報告 オーストラリア発見の旅            第98回へ
                             H10.9.3  
                               愛知県江南市立布袋中学校
                                         土 井 謙 次
出 発】
 
参加者は、授業プラン入選者が49歳から29歳まで16名(男性13名、女性3名)、審査員の村山先生、峰岸先生、豪日交流基金よりケリーさんの総勢19名だ。
  豪日交流基金とは、1976年に豪州政府によって豪日の相互交流を図る目的でつくられた民間団体で、事務局は豪州大使館内におかれている。その資金はすべて豪州政府からで、実質的には豪州政府機関と変わらない。今回の旅行では、オーストラリア国民の税金が使われたことになる。(総額700万円だそうだ。)

 8月22日18:00 成田空港に集合。豪日交流基金本部事務局次長の知的美人の北村育子さん、以前大使館で会ったケリーさんがお出迎え。参加者は少々緊張した面もちでご対面、個々に自己紹介をする。「みなさんと飲むのが楽しみな土井です。」と言ったように思う。今回の旅全体を通じて、集合時間に遅れた人は皆無。また、それぞれかなりの英語力がある。その意味でも、質の高い集団であることがわかる。
 20:45 カンタス航空QF22便にて出発。1万m上空を時速千qで7,800q飛ぶ。所要時間は9時間。飛行機から見た星空は最高!気持ち悪いくらい大きく数も多い。雲の上だから当たり前だが、意識して見るのは初めてだ。
【シドニー】
 現地時間23日6:50到着。気温13度。寒さは感じない。現地添乗員の成田さんに案内されてオペラハウスへ。
 その間に見聞きしたいくつか…
 ・昨年のクリスマスプレゼントBEST3、たまごっち・プレステ・任天堂64
 ・街中は工事がやたらと多い。2000年のオリンピックのため。
 ・テラスハウス−かつて間口の広さに応じて税金を取っていたため、狭い間口の家が並んでいる。テラスがレースのようで美しい。住民はパンク系の人が多いそうだ。
 ・キングスクロス。南半球一の歓楽街。といっても範囲は狭い。
 ・オックスフォードストリートは、窓に虹色の旗が掲げてある建物が多い。ゲイの旗で、市民権を得ているそうだ。オーディナリーという店は、美しいゲイのショーで有名。
 ・軍事費は国家予算の10%、海軍のマークは赤いカンガルー。徴兵制ではない。
 ・バス内での飲食は法律で禁止されている。
 ・分別収集はけっこう進んでおり、色違いのゴミ箱が並んでいる。

 シドニー五輪スタジアムへ。11万人収容の環境に配慮したスタジアムで、大林組が建設を請け負っている。このほか、高層ビル、海底トンネルなど、ビッグなプロジェクトは日本の企業が関わっており、その意味でも日本と豪州は関係が深い。
 五輪は、2000年9/14〜9/28。「ぜひまた来てみたい」そう思わせる街である。
ここでは、オリンピックプール・陸上のサブトラックを見学する。オリンピックプールで、一般の人が気軽に泳げるのはうらやましい。説明がくどいくらい親切だった。
プールで高飛び込みの競技会、サブトラックでは陸上競技会をしていたが、観客はまばら。
人口の少なさを感じさせられた。都市はあっても都市圏がない。そんな感じだ。

 初春の花・ゴールデンワトル(国花)が咲き乱れ、梅・桃・モクレン、ある種の桜なども色を添えている。花のきれいな街でもある。
 途中の家は、赤煉瓦の家ばかりでとても美しい。なぜなら、50年前までは赤煉瓦以外禁止されていたからだ。煉瓦は砂漠の赤土を用いられいる。その多くは平屋で、10坪台から40坪くらいか?決して広くない。
 景観を大切にする所は街ぐるみで、@洗濯物を通りから見える所に干してはならない、A芝の手入れをしなければならない、という規則があり、違反すると罰金を取られるそうだ。
 いたる所に空き地があり、芝が植えられている。フットボールなどのスポーツが可能だ。空間を大切にしている。

