トークライブ 上田薫先生と語る会 の参加報告            土 井   社楽153回へ

7月1日(日)江南市民文化会館で開かれた、児童理解の会主催 トークライブ 上田薫先生と語る会 の参加報告をします。

パンフの内容には、次のように書かれていました。上田薫先生の代表的な理論です。
 授業論レクチャー 「生きた授業を成立させるために」
○ 三原則
 1 計画は必ず破られ修正されなくてはならない
 2 正解は常に複数である
 3 空白を生かしてこそ理解は充実する
○ 三方策
 1 迷わせ分からなくしてやること
 2 教えないこと、少なくしか教えないこと
 3 教科の枠にとらわれぬこと、授業時間にこだわらぬ事
○ 六つの具体策
 1 立ち往生せよ
 2 山を作れ
 3 拮抗をせよ
 4 ひっくり返しをせよ
 5 あとを引く終末にせよ
 6 ひとりひとりに向かえ
○ 六つの問いかけ
 1 自分のコンディションを整えることに忠実であるか
 2 子どもが教師の意図に合わせようとしているのが見えるか
 3 タイミングに心を配るゆとりを持っているか
 4 忘却と思い起こしを生かそうとしているか
 5 一人を通じて多くの子をとらえる姿勢を持っているか
 6 不都合と思うことに身を寄せていこうとしているか

 上田先生は、この内容の中からいくつかをピックアップして説明を進めていきました。その中からさらにピックアップしてその概略を報告します。(例によって、土井の聞き間違い、勝手な解釈があるかも知れません。これ以後の文責は土井です。)

○ 今の学校の状態はよくない。先生の士気も落ちている。先生が、以前に比べて積極的な姿勢が少ないのではないか。授業の中でのスキや配慮のなさが、事件などを招いている。子どもに寄り添っていけば、学級崩壊などの問題は起こらないのではないか。
 学校を出たあとで何か起きても、学校や教師のせいになる。教師のせいになっても、そこで被害者意識を持ってはいけない。第一線に立っているからだ。第一線こそが、頑張って、責任を持ってやって欲しい。
○ 文部科学省(以下文部省)は新しい指導要領で「総合」を打ち出し、勉強しているように見えるが、本当にやりたくてやっているのか。「やらなきゃならない」では実りは少ない。
 総合って言うのは、生きたつながりを持っている。学校でどうやるのか。
 環境とか、国際理解などの出し物だけ出している。しかし、これまでも社会科や道徳でやってきた。
どう違うのか?
 人間というのは、総合なのだ。ケンカをするにしても、その人なりのケンカをする。
 総合って言うのは、自分を全体的に絡ませて「どこをとっても自分」。その子全体が生きているのが総合。総合はごく自然なのだ。
 大事なことは、物まねはダメと言うこと。総合は人間の自然がでるのだから、先生も違う、子どもも違う、まねをしてもなにもでてこない。参考にするのはいいが、そっくりさんはない。物まねで進めると、ヘタすると2年くらいでタネが尽きてダメになるかもしれない。

○ 総合は大切。戦後は、総合的な角度から子どもをとらえようとしてきた。今、子どもを総合的にとらえようとしている学校はあるか?
 小泉さんのおかげで、政治に関心を持つ人が増えた。でも物まね的だ。日本人は物まね族から脱却していない。そこを脱却しないと民主主義は壊れる。一人一人が自分で考えないとダメ。
○ 日本人に足りなかったのは総合で、その意味で文部省は正しい。自分の本音でヤル子をつくりたいのなら、本音でやらなければダメ。
○ 民主主義も上っ面をきた。民主主義を生かすには総合が必要。
○ 世界が自由の時代に、日本だけが物まねでは悲劇。最低10年かかるが、試行錯誤の時間は必要。
○ 事件を起こす子は一部だけど、崩壊しそうなクラスはたくさんある。人間的な迫力を持たないとダメ。かっこいい=エライ人ではない。当たり前のことを当たり前にやることが大事。
○ 総合で心配なのは、金や時間、教師の能力ではない。モノのとらえ方だ。

○ 三原則について、
1 計画は必ず破られ修正されなくてはならない
 子どもが先生の予想を超えることが大切。
指導主事が「計画通りに行って良かった」なんていったら、授業を見ていないと言うこと。計画 を立てても生きないことがあり、計画は動くものとしていれば自分の道を見つけることが出来る。 商売も相手があり、計画通り行かない。
大切なのはプロセス。答えが合っているだけが問題ではない。

