エフェソスでの衝撃

このタイトルには、ふたつの意味がある。

そのひとつは、エフェソス遺跡のスケールの大きさである。
そして、もうひとつは、何と自分のデジカメが使用不能となったことだ。

わたしにとってデジカメは、なくてはならないものだった。
この先、写真に頼らない旅行になるのだ。
もっとも、連れ合いはいるわけだから、写真に撮りたいところがあれば、付き添っていなければいけないというこ
とになるのだった。
最初に訪れたのは、アルテミス神殿跡。柱一本が再現されていて、それがかえってもの思わせぶりだ。
その次に、考古学博物館へ行った。エフェス遺跡から発掘されたものが並べられているて、なかなか見応えがある。
そして、マリアの家へ行って、
最後にエフェス遺跡の見学をした。
 マリアの家は、遺跡から少し離れた山の中にある。坂道をバスで上り下りするときに見える遺跡の全景から、そのスケールの偉大さを知ることができた。


アルテミス神殿
エフェス考古学博物館
マリアの家
エフェス遺跡
シリンジェ村


アルテミス神殿
 豊穣の女神アルミテスの神殿跡。
 バスを降りると、「安いよ」「絵はがき、1ドル」と日本語で語りかけてくる。そんなしつこい物売りとささやかな遺跡後はミスマッチだ。

 高さ19m、直径1.2mの柱が127本もあったという壮大な神殿は、世界の7不思議のひとつと称されたとか。その内の1本だけが再現されている。



エフェス考古学博物館
 エフェス遺跡から出土されたものが、発掘場所別に展示してある。その数1000点。

 建物に入ると、建国の父ケマル・アタチュルクの面もある。「PEACE AT HOME  PEACE IN THE WORLD」
 最初のサロンの展示品
 エフェソスの高級住宅地、丘の上の邸宅から発見されたもの。
 ユミットさんが指さしているのは、出土されたときの様子を写した写真。
 
 豊穣を表したもの、鉄製の足のテーブルなど。
 手術に使われた器具が展示してある。
 当時の手当の仕方なども説明してある。
 2番目のサロン
 エフェソス市内の泉を飾っていた彫像が、もとの様子が分かりやすいように展示されている。
 下の左は、愛を結ぶキューピッドの像。
 豊穣のシンボル アルテミスの像。
 胸に連なる房状のものは、女神の乳房だとも、女神に生け贄として捧げられた牛の睾丸だとも言われているとか。
 ローマ皇帝に関する彫像などの展示
 これはアウグストスの像の一部(と思う)。このように巨大な像の部分などがいくつも展示されている。


 いくつかのレリーフについて、一つひとつが何を表しているかを説明してもらった。それぞれが意味を持ち、歴史を語っているのだということを、説明を聞いて知るのだが、今となっては詳しいことを思い出すことができない。
 石棺が並べられた部屋。石棺に掘られたレリーフで、どのような境遇の人が葬られているのかが分かる。
 グラディエ−ター(Gradiator・剣闘士)の展示
 かつてのグラディエーターについて、使われた武器や損傷を受けた部位の遺骨などが展示されている。思わず戦いのすさまじさを想像する。

 グラディエーターの墓には、勝った回数が分かるようになっている。上の方の○の数が、勝利の回数。何回か勝つことで使うことが許されるようになる印があるそうだ。


マリアの家
 
 聖母マリア文化公園の入場券」 THE VIRGIN MARY'S CULTURAL PARK  11YTL(11トルコリラ)
 「聖母マリアの家は入場無料ですが、水,電気,道路の清掃費およびマリアの家と周辺の公園の維持保全費として使わせていただきます。」といったことが印刷されている。

 マリアの家までは、遺跡から7km。バスは、エフェスの遺跡の前を通って、山道をどんどん登っていった。峠を越して少し下りかけたところに駐車場があり、上ってきた狭い道からは想像もできないような人がいた。

 マリアの家に行く途中に、いろいろな国の言葉で説明された表示があり、その中には日本語のものもあった。
 マリアの家は、かわいらしいものだった。たくさんの人が並んでいたが、せっかく来たのだからと、中へはいることにした。

 中では、大きな声を出すことも撮影も制止されていたキリスト教の信者はマリア像の前で手を合わせていたが我々は雰囲気を感じながら、静かに通り抜けた。
 堂を出てから振り返ると、またまたたくさんの人が中へ入ろうと列をなしていた。
 堂のすぐ下のあたりに聖水出るところがあった。この水を飲むといいことがあるようだ。
 京都の清水寺を思い出す。
 これもまた日本のおみくじを思い出させる。網のようなところに、紙や布を巻いておくと願いが叶うというのだ。

 はるばるここまで来たのだから、願いを受け止めて欲しいというという巡礼者の思いに答えるものだろうか。
 マリアの家の横には郵便局がある。ここでは、特別なスタンプを押してくれる。

