平成20年10月3日(金)
 愛知教育大学附属名古屋中学校研究発表会
記念講演 要旨
「新しい学習指導要領の理念と今後の実践課題」
    兵庫教育大学長 文学博士 中央教育審議会委員
                 梶 田 叡 一
                            文責 土 井

この記録は、土井が講演メモをもとに要約したものであり、よって誤解や曲解があり得るため、講演者、主催者には何の責任もないことを御了承ください。そのため転載はご遠慮ください。

 
愛知県は教育熱心な所だ。今日も多くの人が集まり、授業を見て、教科ごとの分科会に参加されいいことだと思う。
 これからの教育のあり方について話す。愛知県の場合にはそれほど心配はないが、この20年ほどで日本の教育がだめになった。
 今度の指導要領の改訂は、日本の元々の学校教育を再建しようという思いでつくられた。見かけ上は、内容も時数も増える。前に削られたところが復活し、レベルが上がる。
 でも、元々小中高ともそうだった。欧米に比べても、内容のレベルは高く充実していた。先生も優秀だった。子どもたちに、「知」の力を付けてきた。これが日本の教育だった。
 60数年前日本は廃墟になった。満州などから多くの人が帰ってきた。工業力もない、破壊されたところから始めて、今やどうやってダイエットするかの話になった。
 高度経済成長があって、70年代以降は日本はすごく豊かになった。私は、戦争の記憶がある少ない人の一人になった。空襲を受けたり、機銃掃射されたり、防空壕に入ったり、父は兵隊にとられた。敗戦があって、食うや食わずの状態を覚えている。
 70年頃は、世界がうらやむくらいに豊かになった。今でもそう。アメリカ発の不況でたいへんとかいうが、飢え死にする恐れはない。せいぜい株が下がるだけ。愛知県は今度のショックは大きいらしいが…。
 でも、豊かな暮らしは保証されている。世界に目をやると、子どもたちの3分の1は飢えている。私の妻は、10何年前からペルーの子を支援しているNGOでやっている。いろいろ行って、たいへん貧富の差が大きい国を見てきた。2年前に知り合った子が、もう亡くなっていた。
 ありがたいことに、日本は豊になった。なぜこうなったのか?勤勉だったこともある。でも、教育の力が一番大きい。勤勉だけなら、どの国もまじめに働いている。でも積み重ねてきた教育の力が、一人ひとりの知の力・知性によって豊かになった。
 ところが、どの国でもそうだが、豊かなくらしが20年ぐらいにすると、ゆるむ、たるむ。
 日本も、70年頃に豊かになり、90年代に緩んだ。教育でも、ゆとり教育、この中で何が起こったか。10年前のカリキュラムでは、大幅に中身を減らした。イオンがなくなった。その10年前にも減らしている。カリキュラムもやさしくなった。
 そのなかで、指導の仕方も、「指導でなく支援しましょう」「勉強を教えてはいけない」と、文部省も教えて回った。学校は、勉強するところではなく、豊かな体験をするところになった。
 その間に、授業研究がなくなってきた。かつてはみんな授業研究をした。若い人は、今の姿が当たり前と思ってはいけない。今の教務以上の年代の人は、よく授業研究、教材研究をした。遅くまで激論をした。現場にかかわって35,6年たつが、見ていると、残念なことに90年頃からだめになった。子どもを信頼して、子どもがやりたくなったら支援する。こちらから教材をぶつけたり、発問をぶつけたり、導入の工夫とか、単元を見通した活動とか、吹っ飛んでしまった。
 カリキュラムが簡単になり、現場も勉強しなくなった。その結果、子どもたちの学力、生活の仕方ができた。学力も下がった。

