以下の記録は、土井が参加しながら記録したものです。当然、言葉足らずのもの、誤解があるかもしれませんが、学校や講演者には全く責任はありません。ご了承ください。第230回へ

第52回小学校教育研究発表協議会                  
 
講演 「今、求められる教科指導のあり方」
                   早稲田大学教授 安彦忠彦先生
 
平成17年5月31日(火)14:35〜16:05   於 愛知教育大学附属名古屋小学校
 
【本日の授業について】
 授業を見せていただいた。こういった研究会では、できるだけ授業を見るようにしている。紀要だけではわからない。
 比較的、自然な無理のない授業をしている。私が描いている授業のイメージとあまり変わらない。
 2月に鎌倉市へ行った。6年生の算数。指導案自体変わっていて、「支援案」という名前になっている。ある意味で子どもに徹底的に任せていた。レベルは高く、2時間続きの授業。立方体の展開図11種類を2つの種類の方眼紙から取り出していた。支援案どおり先生が出ない。無駄なことをやっている子もいて、私はもっと期間巡視してアドバイスしてほしいと思った。
 本校は教師の積極的な指導があった。
 その上で、教科指導について一言述べたい。
 9教科、それぞれの役割、意義をどの程度全体で議論がなされたかについてである。教科の基礎・基本と個性をどうとらえたか。      
 私は基礎は教科ごとに考えていない。国語と算数が基礎だととらえている。国・算の基礎の上に他の教科がある。だとしたら、国・算の先生とそれ以外の先生とで、どれだけの話し合いが行われてきたか。今回は、各教科に任せていることが良い方にも悪い方にも出た。
 各学校であらためて、各教科それぞそれの位置付けを、総合的な学習も含めて、道徳・特活の三領域を含めてどう組み合わせて構成するかを考えてほしい。これが1点目。
 
 2点目は、テーマに「発揮させる」とある。
 教科力で育てたいものは一種の目標である。表現として、「発揮させる」は、身に付いてしまっているので目的でなく手段になる。研究主任に聞いてみると、これは1・2
年目に教科力を育ててきたので、3年目に発揮させる場を考えてきたということだそうである。
 「発揮させる場」とはどういう場か。身につけてきたことを強める場であり、場合によっては正す場である。身につけることを意識していると、つい使う場を忘れる。やりっぱなしになる。今日は使う場を意識されていたのでよい。
 ただし、身につけたかどうかのチェックが必要となる。場面を用意するからには、ここまで身に付いたというものが必要である。
 
 今回の研究は、教科ごとに柱を考えたために全体的なイメージが希薄であった。全体で取り組むよりインパクトが弱い。しかし、それが良いという考えもある。さらに言えば、単元ごと、目当てごとに方法が違っても良い。むしろ、一つのパターンに当てはめるより、これからはそういう方がよい。ある意味で健全である。
 逆に言えば、細かい部分で、3年目でどこまで確立したのかを明示してほしかった。いくらか明示してあるが・・・。
 今日参加されたみなさんは、個別に指導技術を見いだして持ち帰り、各学校で生かしてほしい。
 実際の授業はじっくり見ていないのであまり言えないが、最近は高学年を注目している。発達の加速化を見ていると、小学校の高学年はかなり中学生的に扱わないといけない部分がある。6年間を後半の1,2年を切ってみて、中学生的にするのもよい。大きな枠組みを変えることは難しいが、学校の中で考えてみてほしい。
                               
 今日の演題は、本校と相談し、本校の研究に即したものにした。立場上知り得る中央の情報を交えて申し上げたい。
 
【はじめに】

学習指導要領の一部改正の趣旨:「思考重視」の「方針の徹底・方策の修正」
 
 学習指導要領は、一部方策を変えたが、方針は何も変えていない。方針は、大きくは昔から変わっていない。だから方針は徹底、方策は修正である。
 方針は、考えることを重視する教育にしたいということだ。重心を、「記憶すること」から「考えること」に移し、「ゆとり」などという言葉が出てきた。量から質的な転換である。
 日本では、「ゆとり」という言葉に誤解がある。
 ある研究誌の英訳では「クランプフリーポリシー」となっている。「クランプ」は「学習塾」すなわち「脱詰め込み教育」という意味だ。これは正確だ。「ゆとり」とは、詰め込み教育からの解放という意味になる。
 ゆとりとは、遊び一辺倒に考えたわけではない。それでは何が問題だったか。方策が不十分だった。ゆとりに2種類あったが、それを区別しなかった。
 ゆとりとは、一つは生活上のゆとり。5日制の土曜日は、多彩な経験を子どもに与えるということで、理念として間違っていない。
 もう一つのゆとりについてが間違い。それは授業時間を減らしたことである。質的に考える学習にすれば時間がいる。これまで暗記中心だったことが、調べる、実験をする、話し合いをする活動に変わった。活動に時間が必要なのに、その時間まで減らしてしまった。ここを一部修正で変えた。