 よく見ると、日本車がやたらと多い。日本車のシェアは55%、昨年最も売れた車はトヨタカムリだそうだ。さすがに現地工場を持つトヨタ・三菱車が多い。日本車専門中古車店もあるが、他の店と比べて値段はやや割高なようだ。値段が29999A$のように、9の数字が並ぶのがおもしろい。古い車が多く、平均11年ものというデータもある。
 多くの車が、牽引の金具をつけている。キャンピングカー、ちょっとしたコンテナーを引くためだ。
 交通事情は良く、渋滞はほとんどない。駐車料金は1時間2$、信号が縦に、上から赤黄青と並んでいる。歩行者用信号は押しボタンが多く、車が青でも、歩行者用は押しボタンを押さないと待っていてもいつまでたっても変わらない。
ビルの広告は日本の企業が多く、日本の経済力の大きさがわかる。

 シドニーでのホテル“フラマ”は中華街にある。人口1,800万人のなかで中国系が50万人、日本人が1万人。大都市にはたいてい中華街がある。日本製品も多く、日本のマンガが
中国語で売られている。キャッツ・アイ第3巻を7.5$で購入。
夜はパブで飲む。多くの人は、ビール片手に立って話をする。コップ一杯3.5$ぐらい。
その後は藤村氏・末武氏とライブショーへ。入場料は12$→10$。内容は…

 24日。ホテルの朝食はすべてバイキングである。チョコクリームと間違えてパンに塗った“ベジマイト(VEGEMAITE)”には驚いた。思わず吐き出しそうだった。豪州ではきわめてポピュラーなもので、ベジマイトのTシャツが売られていた。瓶詰めも多くの売り場面積を持っている。
 
 公式訪問1回目は、シドニー日本人学校である。世界の日本人学校はすべて私立で、1969年にスタートしたシドニー日本人学校は日本政府から1/3、豪州連邦&州政府から1/3、授業料から1/3を財源にしている。後者の2つは生徒数に比例するため、このところの生徒数の減少は痛いらしい。日本人でも現地校へ行っている子の方が多いからだ。そうすると日本へ戻った時に、帰国子女枠で優先的に入学でき、英語力も身に付き一石二鳥だ。
 教育課程は日本・NSW州の両方を加味しなければならず、編成は大変なそうだ。
 現地の子どものための国際学級もあり、校内は国際色豊かである。音・図(美)は日本人学級・国際学級を合わせたミックスレッスンである。英語・日本語は双方が学習し、日本人では中学卒業までに英検2級を取る子が多いそうだ。
 現地と合わせた4学期制で、日本人学級と国際学級は入学式・始業式が1学期分ずれる。通知表は中学校が毎学期5段階評価、小学校・国際学級が偶数学期のみの評価だ。
 通学はほとんどがスクールバスだが、現地の路線バスを利用している。無料パスがもらえ、数学の時間帯だけ路線が学校まで延長する形である。
 今年で3年目になる教頭先生の次の言葉が印象的だった。
「(国際理解の第一歩として)異質を知るのは簡単だが、いざ理解するのは難しい。妥協と我慢が必要である。今は、日本人として立派に育てたいと思うようになった。
 人間は、どこかに根っこが必要なのだ。…言葉もまずひとつを固めないと思考力が育たない。」
 「国際理解のポイントは、アイデンティテーすなわち自己の確立と広い心。」
 なるほどと思う。他国の人は自国を誇りに思っているとも言われた。豪州は英国式なので、“制服は学校の誇りの表れと”、日本人から見て堅苦しいほどこだわるそうだ。日本の教育の問題点が見えてきた気がする。