 
TIMSの学力調査、小学校5年生と中学校2年生対象に30年ぐらい前からやっている。37,8カ国で調査している。当時は、日本は断然トップ。だんだん落ちてきて、韓国やシンガポールなど、日本の上にいくつかある。順番を競うわけではないが、算数・数学や理科の力が落ちた。
 OECDが主催した調査でも、フィンランドがいいが日本は落ちてきた。2003年にはピザショックと言われた。2006年も日本は下がり、高校1年だが、読解力が弱いと言われた。フィンランドに学べがはやりになった。
 韓国はやった。全国挙げて頑張った。
 日本は、昔の光今いずこ。90年代には、不登校が増えた。80年代から問題になっていた。
都研が、当時は学校恐怖症と言っていたが、悉皆調査をした。
 私は本職は心理学。教育との両刀使い。今でも、心理学的なことには関心をもっている。今で言うと、臨床心理の話。当時は不登校を重症の子、病気だと見ていた。今では学校嫌いは誰でもおこりうる考えられているが、当時はわずかだった。
 その原因は、親子関係の問題、家庭の問題と見ていた。父が弱く、母が強い家庭で、自我の発達が遅れ、これが不登校の形に表れるといわれた。当時は、うちも気を付けないとね。父が弱いから(笑い)。今は子どもは大きくなり、孫が5人いる。
 不登校を異常な状態、精神的・心理的な問題と考えていたのが80年代。今はどこにでもある。これが増えたのが90年代。
 子どもに寄り添って、信頼して、好きなようにやらせて、子ども中心といかにも子どもを大事にする言葉があふれた。その中で不登校が増えた。きわめて逆説的だ。
 子ども中心といいながら、いいかげんな関わりしかしてこなかったからだ。授業研究が、教材研究がすたれて、不登校が増えた。そんな教育界の雰囲気があった。行政も含めて、世の中のすべてが緩んだ。
 夕べも、文科省の課長クラスとゆっくり話をした。こういう話になると、「当時の文部省の方針はおかしいと思っていた」などと言い訳をした。「あんただけが悪いわけではない。」と言ったが、大反省するべきだ。去年はよく一緒に夜遅くまでやった人たちは、反省していた。
 これは日本だけではない。アメリカ、イギリスも20年早く豊かになり、50年代に豊かになり、70年代にゆるんだ。20年遅れて、日本が90年代にゆるんだ。
 欧米は、フリースクールやオープンスクールが70年代の始めにはやったが、今はやっていない。私は、昔はよく海外へ視察へ行った。活動として、おもしろい学校がいくつかあった。
 子どもたちがカーペットに寝転んで勉強していた。ところが、それを10年やったら、教育界から悲鳴が上がった。80年前後から。自由な教育、個性を伸ばす教育は、学力の大幅な低下と問題行動を増やした。ベーシックに帰ろう、元々の学校に帰ろうという声が出た。
 アメリカでは、社会も同様。殺人事件も今より多かった。ニューヨークは昼でも地下鉄に乗れなかった。怖かったけど、前衛的なミュージカルなどおもしろいこともあった。サンフランシスコではヒッピーがいて、おもしろかったが、社会全体の伝統的なたがは緩んだ。芸術的には、面白い動きはあったが、しかし、犯罪・殺人は増えた時期だ。
 80年代のタイム誌を持っているが、学校教育の崩壊の特集をやっていた。アメリカは元に帰った。1983年に「危機に立つ国家」という報告書を出した。今崩壊のがけっプチにあると。
 その報告書をきっかけに、アメリカは変わり始めた。教室のカーペットを外し、普通の授業を始めた。そして日本の学校へ視察に来た。何を見に来たか?個別指導ではない。40人の生徒がいて、先生が発問をし、一人ひとりが考え、意見を出し、それを聞いた他の生徒が意見をつないでいく。思考が進んで、学級全体で集団として、いろんな発想が生まれる。一人では深まらないことを集団で深まる。日本では実現している。今日も、そういう試みがあったように聞いている。そこで大事なのは、発言すればいいというものではない。根拠まで含めてどう提示するか、それを聞いた上で、次の意見を準備する。それが集団思考。
 手を挙げればいいというものではない。自由に意見を言うだけならうるさいだけ。
 アメリカから日本へ見に来たのは、先生の舵取りの元で、一人一人が自分のことを深めて、それが集団としての学びにつながるのを見に来た。日本に学ぼうと。
 今は、フィンランドに学ぼう、秋田に学ぼうもはやっている。でも、結論から言うと、愛知の人は愛知の先人から学ぼうというのがよい。 
 アメリカは、80年代後半に、伝統的な教育、子どもに力を付ける教育にもどった。同じ頃、イギリスではサッチャーがイギリスの学校教育を変えた。
 アメリカ、イギリスが引き締まったころ、日本は、時間のずれがあり、ゆとり教育に突入していた。たとえば、「勉強嫌いも個性、学校嫌いも個性」という人もいた。人ごとならいいが、先生や教育委員会、文部省の人が言ったらおしまいだ。嫌いな子をどうやって好きにさせるかが使命であり、プロの力量だ。学校が面白いと実感させるのが教師のつとめだ。ところが、文部省のある人は、勉強なんかやってどうするの、子どもたちは勉強に疲れていると言っていた。私は、「疲れているのはあなただ」と言いたい。
 おそらく、その人はこれまでいい先生に出会えなかったのだろう。いい先生に出会わないと、勉強は苦行になる。脅迫観念に追い立てられ、テストがあり、難行、苦行だ。いい先生に出会ったらそれもふっ飛ぶ。いい先生は、こういうふうに考えてみよか、などとうまく進めていく。
 一人の力だけでやろうとするからしんどい。受験有名校になると、一人ひとりバラバラだ。そうでない学校もあるが。