「確かな学力」のとらえ:「習熟・定着の確かさ」と「論理・機能の確かさ」の両方
 
 「確かな学力」がもてはやされ、「生きる力」が消えてしまった。それに伴い、文科省の施策として学力向上フロンティアが始まった。あちこちの授業を見たが、何を見たか。国算数しか見ていない。ほとんどの学校がすべて国算数だった。
 こえはそれなりに成功した。学力測定値は上がっている。学力ではなく、学力測定値である。学力はわからない。測定できる部分が上がったのである。習熟、定着の仕方は増した。ものの受け止め方も定着した。
 ドリルや演習に重点が移ったが、同時に、考える力の確かさが大切になる。この二つが伴わないと「確かな学力」とはいえない。国算数以外の、他教科の充実が必要となる。
 文科省が出すのは曖昧な政策だが、近くで見ているものとして弁護したい。問題は、行政の二重構造にある。
 かつては政策を出すのは文科省のみであった。今は、文科省ともう一つの行政図がある。それが内閣府。内閣府は、行革と絡めてほとんど全部をやっている。経済、郵政もふくめて、すべての上、あるいは横に見え隠れしている。専門省庁の上に立って、あれやれこれやれと言う。
 たとえば、文京区。特区で学校6日制をやっている。内閣府が決めて文科省におろす。文科省は2つやらなければならない。この二重構造が原因だ。
 内閣府が何をしているのか、議論しないで進んでいるのが不幸なことだ。こうした政治的なこともよく見てほしい。新聞には直接出てこないが、くみとってほしい。
 
【1 学校の質的変容を考えよ!】
 量から質へ学校を変える。

(1)学校五日制の完全実施:なぜ5日制か→「多彩な経験」を子どもに与えること!
 
 五日制について議論が行われている。私は六日制に戻すのには反対だ。中央でも進学校の高校の代表は強行に戻せと言う。小中学校は反対している。高校だって、普通科以外の学校はどうであろう。
 子どもために考えた時に、また受験勉強に戻すのは反対だ。そうではなく、「多彩な体験」できる、そうした方向に動くように、地方の行政や保護者会などが手を取って動きましょう、啓蒙しましょうという動きをつくらなければ行けない。
 学校六日制は、学校で何でもやると言う発想である。これに対して、五日制は分担しようと言う発想だ。学校と地域や家庭とで分けて面倒を見ようと言うことだ。これは、今も両論併記になっている。
 しかし私ははっきりしている。
 子どもの側に立って考え、保護者のある家庭、地域に分担してほしいと考えている。
全部学校ではできない。先生に親の代わりはできないのである。
 ある親と意見がぶつかったことがある。「あんたらは教育の専門家だろ。俺の子一人教育できないのは何だ。」と言われた。私はこう反論した。「お子さんが求めている教育はあなたに対してなのです。」こう行ったら喧嘩になったが、3日ほどして親の態度が変わっていた。
 子どもが居づらい社会でいいわけではない。これが悪い、これが足らないなどと現象面を言うだけではだめだ。もっと施策を出せと言うべきだ。

(2)学校教育の独自性の明確化 → 「生涯学習」の観点から、「外部との分担・  協力」による「学校文化論」で!
 
 学校は何をするべきところか。社会が生涯学習化した。文科省の中でも。生涯学習課を筆頭局とした。学校はある時期やるが、それが全てではない。これが世界的な考え方になっている。
 学校には独自の文化がある。その文化を学ぶところに、生涯学習にはない、学校教育の独自性がある。後は(5)で述べる。