 昼食はイタリアンレストラン。日本全国の学校の違いがおもしろい。香月さんの、「学校にストーブがあるの?私たちは、寒いときには、早く息をしなさいと教えるのよ。」には笑ってしまった。職員室にはクーラーもないらしい。
 いつも感じたことだが、食事の量が多い。カフェテラスでピザを頼んでも、食べきれないほど出てくる。よくよく見れば、中年の白人のほとんどが肥満だ。若い人でも肥満がとても多い。そのためにスポーツへの関心は高く、街中でジョギングやサイクリングをしている人を良く見かける。豪州では、自転車は交通手段ではなくて、スポーツの1つだ。スポーツ施設でも、社会体育は充実しているようだ。
 それはそうと、食事のたびにビールが付くのはたいした配慮だ。快適だ。
 
 午後はAnnandeale Nursing Home を訪問した。日本で言えば特別養護老人ホームだが、若い重度の精神薄弱の人もいるところが日本とは違う。患者100名に対してスタッフは105名。費用はほとんど政府が払い、福祉には非常に手厚いことがわかる。(もちろん税金は高い。1/3は取られる。)移民が多く、身寄りのない人が多いため、このような施設が必要なのだ。建物は古く、狭い。ちなみに豪州では病院も完全看護でお金がかからない。
 ここでも多民族国家であることを痛切に感じる。食事スタッフが16カ国より集まっており、患者の食生活に合わせて配膳の形にまで気を使っている。コーヒー係専門の人もおり、だれが砂糖何杯かも覚えている。
 良いことばかりではない。精神面でのサポートが弱い。患者同士の刺激も少なく、親戚や子供が会いに来るわけでもない。多民族国家ならではの弱点とも言える。

 夕食は豪日交流基金理事長主催 歓迎レセプションだ。理事長は元政府事務次官・駐日大使、カンタス航空社長だ。理事のリッティーさんは大学教授。日本に通算8年おり、本当に詳しい。現在、日本が戦争責任をどう考えているのかが研究テーマだそうだ。
 話を聞いていると、第二時大戦での日本の豪州攻撃の衝撃がいかに強かったかがよくわかった。一般の豪州国民にとって、1945年から76年頃までは、日本=戦争のイメージ、それ以後は経済大国のイメージだそうだ。今では、選択第2外国語では日本語が一番人気があるほど、日本が身近に感じられている。ただ、年輩の人の中には、まだこだわっている人がいるそうだ。
 ステーキはおいしかった。日本人は軟らかい肉を好むが、現地の人は固い肉を好むそうだ。
日本向けの肉は穀物飼育、現地用は放牧だそうだ。さらにガムが固い。野菜も固い。豪州が歯ごたえの文化、日本が歯触りの文化といえないか?

 夜のカラオケパブ。最高だった。
 日本ではカラオケは自己満足の世界だが、ここでは1人の歌でみんなが楽しんでいる。
踊っている人も多い。そこで、勇気を出してマイ・ウェイを入れた。「しらけたらどうしよう。ブーイングがでたら…」どきどきであったが、いざ歌い出すとそれまで以上に盛り上がり拍手喝采を浴びた。ステージまであがっていっしょに歌ってくれる人、終わると握手を求めてくれる人々。歓迎されている喜びを体中で感じた。
 その後に西山さん、山岡さんが歌った“Take me home, Country road”もバカ受けだった。店にいる人みんなで歌った感じがした。
 狭い店に、80〜100名の客が朝の8時台後半の電車ぐらいの密度で立っている。中を通ると、握手・拍手、話しかけてくれる人も多い。思わず、周囲の人にビールを振る舞ってしまった。この時ほど、もっと英語力があったらと思ったことはない。
結局、フレンドリーなのだ。この国が、この街が多民族・多文化国家として成功している最大の原因がフレンドリーという住民の気質のためだ。その点でアメリカ的である。
 一方、メルボルンはイギリス的だ。シドニーほど客は乗らず、自分たちの世界を大切にしているという感じだ。
フレンドリー。今回の旅で、最大の発見はこの言葉かもしれない。
 