 私は
、先生に恵まれた。手島先生だ。岩波少年文庫も読んで、感想文を5,6行書くと、先生は赤ペンでそれ以上に感想を書いてくれた。田舎の小学校だから、学校に入るまでみんな漢字もひらがなも知らなかった。それが、小学校2年生には、岩波少年文庫を読んでいた。算数、理科はカード学習。先生が丸を付けてくれた。音楽も、手作りの五線の教具でやってもらった。ほとんど全員が、初見の楽譜で、階名でメロディを歌えた。今なら習っている子がいるが、当時はいない。でも苦しくなかった。いい先生に出会ったからだ。
 中学でも、高校でもいい先生に出会った。一人二人良い先生に出会えばよい。先生にもあたりはずれがある。はずれの人を教壇に立たせない話は、今日はしない。

 2001年に
教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)を改正してその道を作った。研修を受けてもらう制度だ。2007年には、教育公務員特例法もつくった。みなさん、帰ったら、学校は定年までいられる職場だと思ったら大間違いだと伝えてほしい。
 もともとの学校は、プロ教師の集まりだった。ある時から、学校は生活のための職場だと考えるようになった。つい手を抜く人も時々いる。
 私の子も孫も、みんな公立へ行かせた。私学は厳しい。だめな人は教壇に立てないし、いい人はスカウトしてくる。公立は場合によってはぬるま湯になる。
 90年代から今日まで、アメリカ・イギリスより20年遅れて緩みが来た。行政もそれに乗った。大学の先生も乗った。現場も流れた。

 私は月1回の勉強会を今も続けている。単元の指導計画とか発問もきちっと書いている。全部がだれているわけではない。仲間と京都で実践交流会をやったが、800人集まった。組合嫌い、教委嫌いの若い人の集まりだ。その学校で、「子どもに寄り添って」なんて言っても、「知るか」と言われる。そうやってがんばっている人もいるが、多くはだめになった。がんばってやっても、指導要領そのもののレベルが低いから。 
 これについて、反省は90年代終わりには、大学から出てきた。理学部・工学部なんかが困った。京都大学の理学部、医学部、工学部は補習をした。入ってくる学生がダメだからではなく、物理・化学・生物・地学、数学のカリキュラムがだめだからだ。国際的に考えて。
 東京大学と違って、京都大学はノーベル賞を狙っている。国際的な学会で指導的な立場に立つ人を養成している。しかし、高校までの教育がこうでは、1,2年生で補修をしないと太刀打ちできない。補習は大阪大でもやっていた。東京大学も始まった。
 あのころ学力が落ちているという本が出ていたが、それは一部の話。分数ができないと話題になったが、実はカリキュラムそのものが問題だった。
 90年代後半に、科学技術庁が音頭をとって、有馬朗人さん、東京工業大学学長の木村孟さんあたりががんばって、科学技術基本計画を閣議決定した。5年間で7兆円投資した。第2期は8兆円、第3期も8兆円。スーパーサイエンスハイスクールは年間3000万円出る。普通の文科省の指定は、せいぜい30万、40万。紀要を作ったら終わり。
 高校はこれで伸びたが、大学はやたらきれいになった。東大、京大、東北大、大阪大、東工大などきれいだ。
 90年代後半の国の政策は2つに分かれた。片や文科省は子どもを信頼してまかせましょう、目がキラキラ。それを科学技術庁は苦々しく思っていた。子どもがダメになると、日本の科学技術はダメになる。そうなると、日本は食えなくなると。
 日本は資源がない。一億二千万人の食糧、油は輸入に頼っている。その代金はトヨタが頑張っている。トヨタの車は安いから売れるのではない。トヨタはアメリカの車に比べて高い。でも優れているから売れるのである。それはトヨタの技術者が開発したから。ホンダもそう、日産もそう。他のハイテク産業もそう。少々高くても買ってくれる。そのあがりで、我々がやっている。
 ハイテク産業の経営者は、ゆとり世代は冬の時代といっている。太刀打ちできない。日本の若者はダメになった。好きなときに好きなことをやっていてはできない。日本がつぶれる。