(3)「記憶重視」の「量的学力観」から「思考重視」の質的が学力観へ
 
 「量から質へ」これは、森山元文部大臣が言った言葉である。
 当時は、高校進学率が90%を越えた頃。だれでも入れるので、量は問題でなくなった。そこで質が問題とされた。そうすると、多様化路線への批判が起きた。そうではなく、転換ととらえるべきだ。
 一つ前は新学力観と言っていた。「新学力観への転換」と言っても、全部を移すわけではない。しかし、量的には3割減らしたが、質的には明確にしなかった。なので量的に3割減ったことだけが問題にされてしまった。
 これは、転換ではなくて重点移動というべきだ。全部を質に移すのではなく、重点を移すと言うこと。これが、知識の習得から思考力を育てると言うことである。
 以前のような、こっちかこっちかというような二項対立的な言い方はしない時代になってきた。

(4)「教育一般」と「学校教育」との異同:「学力形成」を主、「人格形成」を副
 → ただし、学力形成は部分、人格形成は全体で、人格形成こそ「究極の目的」
 
 教育の目的は、人格の完成であることは誰もが認めている。教育基本法にも、「教育は、人格の完成をめざし」と書いてある。
 教育基本法は教育一般を対象にしている。すべての教育で、人格を完成するべきである。学校だけで人格の完成は無理だ。
 学校の先生は税金を使ってなぜ雇われているのか。基本的に、教科の専門家として雇われている。そこで、何が求められているか。人格ではなく、学力である。教科の専門家として雇われ、学力の育成を託されている。
 人格性だけなら、カウンセラーなど別の人を雇う。ここは、教育一般と学校教育の区別をはっきりさせるべきである。
 学校でやる以上は、体験重視といえども、学問性が必要になる。総合的な学習といえども、体験を通して、将来の教科学習につなげる視点が必要である。保護者から、なるほどと言われるものが必要だ。
 けれども、あくまで学力形成が部分で、人格形成が全体である。 人格
人格が三角錐全体とすると、学力は一部。それ以外が精神。
学力をどう使うか、それが人格である。
 たとえば、原爆を作った人は、学力と人格の葛藤があった。   精神
高い学力で原爆を作ることができたが、使うとなると別。               しっかりとふまえてほしい。                  学力
     

(5)「文化活動」と「自治活動」を経験する場:「学力形成を通しての人格形成を!」
  → 学校の「潜在的カリキュラム」をプラスに働くものにせよ!
 
 学校の文化、教師の文化には、地域の文化とは違う文化がある。学問やその学校の伝統がある。
 そして、「自治活動」。言うなれば児童会や生徒会。これは実際の社会に出るための基礎経験となる。
 最終的には人格が問われる。どんなに学力を付けても、人格をそこなうことはゆるされない。受験戦争はなぜ悪いと聞かれるが、それは人格をゆがめるからである。受験が要因となって、人間性をゆがめている。だからないほうがいい。
 人格形成のプラスになる学力形成でなければ意味がない。学校でこそできる人格形成に絞る。学校独自の文化活動にしぼることである。
 わたしは、よく「潜在的カリキュラム」という言葉を使う。カリキュラムにはないが、
児童生徒を動かしているものである。この「潜在的カリキュラム」をプラスのに働くものにと言いたい。
 たとえば、マイナスになるのが「校則」である。隠れた形で身につけるように求められている。これが潜在的カリキュラムである。時には、校則がもとで不登校になる子もいる。そういう場合はマイナスに働いている。
 ほかにないか?たとえばいじめ。かつて多くの学校で、いじめを許す文化があった。自覚して、意図的にいじめを排除することをやれば大きな問題にならなかった。
 当時は、学校経営案にいじめに対する項目がなかった。数年後、文部省が「いじめに対する項目を立てろ」と行ったら、全国の学校の経営案の中に一斉に入った。学校としての自主性がないと言える。
 学校として望ましくないものは拒否しなくてはならない。そうした文化活動を伝統としてつくることが大切だ。
 
 以上の5点は学校の質を変えようと言うもの。それぞれの学校でいろいろな実践が行われているので、アイデアを出し合いたいものである。
 主たるターゲットは学力、教科の指導であることを押さえておきたい。
 
【2 現行の教育課程における教科指導の考え方】

(1)教育課程の全体構造を「三層構造」で考える。
  → 人格形成(教科外指導)を最下層に、「学力形成(教科指導)」を上の二層に!
  → 「基礎」「基本」「個性」の明確化
 

学力課程
(引き出す)



 

発展的学力課程

基礎的学力課程

生活能力課程
 



   人格形成
   (つなぐ)

 
 特に重視したいのは、真ん中の基礎的学力課程。つなぐ教育をやるときに、人格だけではできない。
 たとえば、帰国子女が日本語が話せるかはおおきな問題である。読み書き計算ができないと、一人前の市民として扱われない。
 最低限の学力は学校でやる。その専門家である先生がやる。基礎学力は、人格形成の一部なのである。
 
