講演会「仁所野遺跡と尾張北部の古墳文化」報告    社楽第150回報告へ
                       平成13年5月13日 大口町健康文化センター
講師  伊藤秋男先生(南山大教授)
参加者 106名
  報告者 土 井
 この講演会について,内容・感想を報告します。といっても,もともと知識が少ないため,誤った理解をしたかもしれませんので,あらかじめご了承下さい。

 仁所野遺跡とは,愛知県丹羽郡大口町白山神社周辺の古墳群のことです。方形周溝墓や前方後方墳が南北に連なっています。縄文後期から弥生前期の遺跡が多いそうです。

 縄文後期以前,仁所野遺跡の西側は,旧五条川が流れていました。五条川といっても,川幅数百mで,当時の木曽川本流にあたります。現在でも,南北に水田地帯が連なっており,土地が低かったことが想像できます。仁所野遺跡は,標高28mで,河岸段丘の丘の上に位置するわけです。
 木曽川本流は,堆積物を運びながら,時代とともに徐々に西に移動していきます。
本流が現在の青木側や日光側あたりに移動したころ,五条川あたりは適度に干上がり,絶好の水田用地になったと思われます。
 青木川流域には,この頃の遺跡が全くないことがその証拠です。
 人々は,旧五条川の川筋に水田をつくり,その東側の高台に住みました。紀元後200年ごろの墓が方形周溝墓であり,300年ごろの墓が白山一号墳であるわけです。
 
 方形周溝墓は,中国地方から東の方に広く分布していますが,そのほとんどが山が失われ,低い水田跡につくられたようです。しかし,仁所野の場合は,現在も山が残っており,めずらしいものだそうです。
 
第1号方形周溝墓は,中心に土器が埋められており,骨壺のような役割を果たしていました。首が細く,胴が広がる黒褐色の土器で,東三河から浜松あたりでつくられた,いわゆる輸入品です。(このあたりの土器は赤いのが特徴。)紀元後50年ごろと推定されます。
 輸入品=貴重品=祭り,そして骨壺に使われたのでしょう。

 第2号方形周溝墓は,一部を掘っただけで,30個以上の土器が山積みで出土しました。
 そのうちの1つは,他に例を見ないもので,たいへん貴重です。
 いずれも,そこに穴(穿孔)がいているのが共通点です。多くは焼く前に空けてあり,後から空けたものもあります。初めからお祭り用としてつくられたのでしょう。
さらに,塗られた赤い顔料からも,特別な用途でつくられたことがわかります。毎年祭りが行われ,ここに祭られたと想像できます。これが,白山神社へと移っていったのではないでしょうか?

 これら,方形周溝墓が,前方後方墳へと発展したのではないかという意見がありますが,100年の開きがあり,ギャップを感じます。やはり,大和王家の力が波及して,前方後方墳,そして前方後円墳へと移っていったと思われます。

 当時,すでに交易は行われ,各地の特産品は運ばれていました。自ずから道もできていました。律令時代以前にも,当然古街道とよばれるものがあったに違いありません。中山道付近にあたるものが古東山道,東海道付近の道が古東海道です。
 尾張は,古東山道と古東海道にはさまれた,重要な地域なのです。

 尾張の古墳群を時代順に並べると,
  犬山・大口
瀬戸
春日井
大須
熱田
と移っているのがわかります。おおよそ国道19号線を南へと下りていったのです。
古墳があり=村がある=人々が生活している,ということで,政治・経済の中心が,犬山・大口から熱田へ移動していったことがわかるのです。
 その意味で,尾張北部は,尾張の古墳文化の発祥地といえます。

 この後,スライドを用いて,大口で見つかった刀の銀象嵌,犬山・東之宮古墳(特に三角縁三獣鏡),守山の東禅寺第2号墳の刀装具,蒲郡権現山古墳の銀象嵌大刀などを紹介していただきました。

【 感 想 】 
・ まず,予想を超える多くの人が,しかも県内各地,岐阜県からもみえていたのに 驚いた。ほとんど町内しか案内はしてなかったのだが,愛好者のネットワークと口 コミの威力を感じた。
・ 大口の遺跡の価値の高さにも驚いた。伊藤先生は,仁所野遺跡を非常に高く評価 しているのだが,その理由がよくわかった。その割に,調査は進まず,十分な管理 をしているわけでもないので,対策の必要性を痛感した。
・ 考古学は,事実と,事実を根拠とした想像の世界である。
  事実が多ければ多いほど,想像の世界は広がる。まさしく,ロマンを感じる。
だからこそ,あの捏造事件は残念である。事実が根底から覆された。
・ 伊藤先生は,その人柄がすばらしい人である。こちらのミスにもイヤな顔一つさ れず,逆にフォローしてくださる。ユーモアたっぷりに,2時間はあっという間に
過ぎていった。
・ 村をつくったのは木曽川と大地。そして人の動きが,中心地を変えていく。当時 の人も,今と変わらない,生きた人間であることを再認識することができた。
考古学は,人間学である。