以下の記録は、土井が参加しながら記録したものです。当然、言葉足らずのもの、誤解があるかもしれませんが、学会や講演者には全く責任はありません。ご了承ください第230回へ

日本生活科・総合的学習教育学会 愛知支部(LES愛知)5月例会
       講師 嶋野道弘(文教大学教授;元文科省視学官)
 
演題 「生活科・総合の未来を語る」5月28日13:30〜
 
 愛知とは関わりが深い。ずいぶん愛教大で勉強した。ここは全国に先駆け大学で生活科についての講座を開いた。 
 実践発表の二人の話を聞いて、なるほどと思った。共通したキーワードは「子ども、学び、勉強」など、懐が深い。
 文科省から大学に移り、この4月から生活科関連だけでも5講座受け持っている。講義の最後に必ず文章を書かせている。どの学生も共通していることは、「生活科は教育の原点」と答えていることである。それぞれ専門は異なるが、それでもこのことでは共通している。ここに、生活・総合の重要性がある。
 今日は、生活総合の未来を語りたい。
 この先、「生活科がなくなる」とか、「総合の時間が減る」などと知ったかぶりで流しているものがいるのは残念なことだ。
 むしろ、「生活・総合」を考えると、教育の未来が見えてくる。これからの未来は、「生活・総合」の背景を考えることで、一人一人が未来予測をすることから始まる。
 
T 生活科・総合的な学習の時間の背景
 1 社会の変化や教育をどうとらえるか
 どの研究会でも、研究紀要の最初に社会情勢が書かれている。しかし、それが大まかすぎる。
「子どもたちをとりまく社会は急激に変化し・・・・」ではなく、何がどう急激に変わるのかを具体的に考えなければならない。
 今は「豊かさと便利さの社会」といえる。
便利な社会を、それを教育論として考えるとどうなるのか。これを考えると教育が見えてくる。
 便利とは途中をカットすることである。それが便利であるという。かつては、行き先を見て、値段を見て、切符を買って、はさみを入れて・・・・・いくつかのプロセスがあった。そこには、人や自然との関わりがあった。
 今はそれがない。だから便利という。これはありがたいことだが、教育で考えると、いささか問題がある。便利な社会で生きることは、考える、感じる、ふれあう機会を奪っている。自分で考え、人とふれあう機会が減ることは、教育としては問題である。
 便利さを享受すると同時に、あえて不便さに身を置いて、プロセスを踏んでみる教育をする教育が必要である。人と関わり、自然と関わる機会を作るのが教育の責任である。
 便利は、パーツの文化とも言える。ブラックボックスの文化である。電気製品が故障すると、パーツを取り替えるだけだ。機械を壊しても、中にゼンマイや歯車がない。そこには知的好奇心や探求心が生まれない。
 かつて、ゼンマイ時計を壊したときに、歯車やゼンマイなど、中の美しさに感動した覚えがある。そうした美意識は、知的探求心、好奇心をかき立てる。
 今は見えない。だからこそ、教育の中でやっていかなければならない。
 『機長席からのメッセージ』http://www.h5.dion.ne.jp/~siena/kichou7s.html という本がある。
 ジャンボも、飛び立つときと降りるときは神経を使う。でも巡航に移ると機械任せ。その時ふと不安になる時がある。機会に依存しすぎるのではないかと。このままでは、人間が能力を失っていくのではないかと。
 
 便利社会に続く2つめ。
 現代社会は、複雑系社会になっているということ。
 かつては、丸々線の始発終点を覚えた。今は、複雑で、どんどんつながってしまった。その一方で、乖離社会でもある。原料を見ても製品と結びつかない。原材料が何の肉なのかわからない。複雑であり、もう一方では、つながっているようで離れている。
 このつながっていないものをつなげるのが発見と工夫。これは教科の中だけで学んでいたらできない学習である。教科で学びながら、教科をつなげる学習が必要である。
 自然離れ、体験不足。これは何を意味するか。
 自然に対する恐れ、怖さが希薄化する。自然の美をも希薄化する。恐れ、怖さ、美は自然と同居している。これを小さいことから感じることは大切なことだ。
 ある校長が言っていた。2年生が鶏の絵を描かせたら、4本足で書いている。そこでどうして4本なの? と尋ねると、2本だと転びそうなので、と答えた。
 今までは鳥は感覚的に2本足で書いている。今は足は何本か考えなければならない時代になった。考えることと実際とはちがう。社会の変化を考えるときに、教育的見地から微細にとらえると、生活総合の必要性が見えてくる。
 