 英語については、日本でヒアリングの練習をしていったがほとんど効果がなかった。特に年輩の人は何を言っているかわからない。オージーEnglish独特で、eiの発音がaiになる。
したがって、ケア施設のデイ・サービスが“ダイ・サービス”(死のサービス)になる。

こちらの人は家族をとても大切にする。だれもが家族の写真を持ち、話題のきっかけにする。就職2年目からは40日の有給休暇が取れ、子供の休みに合わせて休むそうだ。
休日は家族で過ごすのが当然で、金曜日の夜は、花を買って帰る人がとても多い。土日は絶対と言っていいほど仕事をしないそうだ。

 25日。公式訪問第3回目は、Randwick boys high schoolである。日本で言う中高一貫の男子校である。生徒数1,000人、教員数69名。教室の人数は25名程度。教科書は学校で2人に1冊程度準備し、後はコピーだ。日本みたいに決まった教科書はなく、その時々によって、新聞が教科書になることもある。教科書は教師が準備するのだ。
 入試はなく、近くのどこの学校へ行っても良い。ただし、最後の2年間は大学入学準備のためにとても大変だ。大学は、全国共通試験と学校の成績で決まる。学校間の格差は、共通試験の平均点により是正される。医学部に入るためには、上位99.5%にいないとだめなそうだ。
 ホームルームはなく、教科によって生徒が移動するシステムだ。それ以外は鍵がかわれ教室には入れない。遅刻をしても教室には入れない。外で待っている。シニアクラスの生徒には空き時間もあり、日本の大学に似ている。
 教室は落書きだらけだが、教師は消そうともしない。窓が小さく、ややせまい。パソコンが多く、普及率は世界一だそうだ。
 16〜7歳のクラスの授業を見た。多民族である(生徒16人中アジア系8人、東欧系4人、西欧系1人、中南米系2人、アフリカ系1人)。学校の中で50の言語が聞けるそうである。 授業の内容は、豪州政府が導入を計画している10%の消費税に対する賛否のディベートだ。これがすごい。自分の意見を、ほとんど原稿も見ないで、身振り・手振りで説明している。この力は、日本人には決定的に欠けていると思う。今の政治家も同様だ。
 主任の先生の話どおり、知識でなく考える力をつけさせようという思いが良く伝わってくる。記憶することより問題を話し合うことが重要と考えられているのだ。
 社会科は、経済・地理を教え、歴史は別の教科になっている。その考え方もおもしろい。社会科教師は6名で、社会科教師の部屋がある。しかし、職員室はなく、休憩はレストルームで立ったままコーヒーを飲む人が多い。教師の服装は気ままである。Gパンも多い。

 昼食の中華料理の後、NSW州教育省へ。日本語コンサルタントのチャーミングな藤光由子さんの説明を聞く。内容は、豪州が欧米からアジアに重点を変え、特に日本を大切に考えていることなど。その後、教育のシステムの説明を受ける。
 
夕食はフリー。夕食代が現金で35$出るのがすごい。この日は、峰岸先生らとシドニーオペラハウスでオペラを見に行く。演目はグノーのファウスト。もちろんフランス語での上演だ。英語の字幕が出るが、内容は何となくわかる。日本で見るより規模が小さく、オケも技術的にやや劣る。
 幕間に自分だけ単独行動に出て、噂のキングスストリートへ。歩いていると呼び込みの人に「シャチョウー!シャチョウー!」としきりに呼びかけられる。女性は「セイコチャン」、カップルは「シンコンサーン」だそうだ。確かに歓楽街としての規模は小さい。後の行動は秘密…