 
        個性                 個性
 
       基礎・基本               基本
                           基礎
 
 「基礎・基本」と「個性」をどうとらえるか。
  基礎・基本がベースにあり、個性がてっぺんに来る。逆三角形にすると、個性の下にに基本、その下に基礎がくる。
(基礎と基本の対比)
  基礎 基本
内容 技能と感覚 概念と方法
目標 徹底的な習熟と定着 徹底的な理解と適用
方法 反復練習 討論
課程 積み上げ型 らせん型
 
 目の色の差別についての有名な実践がある。
 あるクラスで、先生が「茶色の目の人は青い目の人より頭が悪いです。青い目の人はすぐれているので腕章をしましょう。」のように差別した。茶色の目の子はがっくりし、青い目の子はうきうきしていた。
 明くる日、また先生が、「昨日の話は間違いでした。茶色の目の子は青い色目の子よりすぐれています。腕章を着けてください。」今度は、茶色の目の子がうきうきし、青い目の子がしょんぼりした。
 3日目、「昨日も一昨日も先生の言ったことは間違いでした。どちらの目の色の子も同じであることがわかりました。」みんなほっとしていた。
 その後、2日間を振り返り、差別を受けた立場と、逆に差別をした立場を思い出して感想を言い合った。差別を受けた方はもちろん、差別をする方もいやな気がしたことを述べ合った。
 その子達を追跡調査した記録がある。大人になったときに、分け隔てなく係ることができるという。聞いてみると、「あのときの先生のおかげである」と言っていた。
 
 すごい実践である。これは何年生だと思うか?3年生の実践。日本で言うと4年生になったばかりの頃の実践だ。
 ぎりぎりだ。ここまでで身に付いた道徳感覚は崩れない。これが5,6年生ではおそい。これは社会科でも言えることで、世界を教えても、頭ではわかっても国際理解の感覚は身に付かない。小学校3年生までに培ったものは大切なのである。
 
 概念は理解しなければならないし、方法は適用できなければならない。 
 理科における基本は、植物については指導要領に書いてある。
小3  作り、順序 などの概念 ;これは基本
中1  これらに方法が入る   ;これも基本
  基本は、基礎(読み、書き、計算、作図など)を使って表現される。
 
 基礎は低学年、基本は中学年から高学年 個性は全体にあるが高学年から広がり中学校、高校へさらに広がっていく。(図 略)
 生活能力課程は少しずつ下がっていく。
 脳科学的に説明すると、基礎の「見る」は後頭葉など、「言語」は側頭葉、「創造性、意志、情操など」は前頭葉などで司る。脳の発達の過程を見ると、後頭葉からだんだん前に発達が移っていることがわかる。
 指導にも順序がある。この脳の発達の順序を意識してやるべき。
 すなわち、見る→話す・書く・読む→考える・想像する この順番でやるのがよい。
 
 時間がなくなってきた。
 (以下、レジメより引用)

(2)教科指導の独自性の明確化
→教科外指導、総合的な学習の時間との異動の明確化を
→「教師」による教科指導と教科外指導・総合的な学習との高いレベルでの結合を!
 

(3)教科指導の趣旨の徹底 思考のための記憶
 1)発達の適時性・段階に応じたメリハリをつけよ!
  ・小学校3〜4年:「基礎」に重点=「技能と感覚」の習熟と定着のための「反    復・練習」
  ・小学校5年生前後〜中学校3年:「基本」に重点=「概念と方法」の理論と適    用のための「討論・実験」
 2)教科の内容・目的に応じた指導方法・指導技術の多彩な活用:個を生かす集団  作り
  ・子どもの学習意欲を引き出す工夫を第一に!→「意欲は指導上の条件」である!
  ・学習の方法=「学び方」の習得を重視せよ!→直接的なパターン化をしないこ   と。
 3)教科と総合的な学習における「体験と理論の往復運動」を!
  ・小学校低学年は「体験」だけでもよいが、高学年はそでだけでは不十分。
  ・「理論」にまで「体験」を練り上げさせるのが教師の固有の役割。
 
【おわりに】

・「確かな学力」には「反省・内省の確かさ」による吟味・修正への配慮を含めよ!
・教育課程全体では「強い個としての日本人」の育成に焦点化せよ!
 
 個性 は集団を前提にしている
 私  は集団を前提としていない。