7日目                              
7月30日(金)

故宮(紫禁城)
ラストエンペラーの気分? 日本語ガイド お宝がごろごろ
 最終日の朝、一人で故宮(紫禁城)へ行く。
 ホテルから徒歩で永安里駅へ、そこから3元で地下鉄に乗り4つ目の駅が天安門東駅、そこで降りて歩く。至る所に行列があり、天安門見学な
地下鉄永安里駅
のか、途中の文化財見学なのか、紫禁城そのものの見学なのかわかりにくいが、漢字を頼りに判断しながら、やっと故宮の入場券売り場にたどり着いた。そこがまたまた長蛇の列。60元の入場券を買うために多くの人が並んできた。
 そこに声をかけてきたのが日本語ガイド。二人分の入場券と、別にガイド料を払えばすぐに入れるという。交渉成立で、すぐに入り説明を聞くことができた。また、知識が豊富で質問にも答えてくれて、自分にとっては貴重な学習の場になった。 いまいち日本語が不確なところがあったが、意味は伝わった。
 一言で言えば「でかい」
 現存するだけで7,800の部屋とは、日本では例えるものがない。皇帝専用の階段、工夫された香炉、外的を防ぐ石畳、カンニングを防ぐための科挙の最終試験場などなど、どれもが興味深いものだった。時間があれば、もっとじっくり見てみたかった。
 ラストエンペラーの撮影場として許したことも中国政府の度量か。日本では、京都御所を使った映画を作れるか?誰か作って!

 タクシー(10元)と地下鉄を乗り継ぎホテルへ戻る。

朝食抜き

 今朝は忙しく、朝食を食べる時間がなかった。そのまま紫禁城を目指して急いだが、到着してからどうも体調が悪い。毎日欠かさず食べている朝食の重要性を思い知らされた。「糖分が必要だ!」と判断し、売店へ行くが、何と冷えたジュースがない。最終日になっても、常温のオレンジジュースを飲む気にはなれないということは、まだまだ修行が足りない。
 飛行機内でも、冷えたビールはなかった。高級料理店でも、「冷たいビール」と言わなければ常温ビールが出てくる。北京ではやっとビールが冷えてきたらしいが、 景電賓館では冷えたビールがなかった。注文すると「いま冷やしています」とのことだ。中国の人は、ビールをぬる澗で飲む人もいるらしい。
 皆さん、朝食は毎日摂りましょう!


車窓より
  車窓より、現代の中国を象徴する光景に出会った。一人の老人が、信号待ちで止まる車一台一台に声をかけて物乞いをしていたのである。

 高級車と物乞いをする老人。

  「富」と「貧」はどの国にもある。ある程度仕方がない。しかし、この国はその差が確かに大きすぎる。資本主義経済の歴史が浅いのは分かるが、社会主義経済からの急激な転換は、多くの負の部分を生み出した。その最も大きなものの一つが富の集中である。
  日本では、累進課税や地方交付税交付金で富を分配している。
  富の分配の制度をつくらないと、いつか中国は崩壊する、そんな気がしてならない。
  

北京空港にて
大使館のTさんとのお別れ 搭乗開始 ANANH906便東京行 中国とお別れ
 中国組とここでお別れである。中国大使館の方にはたいへんお世話になった。特にTさんは、この4月に厚生労働省から外務省に異動し、慣れない中、この民間モニターの仕事にかかり切りだったらしい。その御苦労ははかりしれない。本当にお世話になりました。

柔軟性

 機内で飲んだ一番搾りの味が違う?「エッ!こんな味だったっけ」
 舌が中国ビールに慣れてしまったせい。味なんてそんなもので、郷にはいると、自然に郷にはいってしまうものだ。
 青年海外協力隊のシニアボランティア隊員募集に対する審査で大切なことは「柔軟性」だそうである。これまでの既成概念を捨てて、その郷に入ることができるか、その上で、それまでの人生で身につけた叡智を、その郷にあった形で供与できるかが柔軟性なのであろう。
 これは、日本の日常生活でも同じである。筋のない柔軟性、すなわち単なる迎合は問題だが、柔軟性は必要だ。それは、視野の広さ、さらに言うなら、経験の豊富さ、そして余裕が生み出すものであろう。