 26日。STVトラベルの成田さんと分かれてキャンベラへ。とても詳しく、勉強熱心で気配りもでき、添乗員として優れた人だった。
 シドニーからキャンベラへ向かう途中の高速道路沿いは、延々と見渡す限りの牧場が続いた。前半は馬・牛、後半は羊が多い。3時間近く同じような景色が続くのはさすがに広さを感じさせる。羊の飼育には1頭に1000坪の土地が必要だそうだ。
 道路の料金は無料で、Uターンできる場所もある。上りと下りの車線の間には5m〜50mえお自然のままに残してある。グレートデバイディング山脈を走っているが、なだらかな丘のようである。日本と違って道路標識が少ないこと、夜間照明がないことはやむを得ないだろう。
 休憩所でソフトクリームを買う。30¢(24円位)は驚異的な安さだ。街中のマクドナルドでも同じだった。ちなみに、マクドナルドの出店料は1億円だそうだ。ついでに気づいた。自動販売機が少ない。缶飲料はすべて炭酸飲料だ。豪州の人が日本へ行くと、多くの種類の自販機がおもしろいそうだ。

【キャンベラ】
キャンベラに到着する。1912年にデザインが公募された歴史の新しい30万人が住む人工都市だ。昼食は中華料理。味は美味。
完成してまだ10年の国会議事堂を見学。見学は自由。国賓を迎えるホールは高校生のパーティでも使える。花火大会では国会議事堂の屋根に弁当を持って座る。これら、日本と比べてかなり開かれている。
 議場は英国式。内閣と野党の影の内閣が向かい合い、筋書きのない論戦を繰り広げる。議事堂内に議場、議員の部屋があり、自分に関係のある案件だけ議場にいて、後は自分の部屋で仕事をする。その他、テニスコートやジムがある。
 選挙の投票に行かないと40$以下の罰金なので、政治に関する関心は自然と高い。選挙権は18歳以上であるから、高校生でも選挙に行かなければならない。
 
次に外務貿易省を訪問する。デレック・ブラウンさんの説明を受ける。19歳で名古屋の鳴海中学のAETをし、その後駐日オーストラリア大使館、大阪総領事館に勤務しており日本語がうまい。最近の豪日関係の説明を受ける。豪州にとって日本がいかに大切かわかる。
 詳述しないが、ここでも日本に対する親しみと期待を強く感じた。経済はもちろん、国連の安全保障理事国になって貢献してほしいとも言われた。
 この後各国の大使館を外からながめる。アメリカの広さ(3ha)、中国の建物がすごい。アボリジニーの大使館もおもしろい。

夜は、キャンベラ豪日交流協会主催レセプションがあった。みなさん日本語が堪能で安心した。西端領事ともいろいろ話をすることができた。彼は、日本の子供たちにオーストラリアの人の人と人との付き合い方を伝えてほしいと言われた。すぐ笑顔で挨拶をする、食事を出されたらおいしいと言う、その当たり前のことが日本人はできていないと嘆かれていた。その通りだ。多民族国家でうまくやっていくためには、気持ちを表現することが大切だ。

会も進み、ふるさとを合唱した後、それぞれがホストの家族とそれぞれの家へ向かっていった。自分の相手は最後に遅れてやって来た。ALISON JOSTという20代後半の女性だ。カトリック系カレッジの日本語教師をしている。車で、Mt.アインズリーの夜景を見に向かう。
 ところがここでショッキングなことが起こる。何気なく「家族は何人?」と聞いたら一人暮らしという。「そんなバカな!」心臓はどきどきである。日本なら考えられないほどアバウトな企画だ。若い独身女性の家へホームステイなんて考えても見なかった。
 山頂からの景色はとても美しく、南十字星もきれいだったが、まわりのカップルが気になった。