 2000年教育改革国民会議。総理官邸で15回、丸テーブルで議論した。
 私も文科省を批判してきたから、非難側から選ばれた。連合からも、経団連から、大学の先生もいて、いろんな人をバランスよく集めた。
 江崎玲於奈さんが座長をやった。まとめの方向性を決めるために、牛尾さん、木村さんなどと7、8人で企画委員会をつくった。ここで、今の教育は日本の伝統的な教育から足を踏み外しているので考え直そうという方針が決まった。そのために、指導要領を変えて、頑張る先生と頑張らない先生の扱いを変えよう、教育基本法を変えようということになった。
 2000年11月 「教育を変える17の提案」を出した。これで町村大臣に宣言した。
 2001年 1月 文部省と科学技術庁が一緒になり、文科省になる。
 国民会議の報告を初代の事務次官・宇野さんに講話をした。
 1 ゆとりは大事だが、ゆるみはだめ。
 2 「子どもの自主性・自発性を尊重する」という名目で、実は指導放棄になっていた。
 3 総合的な学習は遊びになっている。
 これを読売新聞が、一面トップに「ゆとり全面転換」と書いた。2001年1月のことだ。
 この後の話し合いでは、みんな、大事なことが落ちていると言った。文部省が旗を振って始めたことだから、反省の言葉がほしかったと。
 今回の中教審答申には反省を入れた。趣旨の徹底がなされていなかった。自主性・自発性を言い過ぎたなどである。中教審の話し合いは我々委員がやるが、実際に答申を書いているのは文科省の役人だ。そこで初めて反省を書いてくれた。
 2001年、そこで問題になったのは、2002年の完全実施をやめるということ。ここでさらに時間と内容の削減はおかしいのではないかという意見だ。しかし、告示されて法令になった以上、途中で撤回は無理。そこで考えたのが、二つの面での運用の変更である。
 一つは、指導要領を最低基準ととらえること。それまでは、指導要領は標準。その通りにやる。それ以後は最低基準だから、内容を増やしてもよいとした。
 たとえば、イオンを教えるかどうかは学校の判断ですよということ。どうしてもやりたいと思えばやればよい。
 これは、教育課程部会でも説明があった。
 成田市の教育長は文科省から来ていた。私は成田市に行ったら、「2001年までの教科書を捨てないように」、という通知があった。新しい教科書はイオンが削られているから、そこは古い教科書を使わなければならない。さすがである。

 2003年10月に、趣旨を明確にするために、中教審答申が出た。これにより、指導要領は、最低基準とはっきりした。時間数、内容について、土曜日、長期休業に授業をやってもいいとなった。
 2003年12月総則を一部改正した。同時に、内容の取り扱いについて通知した。 
 もう一つは、それまでは学力という言葉をずっといわなかった。しかし、2002年、全面実施の直前、遠山大臣が「学びのすすめ」を言った。「確かな学力が大事だ」と、文科省は予算を取って、学力向上推進事業をはじめた。都道府県に降ろして、小中学校に学力向上パイロットスクールを作った。市町ごとにテストやったり、奨励するようになった。
 90年前後には、文科省は学力検査にはいい顔をしなかった。都道府県がやったテストにだめ、校長会のもだめ。中学校は進路指導に困ってしまった。それが今度はテストやれと言い出した。それが、全国学力・学習状況調査だ。

 今回の指導要領では、キャッチフレーズをつくらない。今までは毎回あった。今回はオーソドックスな学校に帰ろう。子どもたちが本当に勉強を好きになる、賢くなる、そのために、そんな子どもたちを育てる力量と使命感のある教師が教壇に立つ、そんな願いが込められている。
 これまでと同じ、最終的には生きる力だ。これは、総合的な人間だ。学校の中だけで通用する力ではだめ。一つは世の中に出て通用しなければならない、もう一つは自分の人生を切り拓かなくてはいけない。この2つである。
 儒教文化圏は、学校教育は、世の中に出て役に立つ力をつけることも大事だが、それ以上に、人間として生きていく力、修身斉家治国平天下。修身、まず身を修める力をつけることが大事だ。
 今日も交流という言葉がでた。他者との交流は大事だ。しかしそれ以上に大切なものは、自分との交流が大事。自己との対話だ。この2つがなきゃいけない。
 これが手元の資料にある「〈生きる〉ということの2側面」である。
【我々の世界】を生きる(人々と手をつなぎ支え合って生きる)=現象的社会水準
  @ 我々の共有の世界(皆の世界)を生きる
  A 自分の社会的立場・役割を自覚しつつ生きる
  B みんなに承認され、支持されつつ生きる
【我の世界】を生きる(自分自身を拠り所として一人旅をする)=本質的実存的水準
  @ 我の固有独自の世界を生きる
  A 自分の実感・納得・本音の世界を深め、それに依拠して生きる
  B 自分の現実を受容し、自分と対話し、自分を支えつつ生きる。
 