2 正解は常に複数である
  応用する力こそが学力。発展しないやつは正解ではない。生きた正解は発展性がある。

○ 三方策
1 迷わせ分からなくしてやること
プロセスは途中がどうなっているかが大切。人間が生きている権利を無視しているのが従来のや り方。科学者は個性的な研究をしないと前進できない。「わかった」というのは「分かった視点に 立っただけ」でわかっていない。
子どもが「分からないとき」に、先生はいい気持ちでいていいのである。いい疑問がでていると きがいいのだ。

2 教えないこと、少なくしか教えないこと
  今は情報が多すぎる。少ない情報を吟味しながら前に進んできた。野球や相撲でも、満腹感があ ったらよいプレーは出来ない。知識の与えすぎもダメ。腹ぺこもよくない。少な目がちょうどいい。 たくさん教えたがるのはダメ。

3 教科の枠にとらわれぬこと、授業時間にこだわらぬ事
  授業時間の減少について
  延長授業は罪悪だと思っていないからいけない
  「この時間の私の指導が今後どう生きるのか」が大切であって、たくさんやるからいいのではな い。授業の終わり方も難しい。チャイムでなく自前で終わるのが望ましい。
  アマ:時間通りやればいい
  プロ:チャイムより前に必然性を持って終わる
  授業時間は、子どもが発展するきっかけで、子どもが夜寝るときに先生の言葉がでてくるこれが 大切。

  授業時間が減ることはよくないけど、それは「子どもの時間」が減るから良くないと言う意味。 1分1秒をおろそかにしないことは大切だが、時間の中で一人一人が自分が発展しうる何かをつか める方がもっと大切。それがつかめたら時間より前に終わればよい。形式で我慢しては行けない。 むしろ形式を破るところがよい。

○ 六つの具体策
1 立ち往生せよ
  真剣に立ち向かったもの同志は立ち往生するのが当たり前。1時間の中で2〜3回立ち往生した らすごい先生。
  立ち往生は、時間の無駄、エネルギーの無駄に思えるが、子どもを変える。立ち往生する力が学 力の根本。

○ 六つの問いかけ 
  タイミングについて
  世の中,すべてがタイミングが鍵。慣れとかではない。自分の問題解決の中で生まれてくるもの。

  忘れることは非常にいい。必要な時に思い出されればよいのだ。
  知識=力ではない。知識だけでテストをするのは不公平だ。

 環境問題をリサイクルで終わってほしくない。
  人間の持っている「手っ取り早い方がいい」という思いが問題を起こしてきたことに気付いてほ しい。そこに気付くと,人が変わる。例えば運動会をやるだけにしても変わってくるはず。

ここで時間です。休憩のあと、質問会が開かれました。

Q 学力の基礎・基本をどうとらえるか
A 基礎・基本とは、考える力、発見する力であり、学問の根本
漢字・計算も必要だが、限度がある。子どもに無理がない範囲で身につけさせたい。
むしろ、それにより、もっとも大切な考える力が無視される方が怖い。コンピュータで出来ない 部分が大切なのだ。
Q 学ぶ道筋とは?
A 発見するということ
疑問を持つこと
疑問を捨てないこと
疑問を自分の視野に入れること

ものとものとつなぐこと。人まねでなく、その人なりのものをつくることを発見という。単なる もの知りでは、新しいものが生まれない。疑問を残し、その疑問から新しい疑問を産むことがいい。

Q 初の社会科教科書「まさおのたび」について
A 昭和21年に憲法が出来て、22年に新教育がはじまった。社会科も半年遅れではじまり、文部 省検定教科書は間に合わず、そのため教科書は文部書でつくることになった。CIAは「各県で作れ」 というが、日本ではとても出来ない。まず、文部省でつくろうと言うことで、この1回だけつくっ た。1年生はなかった。
  私は、22年に文部省に入った。
この仕事は4人のグループでやった。まず、指導要領をつくった。そのあとに教科書作りにかか わった。「村の子ども」「土地と人間」など
  これらには、「社会科というのはこういう見方をするものだ」「子ども達が自分たちの生活をデ ィスカッションする」と言うことを分かって欲しい。
この「まさおのたび」は戦後の教育の原点である。