アリソンへの日本からのみやげは凧、浮世絵トランプ、扇子とケース、空港の検疫をごまかして持ち込んだするめなどの珍味だ。珍味を「なつかしい」と言って最も喜んでいたようだ。
 アリソンは市民オーケストラでオーボエをやっているという。次の演奏会の曲目のベートーベン・エグモント序曲やVn.コンチェルトは自分も何度か演奏したことがあるので、楽譜を見ながら話は大いに盛り上がった。日本には通算2年しか滞在経験がないのに、今まであった誰よりも日本語が自然である。今回入選した指導案を持っていたら、すらすら音読した。漢字もほとんど読めるのには驚いた。
 彼女は、日本と豪州の対比を2点挙げてくれた。@日本人は熱心、オーストラリア人はすぐやめちゃう、A日本の外食は安い、豪州は高い、である。また、最近台頭してきた白人至上主義勢力のことを心配していた。アジア重視政策に逆行している。
 二人でワインを空け、ジン、ブランデーを飲みながら12時過ぎまで話をする。寝室にあてられた彼女の部屋は、楽譜の他、日本に関する本がたくさんあった。
 外の気温は氷点下である。
 
ステイしてみて、寝る直前まで靴を履いている文化について感じさせられた。スリッパに替えた方が掃除も楽で合理的だと思うのだが…。当然、ペットも平気で外から上がり込んでくる。寝ている時に猫がじゃれてくるのにはまいった。

 やはり独身女性の家は気を遣う。彼女が起きる前に、身支度を済ませて待っていた。
みんなはラッキーだと言うがとんでもない。何かあったら国際問題になり、来年からこの企画はなくなってしまう。個人的にはファミリーが良かったとつくづくと思う。ただ、話は盛り上がって十分楽しかった。アリソンには感謝している。
 27日。食事を済ませ、出勤の途中に集合場所まで送ってもらう。10時半集合なのにまだ8時だ。キャンベラのデパートへ買い物に行く。

 キャンベラ都市計画館へ行く。ディスプレイが見事だ。模型とレザー光線を用いて数か国語で説明される。道路をつくってから街をつくったため、道路事情が非常によい。日本の首都移転も参考にしてほしい。ただ、これだけ広い土地は日本にはない。ゴルフ場だけでキャンベラに9カ所ある。
 アインズリーから見た昼の景色も見事であった。木の90%以上はユーカリの木である。乾燥に耐えられるからだ。日没が近づくと野生のカンガルーが至る所に出没する。よく車にぶつかるそうだ。

 次にAustralia Insutitute of Sport を見学する。要するに選手養成所だ。案内は、イチローに似たマーク・トンプソンという陸上選手だ。それぞれ充実しており、ここも一般の人が利用できることがすごい。選手の宿舎食堂で昼食を取ったが、2mぐらいの巨人ばかりで感覚がおかしくなる。本気で勝負したら、日本人が勝てるわけがないと思う。

 午後は駐豪日本大使館の訪問である。大使館前にミャンマーの学生が抗議デモを行っている。大使館では、広報文化班の小島さん、経済班の入江さん、政務班の大森さんがわかりやすいレジメをもとに明解に説明してくれる。質問が出ないほどわかりやすかった。レジメをもらうだけでよかったという声もあったが…
 次に、戦争記念館へ行く。あいにく第二時大戦の展示が改装工事中で見られなかったが、6万人が亡くなったという第一次大戦の展示だけでも十分見応えがあった。戦場のジオラマ、飛行機の展示など、工夫もある。過去の戦没者10万2千人の全員の名を刻んだプレートを見ると戦没者を大切にしていることがわかる。また、退役軍人の発言力の強さなども、日本では考えられないほどだ。
 キャンベラ空港へ向かう途中に士官学校があった。専用のゴルフ場を持つ広大な敷地だ。
キャンベラ空港はこじんまりとした空港だが、飛行機から見る夜景もまた格別だった。

【メルボルン】
 メルボルンに付くとすぐにホテルセントラへ。食事後世界で第3の面積を持つクラウンカジノへ向かう。
ルーレット、スロットなどしっかり惨敗。それにしても大きい。最近シンジケートの餌食になり、赤字が続いているそうである。