 人間はこの2つが大事である。

 若い人が多いが、定年なんてすぐに来る。
90ぐらいまで生きられる。それはお釣りの人生か?違う。
 学校の先生も一つのステージだ。若い頃は夢中にがんばり力をつけていくステージ。中堅になると、他の人の世話もしながら学校全体のことを考えていくステージ、そして教頭や校長になると、学校全体の責任がのしかかってくる。それもステージ。しかし、それも終わると全く新しいステージ、毎日が日曜日になる。
 寝たきりも大事なステージ。そうやって与えられた命を生ききる。ちょっとのことでワクワクする、ドキドキする、絵や彫刻を見てビビット来る、良い音楽を聴いてビビット来る。そうして活性化することがないとやっていけない。
 現役時代は、まだ刺激があるからよいが、リタイアしたら、そうして自分で自分に刺激を与えないとやっていけない。こうした力は、小学校のうちからつけていかなければならない。
 案外、現役時代の大校長ほど、定年して5年ほどすると見る影もない。仕事をやめたら肩書は関係ない。自分で世の中の役割を持ち、自分を充実させるかだ。
 指導要領改訂で、図工・美術、音楽の時間を削ろうという意見があった。それはおかしい。あいまいな文学作品をやめて、論理的な文章中心にやろうと言いうこともでたが、そうではない。芸術が大事。なぜか?我の世界を生きるためだ。一人一人の感性を耕すためだ。自分一人で自分の人生を生きていくためには、芸術は大切だ。
 この作品はノーベル文学賞をもらったから読んでおかなくちゃダメだではない。この絵は高いから感動しなくてはならないはおかしい。
 自分でビンと来るかどうかだ。自分にとっていいものはいい、それがわかることが大事だ。
 読書。したって、成績につながらない。難しい学校に入りたかったら、むしろ読書しない方がよいかも。しかし、それは寂しい人生だ。
 効率的に働くことができた。それだけではだめで、両方が大事だ。
 前の指導要領には、「ゆとりの中で生きる力を育てる」と、書いてあった。授業時数を減らし、内容を減らし、その浮いた中で生きる力をつけるという発想であった。
 つまり、勉強ということの別枠で、生きる力があった。それは全くの間違いだ。なぜなら、人間の人間たる所以は知性があるから。ホモサピエンスだ。つまり、賢くなくてはいけない。その子なりに、その人なりに、いろんなものを知っていなくてはならない。自分なりに考えなくてはいけない。そして、いろんな考え方をふまえて、自分なりの責任で、自分なりの判断ができなくてはいけない。これが賢くなるということ。そのために学校がある。
 世界中どこの国でも、賢くなるために学校がある。豊かな体験のためではない。「知を拓く」が学校の使命。
 生きる力は、自ら学び自ら考えるも大事。でも、親や先生のいうことを聞くことも大事。みんなが自ら、自らと言いだしたら、どうなる?反抗期だけでいい。
 人間が成熟していくということは、「私は…」と思うと同時に、親は、先生は、友達はなど、多様な視点を自分の中に受け入れるかどうかだ。
 「自ら…」ばかりいったからだめ。援助交際が当たり前のような地域がある。苦言を呈すると、「自分で考えて、自分の判断でしたこと」と言い返された。
 たとえ自分の判断だとしても、人間として美しいことと醜いことがあると教えなくてはいけない。自分が親になった時に、自分の子に援助交際していたと言えるか?
 自分の責任で、自分の判断でだけではだめなこともある。人間として。
 生きる力にしても、自ら学び自ら考えるにしても、一面的なゆがんだ受け止め方が現場であったことは受け止めなければならない。
 もともと日本の教育は一面的ではなかた。愛知県は実践の蓄積がすばらしい。50年前、60年前、先輩がどう取り組んだか。掘り起こしながら、バランスのとれた子どもに本当の力をつける、そういう教育を目指してほしい。それができるのがプロの教師。
 子どもにも面白く、わかった、できた、おもしろい。これが教師のプロ。

 今日の中にはヒントがあった。教科別の分科会ではいい意見があった。指導助言はすばらしかった。こういうレベルの高さは、この地域のこれまでの実践の積み上げのおかげ。これをみんなのものにして、子どもたち一人ひとり、その子なりの賢さを育て(ものを知っていることもはいる)、それを土台にして考え、判断できるようになる。自分の責任で生きれるようになる。それが世の中でも通用するようになる、自分の人生を自分の足で着実に歩くようになる。そんな教育を目指してください。ご静聴ありがとうございました。

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