人が作る

 歴史は人が作り、社会も人が作る。
 よく学校社会では、「校長が替わると学校はがらっと変わる。」と言う。自分の経験でもそれは正論だ。しかしこれは学校のような小さな社会だけの話ではない。日産自動車のような巨大企業でも、ゴーン氏により変えることができたのは衆知の事実。これは、政治も同様だ。
 政府の人によって、政策は変わる。外交も変わる。具体的には、日中関係も双方の首脳によって変わると言うことだ。
 学校現場で困ることは、文部科学大臣の交代で方針が変わることである。詰め込み教育の弊害で学校が荒れ、そのために総合的な学習が導入された。ここに至るまでは議論、試行を重ねてきたものだ。ところが、TOPが替わると、総合の見直し。これでは現場は怒るのは無理はない。
 これは省庁でも同様だ。それぞれで積み上げてきたものが、その事情を理解しないでボンと発言してしまうことは、それまでの戦略を一言で崩してしまう。
 ODA卒業発言も同様である。せめて、「中断」なら、選択肢は広がり、手も増えたであろう。
 「卒業」では、やめるしかない。次の手がないのである。

 この「卒業」と言う言葉が悪かった。日本が「中国は卒業」と言うことは、日本が教師で中国が生徒と言うことになる。メンツを重んじる国には、やや配慮を欠いたと言われても仕方がない。
 
 今回は、外務省の人と仲良くなることができた。
 よく「顔が見えない」ないと言うが、まさにそうで、一般の人には「外務省」とは無縁の存在、畏れ多い存在だ。
 しかし、こうやって仲良くなってしまうと、外務省も学校職員同様、人によって動くものであることがよくわかった。ギャグも言い、宴会では盛り上がり、まったく普通と変わらない。常識のある普通感覚をみなさんが持ち合わせていた。
 以前、「外務省には魔物が住んでいる」と発言した人がいたが、その人は常識ある普通感覚があったのか、気になるところだ。

国会議員
 Kさんに話を聞くと、国会議員とはすごい人の集まりだと思う。
 まず、最低選挙で通るだけの人望が必要である。大勢の前で、人を納得させるだけの話ができなければならない。一度会った人を忘れてはならない。毎日、数百人の人と握手をしながら、その相手にあった受け答えができなければならない。
 何より、広い視野と知識がなければなることができない。時には、弁護士出身議員とも法的な議論しなければならない。当然、かかるお金を工面するだけの力がなくてはならない。
 子どもに教える教員に大切なことは「子ども心を忘れない大人」であることだ。国会議員に願いたいことは「普通の感覚を忘れない専門家」であってほしい。
 よく、国会議員をこけにするタレントや解説者がいるが、「だったらおまえがなって変えてくれ!」とお願いしたい。

今回の仲間
 団長が「我々普通の人が・・・・」と何度も中国側の人に挨拶したが、個人的には決して普通の人々とは思えない。みんなすごい人ばかり。1,844人から選ばれるためには、バイタリティと経験がなければだめだ。
 まず、みんな多くの海外経験がある。何人かは、帰国後、またすぐに海外へ出かける。
 自分にとって、海外は特別なところだが、今回の多くの参加者にとっての海外は、日常の範囲内だ。視野は広く、少々のことでは動じない。中国語も2人はぺらぺら、そして何人かは簡単な会話はできる。それに対して自分にできるのは「こんにちは」「いくら?」「まけてよ」「いらない」「バイバイ」そして新たに覚えた「お疲れさま」この6句だけで通してきた。
 でも、もっと覚えてきても良かったな。やはり、旅の醍醐味は現地の人との会話、交流であることに違いない。

