ、大型書店の店先で偶然出くわす確率など、いたって低い。

 この物語は、まさに孤独な個人の内面の表情をくっきりと際立たせていく。孤独を抱えこまぬ個人など存在しない。ならば、孤独を丸抱えにする。頬ずりするでなく、突っ慳貪にするでなく、手の平のたまごを握りつぶさぬように握り締めるのだ。

 「そう、もう誰かが新しいリレーをはじめているかもしれない。/息を切らせて、バトンを受け取ってくれる者を探して、ひとり、走り出している人が、きっといる」
物語は、主人公の一人である風希のモノローグで終わるのだ。
 決して癒されぬことがある。が、その一方で、晴れ晴れと解き放たれる一瞬がある。その一瞬があるのなら、孤独の何がそんなに恐ろしいのか。

       ■

 「個」も「孤」も、湖に浮かぶ二つの島である。それぞれ二つの島は、満々と湛えられたかのような水に阻まれ、風の吹き曝すにまかせて震えている。しかし、時が経ち、水が減るに従って、二つの島はより高々と聳える。そしてある時、隔てる水がつと無くなってしまうと、島は島であることを止めひとつづきとなる。その時、その日こそ、「個」と「孤」は、晴れ晴れとして結びつき、そして解き放ちのその時を迎えるのだ。

 つまるところ、「喪失の時代」は「創出の時代」の一過程に過ぎない。

   ※ 『永遠の仔』  幻冬舎・上1800,下1900円
     『家族狩り』  新潮社・2300円
     『孤独の歌声』 新潮文庫・552円

text by あがったaboutME!


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