 里の親にと書いておいた絵はがきを差し出すと、目の前で切手を貼って、マリアの家のスタンプを押してくれた。


エフェス遺跡
 バスを降りると、大きな遺跡が目の前に広がる。何本も大理石の柱が立ち、向こう側にはオデオン(小劇場)も見える。

 浴場の跡、昔のままの水道管がある。
 店が並んでいたとおりの途中には、昔の人がバックギャモンをやった跡も残っている。(2段下右)
 狛犬(こまいぬ)といったところだろうか。守りのものを高いところに置いていた。

 下の2枚の写真は、オデオン(小劇場)。
 
 かつてはマーケットや市の公会堂があったあたり。大理石の柱が何本も立っている。
 しばらく進むと、石畳の道が続く。

 ここまででもかなり歩いたと思うが、まだまだ先が続いている。
 勝利の女神ニケ ニケはナイキとも読む。スポーツ用品のナイキはここから来たようだ。
 クレテス通りから入り込んだ小路を見たところ。左側にポリオの泉、右側にドミティヌス神殿がある。たくさんの建物があって、何がなんだか分からなくなる。

 クレテス通りを下る。すごい人の数だ。
 下右は、ヘラクレスの門。
 クレテス通りの途中には見ものがたくさんある。左はトラヤヌスの泉。

 下左は、ハドリアヌス神殿。これらの建物のレリーフのうちいくつかはレプリカで、本物はエフェス考古学博物館などにある。

 下右は、丘の上の邸宅。
 通りの左奥には高いフェンスが張られていた。この遺跡は、まだまだ発掘途上で、これから先もずっと続いていくようだ。

 下2枚はトイレ跡。座っている下側を水が流れていた。用を足しながら隣の人とゆっくり話してもしていたのだろう。「これこそ尻合いですね。」とガイドさん。
 ケルスス図書館。
 やっと辿り着いた。この図書館は、ガイドブックなどで目にしていたものだ。エフェス遺跡の偉大さを改めて知る。

 残念ながら、3体の彫像はレプリカのようだ。でも、この形は美しい。
 図書館からマーブル通りを少し行くと、石に刻まれた足跡がある。

 これは、娼婦の館の広告だそうだ。
 
 図書館の向かい側に、娼婦の館はあったそうだ。図書館からその館へのトンネルもあったとか。「図書館へ行ってくる。」と言って、実はそちらへいっていた人もいたかも知れませんねえ。」ともガイドさんは言っていた。
 画面は自然につながっていくが、ここで衝撃が起きた。
 あろうことか、私のデジカメがウンともスンとも言わなくなったのだ。電池がなくなったようだったので交換したのだが、それでも動かない。もとの電池に戻しても、全く反応なし。
 一旦は途方に暮れる思いで、そして、諦めの境地に陥ったのだった。

 先にオデオンがあったが、あれは小劇場。こちらは大劇場。下左の写真では、太い柱の左側が控え室。役者やときには猛獣が、出番になると、そこから飛び出してきたのだ。
 大劇場のほぼ向かい側には、アルカディア通りがまっすぐ港へとつながっている。
 かつて、クレオパトラとアントニウスが、腕を組んでこの通りを港へと進んだのだとか。


 「年を忘れて、クレオパトラとアントニウスになったつもりで、アルカディア通りを歩いてみましょう。」
とは、これまたユミットさんの言葉。
 アルカディア通りの途中から振り返ると、大劇場のスケールの大きさが分かる。何とも壮大な景色だ。
 でも、これは、エフェソス遺跡のほんの一部分なのです。



シリンジェ村
 エフェスの街から、バスで山道を進む。
 バス一台がやっと通れるような道が谷の中腹を走る。山は一面にオリーブの木に覆われている。どうやって収穫するのだろうか。

 そんな心配をしていると、やがてシリンジェ村に着く。
 村の入り口のレストランで食事をする。葡萄棚の下がテーブル席になっていて、そこからシリンジェ村が一望できた

 壁は白一色。屋根瓦は、どの家も茶色がかったオレンジ色。まるで物語の世界にいるような風景。

 かつてはキリスト教徒が逃げ延びたの村だったが、やがて民族入れ替えが行われ、今はイスラム教徒の村になっている。
 この村では、ほとんどのものは自給自足。日本でいえば、平家の落人村のような雰囲気が漂うところだ。
 村の中心部には土産物屋が建ち並び、観光客の国の言葉で売り込みをしている。
 ワインや手芸製品などが多く並んでいた。
 レストランから見た村の印象は、静かな山村だった。しかし、目についたのは土産物屋とその呼び込みばかり。
 しかし、土産物屋の建ち並ぶ通りから一歩奥に入ると、そこは静かな村そのものだった。
 遠くから見ると美しい村だが、近くで見ると、けっこう朽ちかけていた。
 1時になると、村中に聖地に向けてお祈りするようにという放送が、ミナレットにつけられたスピーカーから流れる。
 今は、確かにイスラム教徒の村なのだ。