こんにちは。遠藤@埼玉です。              第165回へ
 Chance-forum MLに、土井香苗弁護士のコスタリカレポート
が流れていましたので転載いたします(他MLへの転載歓迎)。

 コスタリカ便り
 2002年1月30日〜2月7日 コスタリカ国内にて
 報告者 土井 香苗(弁護士)

 土井香苗弁護士・プロフィール
 1975年生まれ。1996年司法試験合格(史上最年少での合格=当時)。
 1997年のピースボートクルーズに参加。
 1997年〜1998年 エリトリアで法律作成ボランティアに従事
 2000年 司法修習終了し弁護士登録
 東京大学法学部卒業 
  
 みなさま
土井香苗(弁護士)@コスタリカです。2002年1月30日〜2月7日まで法律家、新聞記者、平和に興味のある市民で、コスタリカを訪問して視察していますが、これをコスタリカ便りとしてお送りしています。

 初日の1月31日は、国連平和大学、地球評議会への訪問をした後、国際反核法律家協会のヴァルガス氏の講演を聴きました。
 国際反核法律家協会副議長のヴァルガス氏のお話の概要は以下の通りです。
 (文責土井、もちろんヴァルガス氏がこの文章に何らの責任を負わないことは言うまでもありません)

 「コスタリカは、隣国での内戦、クーデター、大国の介入等の危機を乗り越えてながら、1948年に廃止した軍隊を二度と復活させないという理想を追求した。それは、対話で可能だった。対話をベースとした子ども達に対する教育が基礎となった。対話で紛争を解決したのだ。この対話への努力が1986年から政権をとったアリアス大統領のノーベル平和賞となった。
 コスタリカは約20年前に永世非武装中立宣言を行っているが、ここからいろいろなものが生まれた。人権保障、人権や民主主義に価値をみいだすこと、中米の軍隊廃止の動きに協力していくことなどだ。そして、他国に対して、平和を目指して仲介することが中立だからこそ可能になった。
 日本は、コスタリカとは、貿易、政治、人口、問題の大きさが違うから、同じように永世中立宣言をすることはできないという意見がある。しかし、これらの要素の違いがネガティブになるかというと、それは違う。私は、日本は永世中立国であるべきと思う。日本は、アジアの中でこの宣言が出来る第1の国だと思う。その理由の一つは、残念なことに、日本が唯一の被爆国であることである。永世中立国になることによって、二度と被爆を現実にしてはいけないというメッセージにもう一度意義を与えることが出来る。日本の国民はこのことの意味をより重要だと考えるべきではないか。もう一つの理由は、日本の教育水準の高さがある。
 また、コスタリカが紛争にまきこまれそうになった際に、米州機構の一員であることに大きな意味があった。紛争の解決は、こういった国際機関によるべきである。また、コスタリカに設置されている米州人権裁判所が、国際基準による人権課題の解決を実現している。このように、コスタリカには米州人権裁判所があるが、あなたたちは、アジア人権裁判所があれば、いいと思わないか。日本人のみなさんが、最初の音頭をとらないといけない。アジアにもそれが必要ではないか。」と熱弁を振るいました。
 現在、この旅には、朝日新聞記者で私が大ファンの伊藤千尋さんが参加しておられます。そこで、20年以上前のサンパウロ支局長時代からの経験で楽しいお話をして下さいました。コスタリカの平和主義を理解するにあたって、中米の状況の理解はかかせません。たくさんのこぼれ話があって本当におもしろかったのですが、その骨子だけお知らせします。

