1 児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議(令和5年度第1回) 配付資料
1.日時 令和5年11月24日(金曜日)10時00分~12時00分
2.場所 Web会議
3.議題 児童生徒の自殺の状況及び直近の国の取組について
これまでの学校における自殺予防の取組について
4.配付資料
【議事次第】児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議(令和5年度第1回) (PDF:159KB)
【資料1】児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議の設置について (PDF:145KB) PDF
【資料2】児童生徒の自殺予防等の現状について (PDF:528KB) PDF
【資料3】こどもの自殺対策緊急強化プラン (PDF:1.3MB) PDF
【資料4】学校における自殺予防の取組について (PDF:711KB) PDF
【資料5】ICTを活用した悩みや不安を抱えた児童生徒の早期把握・早期支援について
【参考資料1】自殺対策基本法(平成18年法律第85号)抜粋 (PDF:108KB) PDF
【参考資料2】自殺総合対策大綱(令和4年10月14日閣議決定)抜粋 (PDF:155KB) PDF
【参考資料3】「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引き)」


2 長久手FW報告
2023年11月18日土曜日)、中日文化センター主催、「歩いて巡る愛知の古城と史跡」(2023年10~12月)「長久手古戦場めぐり」へ行ってきました。
黄色い○印が今回の訪問地。

1長久手古戦場駅、2長久手古戦場、以下、首塚、色金山、岩作城址、耳塚、武蔵塚、
血の池公園、長久手城址、御旗山、堀秀政陣跡、常照寺
ブログで詳しく紹介したので、ここでは概略のみ紹介します。
長久手古戦場
庄九郎塚(国指定史跡)。池田恒興の長男、池田元助(之助/幼名庄九郎)の戦死の地です。天正12(1584)年、4月9日26歳。
勝入(しょうにゅう)塚。秀吉方の武将、池田元助の父、池田恒興(勝入)戦死地を示す塚です。

池田恒興は清須会議にも参加した有力な武将。

「小牧長久手合戦図屏風」では、首が取られた後が描かれています。取ったのは永井直勝。永井直勝は碧南の宝珠寺で産まれた話は以前に紹介しました。
長久手市役所 郷土資料室は省略します。
首塚、色金山、岩作城址

岩作村安昌寺の雲山和尚は、多く

の将兵の屍を集めて弔い、そこに首

塚を築きました。
将兵の屍から鎧等を奪うのは原則いけませんが、弔うために動員された農民には、それを黙認していました。けっこうな臨時収入になったそうです。
徳川家康軍が陣を張り、軍議を開いたといわれる色金山です。
今井氏の居城で、池田恒興によって攻め落とされてい岩作(やざこ)城です。渡辺守綱もこの辺りを治めています
耳塚、武蔵塚、血の池公園
左から2枚目の耳塚は、場所が移動したのでしょうか、碑しかありません。
左から3枚目は、森長可(美濃国金山城主)の戦死地で、その官名にちなみ「武蔵塚」とよばれています。「鬼武蔵」と呼ばれたほどの勇猛果敢な武将として知られています。
一番右は、かつては池でした。子どもの水難事故があり、埋め立てられました。このグランドこそが、かつての「血の池」だったのです。長久手の戦いで、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀をこの池で洗いました。それ以降、この池には「毎年、合戦のあった4

月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残ったのです。それが「血の池」と呼ばれた由来です。
今では、この池を埋め立て、「血の池公園」になっています。「血の池」で武器の洗い物をするときに、武将が鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」がありました。
常照寺
浄土真宗高田派。長湫村の村寺で、三将(池田恒興、池田元助、森長可)の墓石と伝わる古い五輪塔があります。
3 拙稿紹介「子どもの集中力を持続させる!授業で使えるワザ
-誰一人取り残さないための全員集中のワザを-」
別紙で紹介しましちた。
恒例のシーズンオフシリーズは、
1月25日 土井謙次 「織田信長はなぜ強かった?-将たる者に必要なものは-」
尾張守護代の一奉行にすぎない家に生まれながら天下人に上り詰めた織田信長。
信長はなぜ強かった? この疑問を、いろいろな「見方」で深掘りします。
そして、将たる者に必要な資質を考えます。今宵で、あなたの信長観は変わります!かな?
本当は三英傑の経済学をやろうと思ったのですが、信長だけでネタが多すぎて分割することにしました。
しかし、先行研究を調べ、現地取材を重ねる中で、これまでの自分の信長像が大きく崩れていきました。より真実に近い信長とは?実際に子どもたちに教えている小中学校の先生にぜひ聴いてもらいたい話です。
歴史は変わるのです。
2月15日 高橋宏滋 先生 「『やまなし』の真実」
3月15日 早川浩史 先生 「MLB紀行2023」