 2 求められる「人間力」の向上
 これからどういう人間が求められるか?首相も人格の完成といっている。校歌にも表れる。
「賢く、仲良く、明るく、たくましく」と多くの校歌にかかれている。簡単に言えば、これらが教育の目的だ。
 今は、この「賢さ」が矮小化されている。人間を育てている、教科がその一部を担っている。
生活科では、よき生活者を育てると言ってきた。知識を覚えるのではなく、よき生活者を育てると言ってきた。それでは良き生活者とは何か?言語を明瞭にしたら、意味を明瞭にしなければならない。良き生活者とは、自分の環境に働きかけ、創意工夫しながらよりよい生活をすることができる人のことである。
 市民性という言葉がある。
 ここに資料がある。1980年に世界各国の子どもの自信の起源を調べた。調べ方がおもしろい。8項目で調べた。
   将来を楽しみにしているか?  米 94%、・日本72%
   誇れる人がいるか?      米 94% ・日本55%
   頼りにする人がいるか?    米 90% ・日本60% など
 アメリカと日本の結果は大きく異なる。    
 これからの教育は、自信のスケールを大きくしてやることが必要である。そのためにはどんな教育をするか、教科だけで大丈夫か?この調査からかなり年月がたったが、あれ以後、日本の子どもの自信は大きくなっただろうか?
 
 これからどういう人間力が求められるのか?
 スーパーコンピュータとチェスのチャンピオンが戦ったら人間が勝った。そのとき、スパコンの設計者でる学者は言った。「スパコンは知識を持った愚者。自分で学ばないから。」
 人間は考える人。このあたりを教科と共にやっていかなければならない。そのためにどういう教育が必要かを考えると答えは出てくる
 
 3 学力と子どもの意識や生活・学習習慣
 背景の3つめは学力の問題。最近の学力調査は、意識調査と一緒にやっているので興味深い。
この相関がおもしろい。
 PISA調査で、フィンランドなどすぐれた結果の国に見る共通点がある。次の調査の結果が高いのである。
1)学校への帰属意識が高い子が学力が高い。 これは特色ある学校と関係している。
2)将来に対して豊富をもったり自信を持つ子が高い。夢・希望・あこがれを持っている。
3)なぜ学習をしなければならないかを考え、計画できる子。学習の自己管理ができる子が学力が高い。予習をしたり、ランドセルにしまったりということも含む。
4)学習の規律がよくとれている子
5)先生が一人一人の生徒の学習に関心を持っていると生徒が感じている子ども。
6)学校に対して自ら何ができるかという観点から主体的に関わっている子ども。
 この結果を見て、担当課長のドイツ人、シュウライヤーさんが言った。
 「日本は4番目が高いのがうらやましい。しかし日本は2が低いのが不思議。」このクラークさんの言葉が日本の教育の本質を表現している。
 これらは、生活や総合で実現できるのではないか。こう考えると答えは見えてきた。
 
U 生活科・総合的な学習の時間に未来はあるか
 1 生活科の特質を具現化する
 今、生活や総合をなくしたら教育はどこにいくというのか?
 しかし、問題もある。もう1回生活の特質を見直して、具現することである。
 
○ やってみなければわからない=「私の知識は完成した」という実感
 生き物が死んだ悲しみは、育ててみないとわからない。生き物の死の悲しみを教えるには育てなければわからない。カブトムシの足がどんなにギザギザしているか、さわってみないとわからない。八重葎は服にくっつく。よく見ればわかる。
 私がバイブルとしている本で、蚕を飼う話がある。「蚕が老いて繭になり、繭がガになり、ガが卵を生んで私の知識は完成した。」この「知識が完成した」という言葉に感動した。  
 本で見たことと、やってみてわかったこととは天と地との開きがある。
 子どももわかっている。凝視する。「あっ、だから〜なんだ。」という文書は下手でも、世界は同じである。やってみて初めてわかって感動する。
 生活科は、多くの知識は期待できない。でも、実感できる。これが生活科の原点。春の七草を知っているより、わかると言うことはこういうことかと実感させることをやってあげたい。
 