 伊藤千尋さん(朝日新聞記者)の話:2/1@コスタリカ
 (文責・土井、伊藤千尋さんはこの文章にいかなる責任も負いません)
 「中米における内戦・コスタリカ」
 中米5カ国「グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカ」前4者は戦争を続けてきた。
 グアテマラは、一言で行って、インディヘナ対白人の戦いの歴史。30年の内戦で、20万人が死亡。
 エルサルバドルは14家族が全土を支配。エルサルバドルでは、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が国を支配しそうになったが、アメリカが介入した。しかし、国民の支持はゲリラにあった。政府:ゲリラ=2:1で全土を支配。92年に和平協定が結ばれ、内戦が終わった。75000人死亡。
 ホンジュラスは貧しすぎて内戦も出来なかった。
 ニカラグアは1932年まで20年間ウィリアム・ウォーカーというアメリカの一個人がアメリカンが肩入れの元、国を占領した。
 パナマ運河は幅が狭すぎてあまり役に立たない。航空母艦も通れない。アメリカは、ニカラグアには大きな湖があるので、湖を使って運河を造りたかった。愛国者サンディーノ将軍がこれにゲリラ戦を挑んだ。しかしサンディーノはアメリカにだまされて暗殺された。そこで、アメリカはソモサという軍事独裁者を送り込み、アメリカに完全追従+汚職。
 ニカラグア人は、キューバ革命をみて、翌年の1960年ゲリラ組織サンディニスタ民族解放戦線(FSLM)を作った。1979年に様々な中間層、右まで含んで革命成功。アメリカは、これをつぶすために、マイアミに逃げたソモサ軍を金で金で集めて、右派ゲリラ「コントラ」を作り、ニカラグアに送り込んだ。ホンジュラスのアメリカ軍基地に彼らを送り込み、ホンジュラスからニカラグアに攻め込ませた。82年に戦争が始まり、84年にピークになり、86年には、貧しさ故に政府軍は戦争を遂行できず、厭戦気分が蔓延。
 90年に解放戦線が大統領選挙をやることになった。そしてサンディニスタ民族解放戦線(FSLM)は負けて、チャモロという女性がかった。そして、コントラを許し、様々な人で政権を作った。
 この時代に平和で非武装永世中立宣言をしたコスタリカは、平和を享受していた。すごい。左翼ゲリラの国とパナマに駐留しているアメリカ軍の間で何らかの主張をしなくてはならなかった。そこで、積極的非武装中立宣言。
 その後、86年の選挙で、アメリカに頼らず中立で行くと主張したアリアス大統領がかった(対立候補はアメリカの援助を仰ごうといった人だった)。アリアス大統領は、「俺達だけは平和」という消極的平和ではなくて、積極的平和外交で、「国際火消し」として、中米各国をまわり、戦争をやめるように対話を勧めた。1987年エキスプラス合意を結ばせた。
 コスタリカは、1887年には進歩的独裁政権が憲法を作り、死刑を廃止し、
宗教への介入を禁止した。
 1948年6週間2000人が死んだ内戦を反省し、武器を捨てた。標語は「兵隊の数だけ教師を作ろう」。
 但し、今の問題は経済・・・。
 ちなみに、今まで、どうも不親切な説明でしたが、中米の小国コスタリカは、日本と唯二、平和憲法を持つ国で、1948年以来、本当に憲法を廃止し、1983年には「永世非武装中立宣言」までしました。この宣言をしたのが、今回の人、モンヘ元大統領です。 コスタリカ便り2からもわかるとおり、中米中が戦争に明け暮れ、コスタリカも危ない状況にいたにも拘わらず、です。
 1948年から平和憲法を保っているコスタリカですが、この国は、1983年、中米各国の紛争の中で、改めて、「永世非武装中立宣言」という画期的宣言を行いました。この宣言を行ったのが、モンヘ大統領でした。
 私たちは、2月4日、1982−1986年にコスタリカ大統領で、1983年永世非武装中立宣言を行ったこのモンヘ元大統領からお話を伺いました。
 以下、大統領のお話の概要です。
 (文責土井、もちろんモンヘ元大統領がこの文章に何らの責任を負わないことは言うまでもありません)

 私が大統領だった当時、ニカラグアの左翼政権サンディニスタはソ連とキューバの支援を受けて、アメリカの支援を受けたコントラと闘っていました。冷戦構造がはっきりと中米に現れており、アメリカが様々な右翼を支援し、キューバが様々な左翼を支援し、様々な戦争が行われていたのです。
 当時、アメリカが行っていたことが、主権の侵害であり、人権の侵害であることを世界に示す必要がありました。アメリカのペンタゴンは、私の中立主義に対して、反対の意見を述べに来たが、私はこれを拒絶しました。私は、このような圧力に屈せず、1983年11月17日永世非武装中立宣言を行ったのです。しかし、私たちは、社会民主主義及び共産主義、ローマ法王、キリスト教民主主義そしてコスタリカ市民達の支持を受けることができました。
 私たちは、スイスやオーストリアなどの小国の中立主義を参考にしましたが、しかし、これとコスタリカの中立主義は異なります。彼らは軍隊を持っていますが、私たちは軍隊を持っていないのです。中立を守るために、私たちは、軍隊で武装するのではなく、調停と仲介を通じて積極的に平和を作り上げていくことが必要です。
 この中立は、イデオロギー的な立場で主張しているのではないけれども、人権尊重、自由を守るという指向性を持っています。アメリカ内でも、タカ派は私たちを非難したが、一方で、民主党などは、コスタリカのポジションを支持したのです。
 確かに、この永世非武装中立宣言後も、アメリカのタカ派などからの圧力がありました。レーガン政権は、当時、コントラという右翼ゲリラを支援して、ニカラグアの左翼政権を攻撃するなど、中米各国の左翼政権を攻撃していました。
 私は、レーガン大統領及びブッシュ副大統領と会見して、自分の中立プログラムを文書として提出したのです。そして、コスタリカは、福祉と教育に力をいれて、コスタリカの独自の思想で、この圧力をはねのけたのです。   以上