 28日。テレビのニュースでA$安が危機として報じられている。1$=79円と来る前より2割も安い。一体世界で何がおこっているのか、中日ドラゴンズはどうなったのか、さっぱりわからない。
 Galeena Beek Living Culture Centre を訪問。いわばアボリジニーの文化保存センターである。案内してくれたバーニーさんは、祖母がアボリジニーで、子供のない白人のためにさらわれてきたという。アボリジニーと一口に言うが、実際には500の言語を持ち、276の国、600の部族があったそうだ。現在は32万人(1.8%)しかいない。
 ここでは、楽器(ディジュイードゥー?)や化粧?、踊りやブーメラン・やり投げの体験がありおもしろかった。やはり見て聞くだけより、少しでも体験があると印象が深まる。授業でも同じだ。水分補給に役立つ草の根も食べさせてもらえた。
 アボリジニーに対する暗い過去の清算に努力しようという政府の姿勢を感じる。というより、アボリジニーに対しては、政府はからきし弱い。何も言えないようだ。
 日本はどうか?北海道のアイヌは同じ立場だが、旧土人保護法程度の取り組みだ。

 次に、Healeville Sanctuary を見学する。オーストラリアの動物の自然動物園と考えてよい。
 まず昼食は、例によってビールが並ぶ。この日は4人(土井・藤村・小林・末武、後長岡氏も引きづり込まれる)で16本。青空の下で飲むのは最高だ。
 36haの広大な自然公園で、自然に近い形で生かしていることがわかる。カンガルー、コアラ、ワラビー、ウォンバット、カモノハシなどである。有袋類が多いが、その形態は様々で、袋のあるなしで生物を分類したのは間違いだと感じる。ドラエモンも有袋類か?

 この日の夜はメルボルンで自由行動だ。金曜の夜ということで、人々の生活様式にとても興味があった。やはり、正装している人、花束を持っている人が目に付く。連休の前で、給料日でもあり、特別な日なのだ。
 人口310万人のメルボルンは、古い建物が多く残されている。州の規則で、内装だけしか変えられない建物が多い。市内電車が東京の地下鉄のように走っているが、システムの欠陥か、チケットを買う人が少ない。たまに検札に来るが、観光客のふりをすれば許されるそうだ。そのいいかげんさが日本では考えられない。タクシー同様、運転手はしっかりガードされている。治安がいいといっても、やはり日本とは違う。
 街の中には公園が多く、400ほどあるそうだ。郊外なら、土地付きの家が800万円ほどで買うことができる。ゴルフ場も多く、パブリックコースは15,6$でプレイできる。
 余裕だ。しかしルーズだ。これだけで表現できてしまえそうなほどの国だ。
街を歩くと、若者の服装が地味なことに気づく。ちょっと派手なのはたいてい日本人だ。1人でたばこを吸いながら立っている日本人ギャルが何人も見かけ、何を考えているのかと疑う。現地の人に確実に誤解されていると思う。
 現地の若者の失業率の高さが問題になっている。失業保険が18$/週 もらえ、5人ぐらいでアパートでも借りれば働かなくても生きていけるそうだ。そしてドラッグだ。オペラハウスのトイレや公園に、注射針を捨てるBOXが置いてある。仕方ないのだろう。

 金曜の夜にしては、いやに静かだ。パブもシドニーに比べて暗い。入口にガードマンがおり入りにくい。通りすがりの人にやたら声をかけられるが、どうもゲイっぽい。シドニーよりもネオンが少ない。
 しかし、オージーフットボールが終わった10:30を過ぎると、どっと人が増えた。勝ったチームのファンだろうか、歌いながら歩いている。家族連れも多い。早慶戦の後のような雰囲気だ。駅前では、バグパイプを演奏しており、通りすがりの人がコインを入れていく。やっと都会の夜らしくなってきた。
 クラウンホテルのロビーのイルミネーションを見た。噴水とドライアイス、シャンデリアのショーだ。幻想的な美しさに感動する。もっと驚いたのが、カジノのベトナム系の男性。100$コインを何十枚もポケットに入れてルーレットで賭まくり、はずれまくっている。見ているだけでも1万$近く損をしている。一般でこうなのだから、VIP専用カジノは一体どうなっているのだろう。
 金はあるところにはあるのだ。