Q 評定・通知票について
A 評定は,順位などの位置づけをしてはいけない。日本人はもともと位置づけが好き。そうでなく, なぜその子はこれができたのかと見るべき。一律のテストで見ることができないのが評価の本質。

  今の30代の親は,学生時代の混乱期。その経験で子どもや学校に対しているので状況は悪くな るばかり。まず,勇気を持って1つずつ変えていくこと。改革ブームが教育の中に入ってくるとよ い。

Q 「応用する力」についてよいことばかりでないが?
A 総合的につなぐことは,一面的に見れば良いことも悪いこともある。
  たとえ「人命救助」のような場合でも,その人がふだん何をしているのかを含め全体でとらえる べき。現実の世の中には,水戸黄門に出てくるような善玉・悪玉はいない。弁護士のように,その  内面にまで入り込んでアドバイスできるような教師でありたい。
  結局「人間観」の問題。自分を安全地帯において評価できない。「客観的」などと言うが,そう ではない。評価・評定はテクニックではない。聖人君子が教師になるべきでないのはそのためだ。

Q 子どもをつなぐ視点はないか?
A 今の子に本当の友達はいない。
 「ひとりぼっちを大事にする」「ちょっとがまんすること」「生きることはたいへんだという思い」
 これらが,自立,ねばりにつながり,これからの人生に役に立つ。
 「一人ぼっちっていいんだよ。これによりこれからの人生にウラスになるんだ。」という指導は, いじめの問題にも有効。自分を人間として持ちこたえさせるものを,子どものうちから育てたい。
 
 「命を大切にしましょう!」これでは通じない。「なぜオームに惹かれたのか考える人がいない」  そうではなく,「死」の問題を子どものうちから投げかけることが大切。ぜひ学校でやっていた だきたい。
 
 「大阪の事件」の対応を心配している。弊害の方が,むしろ怖い。いつまで続くのか?途中でやめ たら子どもはどう思うか?
  行政としては,何かやらないわけには行かないが,本当に子どものことを考えたら,今のような 動きにはならなかったはず。

【 感 想 】
 上田先生とは、冬の大阪の初志の会以来。その時と変わらずお元気そうであった。何よりである。
 
モーツアルトの音楽のどこを切りとってもモーツアルトである。しかし、モーツアルトを理解するには、数多くの曲を聴かないと理解できない。
 上田先生も同様で、お話のどこをとっても先生ご自身の深い哲学に裏打ちされている。ただ、深い哲学のごく断片が言葉となって出てくるため、全体像がわからないと理解しにくいだろう。
 しかし、個人的には共感できることが多々あり、また新しい示唆もいただけた。
 感想を4点述べたい。

(1)上田先生の根底に流れるのは、人類愛に裏打ちされた「子どもによりそう」という姿勢だ。授業も評価も教師の都合でなく、あくまで「子どもの学び」を第一に考えている。これは、教師として当然の姿勢である。日頃の授業、日頃の学級経営を、この視点から見つめ、反省していきたい。
 
(2)「総合」へのこだわりも、この短時間に何度となく出てきた。われわれが何気なく使っている「総合」と言う言葉の甘さを痛感させられる。
 先生が使われる「総合」は、あくまで「分析」に対する「総合」であり、哲学の範疇である。その見方で「総合的な学習」について吟味すべきであろう。(土井の勧める「シミュレーション学習」とは、その考え方から出たものである。)

(3)今回最もこだわられたのは、「ものまねではダメ」という言葉である。これは、結果的に出てくる学習活動そのものより、その活動に至る授業者の考え方、子どもたちの実態、そして子どもたちとのかかわりの過程を意味している。これも、上田先生なら当然の考え方であるが、ここまでこだわられたのは、最近の授業実践でいかにものまねがいかに多いかと言うことであろう。「総合的な学習」を進めるうえでの警鐘であろう。

(4)今日、最も印象に残ったのは、「ひとりぼっちを大切にする」である。この意味は、ひとつは「弱い者の痛みを知れ」、そしてもう一つは「逆境に強くあれ」ということであろう。
 「自分を人として持ちこたえるものを育てたい。」という思いには、学習理論からでなく、ご自身の人生経験から出てきたもののような気がする。

 「死」の問題を投げかけることが大切、大阪の事件の対応は間違っている、など、自分の日頃考えていることと同じで、上田先生と発想が似てきたのであろうか。

以上,上田先生の貴重な話を聞く機会を与えていただいた児童理解の会にお礼申し上げます。