戦争体験記聞き取り集     社楽へ

A氏(77歳),B氏(69歳)

昭和20年7月12日夜11時頃,五明の武田助産院付近の7,8件が焼夷弾で燃えた。近くにあった草むらに火がつき,近所に広がったようだ。各務原,小牧空港に爆弾を落とした帰りに余っていた爆弾を落としたと聞いている。昭和20年頃,名古屋から歩いて今市場に疎開してきた。とにかく恐かった。はやく戦争が終わって名古屋に帰りたかった。

 C氏(69歳)

空襲の様子
 昭和20年7月13日及び7月28日の二回に分けて一宮市がB29によって空襲されました。
特に,2回目の空襲は布袋の五明,小折に死者・負傷者が出ました。五明では数多くのやけどを負った人,亡くなった人も2人ほど出ました。小折は,私の家のすぐ裏の家ではお父さんが出征されていて留守の所,おばあさん,奥さん,子供二人がみなさんといっしょに防空壕へいたのに,自分の家の畑が現在の関西電力の鉄塔の下にあるので,そちらの方が安全だと思い,一家四人と隣の家に手伝いに来ていた娘さんも連れだって,そこで四人が即死状態で奥さんだけが火傷を負い家に帰っていた。みなさんが,行方がわからないので探していたところ,自宅の入り口付近で,黄燐焼夷弾の黄燐を体中に浴びうずくまり苦しんでおられる所を発見されましたが,火傷がひどく翌日なくなったということです。
ちょうどそんな頃,家のおじいちゃんの友達から聞いたそうですが,一宮から火に追われて東へ東へと逃げてきた人が8キロもある小折まで逃げてこられたそうです。28日午後10時から翌朝午前2時頃までの出来事でした。

当時の社会状況
特に戦争が烈しくなって昼夜を分けず空襲があり,大きい町が次から次へと焼けていきました。
 それでも絶対に負けることはないと勝利を信じ,中学生も学業もそこそこに軍需工場へ勤労奉仕にゆきました。そうした人たちも次から次へと空襲されなくなった方もたくさん出ました。
 また,物価統制令が敷かれ,勝手に品物を動かすことのできませんでした。
 
戦時中の食糧事情について
食料も少なく,何よりも増産しなければならないということで,今の小学校の校庭も皆畑となり,サツマイモ等が作られました。一般の人たちの毎日の食べる物は代用食が多く,「すいとん」,豆かす入りのご飯,雑穀入りのご飯,それも不足がちで田舎の人たちはともかく,街の人たちはずいぶん苦労して食料を手に入れていました。
 家のおじいちゃんの話では,軍需工場へ行っている人たちの寮の食事は,朝は小麦の粒の雑すい,夜はジャガイモの小さいのが皮付きのまま10個ぐらい,味噌汁の実はゴボウの葉,フキの葉まで食べたそうです。

疎開について
 都会では行われていましたが,布袋付近では山奥に親戚のある人が荷物を預けた程度で学童の疎開はなかったように思います。

過去を振り返って
昭和20年8月15日,戦争は終わり,日本は滅亡をまぬがれた。そして,終戦後の混乱のなかを,国民の懸命の働きと努力によって世界でも有数の経済大国となったが,その陰に戦争のために多くの犠牲者のあったことを忘れてはならない。
 学業を捨て学徒出陣し,特攻隊となって国のために米国の軍艦に体当たりして若い命を捧げた人達の運命も,歴史を閉じる為のやむを得ない事だったかもしれない。それだけに,なおさらにこのことは何時の時代までも伝えて,日本国民として決して忘れてはならないのです。

D氏 59歳

戦争の思い出
終戦時小学校4年生
 昭和19年(小学校3年生)の時,戦争で使う戦車,銃のための原料「鉄」が不足してきたため,全国からくず鉄,鉄製品のあらゆる物の供出を行った。
 各家庭では,敵が空中から攻撃してくるから,その時の避難する場所として,庭に防空壕(土の中で火災や爆弾を防ぐ)も作った。
 また,敵が日本へ上陸してきたときの対応として,婦人・子供達が竹槍で相手を殺す練習をした。

  昭和20年の春ごろから,低空で飛行機(小型機)が飛んでくるようになり,朝学校への通学途中に飛行機から機関銃でねらわれることがあった。その場合は,畑の中へ身を隠し,飛行機の音や機関銃の音が聞こえなくなってから学校へ行った。 学校で勉強中に敵機襲来(サイレンが鳴る)の合図が出た場合は,生徒は頭に防空頭巾をつけて鞄を持ってすぐ家に帰りました。警報解除のサイレンが鳴った場合は,また学校へ出かけていき勉強をしました。
 昼の間は,高いところを飛ぶ飛行機(B29爆撃機)が主に軍需産業(飛行機や戦争機器の製造工場)を目標に爆弾を投下しました。私たちの目で爆弾が落ちで行くのが見えました。
 私の近くで焼夷弾が落ち,恐ろしい体験をしました。それは,夜間に電球を点灯したために,敵機がその電球を目標に焼夷弾を投下して,家が3,4軒燃え上がり,私たちは防空壕へ逃げふるえていました。夜でしたから,家の燃えるのが近くに感じられ本当に恐ろしい体験をしました。
戦争の終わり頃に,今市場に爆弾が落ちた記憶は,思い出すたびに身震いします。