○ 見方・考え方のトレーニング=見たという実感、分かりそうだという予感
 天橋立には、またのぞきの台がある。またのぞきで見て降りてくる人を見ると、「よく見えたね」と言う。これは、股からのぞいたからよく見えたのではなく、見ようと思って見ているから見えるのである。これが主観の問題。 
 今は便利さに汚染されている。教育の世界でも、デジカメ・・・・ICレコーダー。
 それよりも、自分の目で見た、例えば穴をあけて作った箱でカメラ気分で見せた方が、それを絵で描かせた方がいいのではないか。子どもの体は、望遠鏡にも、スピーカーにもなる。もっと使わせるべき。
 ある天才が次のように言った。
 「子どもの時、風が吹いた。そのとき、ものを見たという実感を初めてもった。いったい僕はなぜ風を実感したのかと考えた。葉が動いたからだ。そうか、目で見たんだ。次に、目をつぶると音でわかった。耳でもわかるんだ。そこで、目をつぶり、耳をふさいでみたら、皮膚でわかった。」
 天才だから言える言葉かも知れないが、そういう感覚をもたせることは大切。    
 例えば、ものさしがなくても測れる。そういうことをもっと体験させなくてはならない。先に便利な道具を与えては順序が違う。
 学校自慢という実践がある。こどもは銀杏、写真、などグループに分かれて探してくる。
銀杏グループは、校章になっているほどの銀杏を調べた。まず、幹の太さを調べた。当然次の疑問は高さだ。どうやって調べるか議論になった。いろいろアイデアは出るが、実現可能なものが出ない。
 ある子がデジカメを使った。人間を並べて撮り、その人間の何人分かで測った。
 影を使った子もいた。人間の影の長さと、木の陰の長さを測りそこから計算して出した。その子が言った。「先生、算数は便利だね!」と。
 この算数観は本当に大事。「机の上でみんなできる。」と実感すること。これが大事なのだ。
こうした教科観を子どもがもつことは重要だ。
 こうして銀杏の学習を発展させていくことができる。学ぶことのおもしろさを児童は味わっている。
 次は疑問が根っこに移った。さすがにこれは調べられない。今度はパソコンなど、ハイテクのお世話になった。結局、植物園に問い合わせることでわかることがわかった。木の幹周りや高さを伝えると、だいたいこれくらいと教えてくれた。地上部分より大きな根であることがわかった。 
 こうした学習は、見方、考え方のトレーニングになっている。
 
○ 生活科は無意識的予習教科学習=学校の学びと生活の学びをつなぐ
 子どもの作文を紹介する。
 「今日ぼくは上履き洗いをやった。そうだ、お母さんの通りにやればいいんだな。真っ白になりました。僕は天才だと思いました。」
 上履き洗いを教えたわけではないが、見ていたからできた。子どもは無意識的に予習をしていいた。それを学校の学習で意識化された。 
 味噌汁のよそい方も同じだ。「だっておばあちゃんがやってるもん」大変な自信になる。
 学校で学ぶ学びと、生活の中で学ぶ無意識の学びをうまく連関させることがポイントだ
 道具;人間のやるべきことを肩代わりするもの 
    はさみなどではてこを使っている。生活の中で予習している。
 言語;きな粉の学習で先生が「大豆を石臼でひきましょう」と言った。子どもは「ひきましょう」の言葉の意味が分からない。
 「細い」という読みは2年生の読みの配当漢字である。先の調査で、「食が細る」を20%しか読めなかった。学力低下!と新聞がさわぐが、「細い線を引く」と書けばもっとできたはずである。言語は、言葉だけ覚えてもだめで、生活の中で使って生きてくる。
 
○ 自分との関わりでとらえる教科=他人事を自分事にする
 一般に、世の中のものを客観的にとらえるのが学習。でも主観的にものを見ることも大切で、その両者のバランスが大事である。
 ピーマンが嫌いな子がピーマンを育てたら食べてしまった。それは、自分が育てたからだ。自分のことにしていくことで、物が自分に接近してくる。
 生活・総合は、人間の原点を洗い出すことになる。
 