これからの東アジアは・・・・
 ヨーロッパがEUを結成し、現在もなお巨大な経済協力圏を広げつつある。歴史的に見てもすごいことのようだが、ちょっと待て。
 日本と中国、韓国が協力すれば、そして、ASEAN諸国を加えればどうかもっと巨大な経済圏が出来上がる可能性がある。
 そうなった時に困るのは、現代の某超大国だ。(ここではA国とする。)個人的には嫌いな国ではないが、こと東アジアに関してみると、A国は東アジアの連携を妨害しているのではないかと思う時すらある。反日暴動も、インターネットの呼びかけも、A国が関わっていたのではないかという情報も得ている。(真偽は不確かであるが…)
 これも十分理解できる。6カ国協議の時のA国の動きを見て分かった。 
 A国は、自国と有力国がそれぞれにつながってほしいのである。しかし、A国をはずした有力国同士の連携は好まない。(聞く所によると、昔のスケバンはそういうタイプだったらしい)
 これからの反日報道は、そこまで目を光らせる必要がある。

情報を得すぎると…
 7月の研修以来、ODAに関する多くの情報を収集してきた。そこには、賛否両論入り混ざっていた。そして、実際に現場を見て、日中双方の担当者の話を聞いてきた。その度に、ODAに対する評価は揺れ動いてきた。
 
 ここで気付いたことは・・・・
 多くの情報を得れば得るほど、外務省のKさんやJBICのMさんの論理に近づいていくことだ。これは、洗脳とかということではない。
 実際の担当者は、数多くの情報の中から、日本にとってもっとも有益になる道を、最大公約数的な判断を繰り返しながら探っていく。自分のような素人でも、プロと同じような情報を数多く得ていくと、自然と同じような結論に帰結するのは不思議なことではない。
 だとすると、ODA民間モニターには、情報を与えすぎるのも意味がなくなるかも・・・・
 素人の域を超えてしまう。

最後の時 
まもなくお別れ Oさんありがとう! 宴会部長Hさんで締め ホテル組記念写真
 ついに、夜の7時頃に成田空港に着いてしまった。盛り上がった仲間とも、これでお別れである。
 今回の視察の最大の功労者、国際協力推進協会(APIC)のOさんに、お礼のプレゼントを渡す。(※ Oさんとは、7日の一番下の写真で、見事なバレリーナを演じている方です)
 そして、最後は宴会部長、H先生による締め。今回の旅の夜を盛り上げてくれた。
 成田では、そのまま帰宅する人と、ホテルに泊まり明くる日に帰宅する組と別れた。ホテル組は、ホテルの店で、久しぶりのお新香を感激しながらつまんでいた。

筆者のODA視察に対する結論 

出発前には対中ODAに疑問を抱いていた筆者は、

@ 援助が永続可能で自助努力を促すものか、
A 税金の使途としてふさわしいか

という大きく2つの視点をもって視察に参加した。疑問をもっていたという考えを改める契機となったのは、貧富の差が極端な中国人社会と、赤茶けた沙漠の山が連なる厳しい自然環境を目の当たりにしたときである。
 私は
円借款を含む対中ODAを次の点から継続すべきと考えるようになった。
 その理由は


○ 技術的・金銭的支援が、平和国家・日本の国際貢献の道であること。

○ 貧困層が多く、省政府レベルではODAのニーズが高いこと。

○ 政治的に両国の関係が悪化している中で、日中外交の貴重なパイプになること。

○ 中国は円借款を期限までに返還し、自助努力により利益を生み出していること。

などが挙げられる。  

 実際に視察した案件を見る限り、永続性が意識され、税金の使い道としても日本国民として納得させられるものばかりであった。
 しかし日中両国では、2008年での円借款の打ち切りを検討しているという。


 私は、今回の視察で感じたことをふまえ、以下の条件の下で、円借款を含めた対中ODAの継続を提言したい。


○ 有償・無償援助、技術援助を組み合わせることでより有効な支援を工夫すること。


○ 沙漠緑化、疫病予防、公害防止など、全人類的に有益なものを優先すること。

○ 双方で両国の友好に貢献する知識人を育成し、相互交流のシステム化を図ること。

○ 近現代史や東アジアの経済協力、中国国内の富の分配制度を考える日中共同研究チームをつくること。

 富の分配は、成熟した国家なら当然のことである。これを、地球的視野でとらえたのがODAである。無償援助・技術協力・円借款のいわば三位一体型の援助を中心に、これからもODAを継続し、東アジアの経済協力の核としてほしい。そして、時の閣僚の発言に左右されない、安定した友好関係を築くことを願う。