 29日。最終日。メルボルン最大のビクトリアマーケットに行く。肉が安い。ラム<牛<豚<チキン<魚 の順に高くなる。肉で1s2〜6$、鯛が1s8〜13$だった。バナナ1.2$/s、オレンジ 1$/s、ブロッコリー 1$/s、ジャガイモ 40¢/s という値段である。
 旧メルボルン刑務所を見学。どこでもファミリー料金があることに気づく。親2名・子供2名の時、子供が無料になる金額だ。刑務所は、絞首刑になった人のデスマスクがいくつか展示されており、無言の迫力がある。義賊として有名なネッド・ケリーは、肖像画入りTシャツや伝記本が売られている。ヒーローなのだ。
 昼食は、公園でTake Outの食事。ワインを買おうとしたら、食事といっしょでないと売れないといわれた。免許法の関係か?けっこう、法がきびしい。
 タバコが高く、吸う場所が少ないのも印象的だ。ほとんどの場所が禁煙で、外しか吸う場所がないのが現状だ。
 
 ホテルに戻るとトラブル発覚。末武氏のパスポート・航空券・現金入りの袋が紛失。領事館は土曜日のため休み。はたして帰国できるのか?心配である。
 その間に、オージーフットボールを見学する。自由席13$。18名ずつ、1クオーター25分。簡単にいえば、2本の棒の間をボールを蹴って入れる競技で、オフサイドのルールがないためサッカーやラグビーよりもおおざっぱな球技だ。11万人収容のスタジアムが7〜8割埋まっている。ただ、選手・観客ともほとんどが白人だ。客席は意外と静かで、日本の野球のような統一した応援は一部のファンに限られている。

 ホテルに帰ると、末武氏はどうやら帰国できそうである。さすがに豪日交流基金がバックにいるから強い。とにかくよかった。
 QF21便でシドニーを経て成田へ向かった。日本では大荒れの天候だったらしいが、傘を
1日も使うことなく、本当に天候に恵まれた快適な7日間であった。

オーストラリア発見の旅の機会を与えていただいた豪日交流協会、ケリーさん・村山先生・峰岸先生、そしてビールや変な店に付き合って下さった参加者のみなさん、アリソンさん、STVトラベルのみなさんに感謝したい。
 
【全体を通しての感想】
 国際理解について
 「国際理解とは?」個人的にはこう思う。
 第1に違いに気づくこと。第2は違いを理解すること。第3は結局みんな同じだと達観すること。
 そのために、今回の自分のテーマは、オーストラリアと日本の違いを50見つけることだった。
 しかし、日を重ねるにしたがって、違いに気づかなくなる自分に気が付いた。日本に2年間住んでいたアリソンも、違いを挙げることがなかなかできなかった。
 その理由として、「鈍感になった」ことがあげられる。しかし、この鈍感こそが“「鈍感」=体全体での理解”ということではないか。無意識のうちに、自分もオーストラリアに溶け込み始めていたのだ。適応し始めていたのだ。
人はだれもが適応する心を持っている。
 この適応する広い心こそ、子どもたちに育てたい“共に生きる心”なのかもしれない。
 日本人学校の教頭先生が言われた言葉、国際理解に必要なのは「アイデンティティと広い心」という言葉が今回の旅行の中で最も印象深い一言である。

Friendly について
レセプションで日本大使館の西端領事と話をしていたら、日本の子供達に教えてほしいことを次のように言われた。
「オーストラリアの人のフレンドリーなところをぜひ伝えてほしい。こちらの人は料理を出されれば必ず笑顔でおいしいという。近所で買い物をすると、良い日でね、ということを言う。日本の子どもたちに、今、一番必要なことではないか」
 しっかり伝えたいと思う。