E氏  64歳  F氏 59歳

 遠くの堤防から見ていると,爆弾が落ちるたびに街が真昼のように明るい。布袋は街だったので,遠くから買い物に来る人がたくさんいた。(5,6時間歩く) 雨の降るような音がする。すごい砂埃で前が見えない。家の中がまるで地震にあったときのようにぐちゃぐちゃ。飛行機がすぐ下まで降りてきて,人をねらう。サイレンが鳴ると竹薮に逃げて,止まると家に戻るの繰り返し。死体が木などにたくさん引っかかっているので,子供も降ろすのを手伝った。
 学校に着ていく物がないので,あるものをまとう。生きていく希望もなく,地獄のような生活だった。

 疎開について
ここにいても死ぬだけだといって,曾おばあちゃんがおばあちゃんを犬山の山の奥へ疎開させた。歩いていった。少しの間お世話になったけど,「どうせ死ぬならいっしょがいい」といって,家に帰った。その後,戦争が終わったときは,もうたとえようのないぐらいすごい喜びだった。


G氏  75歳

 昭和20年6月,五明でも13から15軒焼かれました。布袋新町3丁目にも3,4ヶ所焼夷弾が落とされ,死者も出ました。雨の夜,一宮方面の県道南側が多く焼かれています。
 布袋新町の大部分の人が,木賀の神社,または,栄町地蔵山にのがれました。また,現在西部ゴムが艦載機で低空飛行にて,終戦少し前に死者が出ました。
 五明町では,一家全員5名がなくなられました。
 
疎開について
 昭和19年から20年,市の人たちが田舎に行きました。五明道音寺にも,小学生がたくさん来ていらしました。私も,実家が新町でしたので,名古屋から帰りました。皆がリヤカーで運びましたので,リヤカーの列が連なりました。
 

H氏  66歳

 五明に焼夷弾が落とされた。昼間に偵察に来て,夜焼夷弾が落とされた。
 イモ,小麦粉などを食べた。寺,公民館などに,名古屋から疎開してきた人がいた。


I氏 51歳,J氏 73歳,K氏 70歳

 昭和20年6月〜7月末,梅雨で視界が悪いので最も空襲が激しかった。
 20年7月14日,五明の愛知ゴム(現西部ポリマ化成)アメリカ艦載機による機関砲射撃を受け,三人ほどの死傷者。その夜,五明に焼夷弾(油が入っていて落下後ひどく燃える。径70pほどで16に分裂)が落ち,4軒焼失。岩田八朗,間宮梅吉,岩田忠義,武田幸重。
 現布袋食糧本社のあるところにも,焼夷弾落下,愛北病院の医師・坂藤一家3人が死亡し被害が大きかった。元,江南保健所(現アコ),布袋新町大仏殿西と小郷部落南の畑の中に50s爆弾が落下し,直径10メートル程の大穴が残った。

疎開について
尾北高校へ名古屋から児童が来た。
 政木写真館の裏へ,空襲で店を焼かれた名古屋の紙屋家族が避難してきた。20年5月頃
 支那事変国債がある。

L氏
昭和18年10月召集で三島野戦へ入隊

M氏 78歳

昭和20年7月頃
江南市今市場町の東部  Aさん…全焼  Bさん…全焼で父親だけ大火傷
Cさん…全焼で両親と子供2人死亡
 様子 雨の降る夜中で,一宮方面より楽田の方へ一機ずつ飛来し,今市場へは油を落とし,Cさん方へはかやぶき屋根の上へ落ちた。次から飛来してきたため,消火が遅れ全焼した。付近の田畑へも落ちた。

疎開は,名古屋方面の人が来ていた。蔵のある家へ荷物を預かった人がいた。

N氏 70歳

昭和19年8月頃空襲が落ちた。(焼夷弾)
 場所は今市場と五明。
 ようすは花火のように真っ赤になり,焼夷弾が落ちてきた。
道路に穴があいたところもあった。家が燃え,死んだ人も出た。


O氏 83歳

中国(支那)に戦争中にアメリカの飛行機が来て何回も空襲を受けたが,名古屋,尾張地区の大空襲の方がすごかったと聞いています。
 それに,戦後の空襲の後かたづけは大変だったと聞いています。
 
疎開について
 私の出征中に,家族は昭和19年から20年にかけて,岡崎,豊田と2ヶ所に疎開していた。私は丈夫でいたが,戦地から手紙が出せないので,家のこともわからず,自分のことも伝えることができず,子供は丈夫でいるか,食べ物はあるかと心配していた。
 昭和21年に戦地から帰った。みんな丈夫だったのでうれしかった。