2 学習法の誤解を解く 
○ ダイナミックの授業の誤解=学びの筋道・学習の過程 
 牛乳パックで筏を作った。それ自体はダイナミックである。でも、そのプロセスがあったか。
まず、子どもを水に入れる。そこで水と遊び、道具を使うようになる。その延長に筏があれば、よいだろう。しかし、いきなり筏をつくろうではだめ。
 砂場なら、まず、砂で遊ばせる。それから、掘る、つなげる、水を使う、道具を使う・・・と発展する。活動のダイナミックと共に、精神のダイナミック、成就、わくわく・はらはら・どきどきという過程が必要なのである。
 
○ 体験的・問題解決的授業の誤解=問うことを学ぶ
 批判的に問うとは?
 日東のお茶は日本一である。生産量が日本一で、賞状やトロフィーも多数ある。では、なぜ日本一なのであろうか?気候に合っている?、おいしい秘密は?カテインとかの効き目はあるのか?など、どんどん疑問が広がる。調べていく中で、地域に自信を持つようになる。
 問題解決のパターンで学習すれば、問題解決能力がつくわけではない。
  
 車椅子体験がはやりである。やらないよりはやった方がいい。現場で体験させることは必要なことだ。子どもたちが坂をつくって実験するようになった。こうして現場を見る目が育つ。そういうところに総合が入らなければいけない。
 
○ 学習のめあてをもたせることの誤解=意味のある繰り返しの学習
 かつて、社会科ははい回ったことがある。めあてがないとはい回る。はい回るとは、「学習の前と後で変化がないこと」
 授業を見に行った。その学級は、市役所に桜について聞きに言ったら帰されたので、なぜ帰されたかについて議論していた。ところが、議論しても結果がいっしょ。はい回ったのだ。
 また、ある学級では、公園に一度も行っていないのに、公園で遊ぶ計画書を書かせた。それは無理な話である。まず行く、そして記録し、整理し、推論し、新たなめあてをもって現場に行く。こうした意味のある過程を踏まなくてはいけない。
 
○ 求められる授業と心がけている授業=授業のイメージをつくる
 保護者と教員にそれぞれ聞いてみた。  
 保護者には「情報の集め方や調べ方を指導してくれるように学校に希望しているか」、教員には「指導するようにこころがけているか」  
 平成15年 文部科学省意識調査であるが、その結果は、教員のこころがけは保護者の希望に満たなかった。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/021/04122701/002/006.pdf 
 ここにある項目は心がけるべきことなのに、実際の教員の意識は低い。これは、教員の授業のイメージを作らなければ問題は解決しない。
 
3 学力観と学力育成論を混同しない
○ 「教科の学力がなければ総合の学習はできない」というのは学力論
 だから、総合の時間に補充をしますというのは学力育成論。
 インタビューの仕方を国語で習ったので、実際に総合で実践しようとした。子どもは街へ出て行って、教えた以上のことをやってきた。こうして基礎・基本が広がるのである。
 総合をやったら教科の必要性がわかってくる。これが、意味のある適正相互作用という。
○ 基礎・基本の共通性と個別性 
 全体の場で基礎・基本を教える。その力を持って総合の場で活動すると、個によって基礎・基本が広がる。共通の基礎・基本から、個別の基礎・基本へと広がるのである。
 
4 教師自身の瑞々しさ(銀の匙=岩波文庫)
  http://homepage.mac.com/nsekine/SYW/book/b018.html 
○ 子どもや環境に対しても知的好奇心・探求心
  子どもや環境に対しても知的好奇心・探求心のある教師、瑞々しい教師が伸びる。
  最後に蚕は死んでしまう。墓を作って葬った。たかが蚕に傘をささなくていられない子ども。これは、ごく一般の子がもっている感性だ。こうした子に刺激をされ続けることが、生活・総合には必要なのである。
 
以上の話は、次の本に書かれている。
『授業で育てる学びの力』教育評論社 ¥980 http://www.e-hodo.com/sinnkann.htm