以下の記録は、土井が参加しながら記録したものです。当然、言葉足らずのもの、誤解があるかもしれませんが、学会や講演者には全く責任はありません。ご了承ください。第230回へ
「この時代 どう生きるか どう育てるか」
(株)豊田自動織機 ラグビー部シニアディレクター 山田耕二
H17.5.26 名古屋市女性会館
私は昭和17年生まれ。戦時中、爆撃機が名古屋市に来た頃、この近くの別院で大谷婦人会という襷きをつけていた人たちがいたことを覚えている。当時は、サーカスをやっていた。大須では屋台も多かった。この近くに生まれてて育った。
その後、弥富へ疎開した。のどかなたんぼ、畑、金魚池。市内の人たちよりはいなかは食べるものもあった。名古屋駅前、竹竿でテントを張ってやみ市があった頃から思うと、今や日本は成長した。戦後の日本から見るとずいぶん豊かになった。
小学校6年間を終え、弥富中3年に進学。東西に細長い学校で、そこに伊藤先生が来て
ラグビー部をつくった。
高校は、父とどんな職業か相談した結果、体が大きいので土木家を目指すために、市立工芸高校へ進むことを決めた。日本列島を変えていく職業に就きたかった。
高校の恩師にラグビー部を勧められる。大学は日体大へ進学。4年間、全国から集まる選手の中でもまれた。寮生活は、軍隊生活の方が楽と言われるほど厳しかった。
2年生で日本代表に選ばれる。20歳は当時最年少であった。
40年に名古屋市の採用試験に合格。菊里高校定時制に6年勤務した。大不景気で、公務員が人気が会った頃だ。九州から、多くの子が集団就職でやってきて、昼は会社、夜は勉強という生活だった。名駅コンコースは、集団就職の学生にあふれていた。そこで、少人数で振り分けられて就職していった。仕事を終えた後、菊里高校へ勉強に来た。当時は、まだ兄弟が多かったので、口減らしである。繊維工業の盛んな愛知にはたくさん来た。
昼間働き、疲れ果てて学校へやってきた。9時過ぎまで授業を受けて、会社の寮へ帰っていった。
今は本当に豊か。何でもあり、遊びたい放題である。私は、昼間は南山大学などへアルバイトへ行っていた。そこには、裕福な学生がたくさんいた。片や、菊里の卒業証書がほしいと一生懸命勉強した学生、看護婦を目指す子はさらに勉強した。その勉強に対する熱意は素晴らしかった。
その後、向陽高校へ異動した。進学校で、1/3は国公立へ進む。そして、夜は名城大学の夜間部へ。49年に西陵商業へ、今の西陵高校である。
商業高校なので、男子が1割、30人ぐらい。うち15〜20人がラグビー部へ入った。そこで29年間勤めた。それまでの32年間は普通の人生だったが、ここからラグビー漬けの人生に変わった。
なにしろ、県で一番にならないと花園に出られない。49年はだめ、50年に初めて出場することになった。その後、本を3冊書いたり、3年に1度は海外へ遠征したりした。
今日は、その中の苦労話をしたい。
定年後は名古屋に天下り。そして、4月からは豊田自動織機へ。ここは、豊田自動車の親会社で筆頭株主。子会社が強いので、親会社の豊田自動織機も強くしなければということで呼ばれた。
人生は一方通行である。若い頃は、この先エンドレスで続くようだが、80数歳が平均。
まだ先が見えないからと思うが、振り返るとわずかなもの。大事に生きないと、すぐに過ぎ去ってしまう。いつもこう描く。
体力的カーブ、信用度など、人生曲線。寿命で没。
人生を太陽のカーブとするなら、小中学生は朝の太陽。自分は夕方。20歳ぐらいだと今が永遠に続くと思いがちだが、実はそうではない。このカーブが多数重なり合っている。
いかに高く、いかに遠くへカーブさせるか、伸ばそうとしている人が、今日ここに集まっている。
金銀財宝より、子どもの宝にはかなわない。行政は、苦しい財政の中から施設を造り人を雇って、子どもたちを育ててやろうとしてる。
50になっても60になっても気持ちはかわらない。積極的に子どもたちに話せばよい。
平均寿命までに何をしなければならないか、1日1日の大事さがわかってもらえればよい。
今日の本題に入る。西陵の29年間で19回花園へ行った。ラグビーは同点の場合はじゃんけんで決める。じゃんけんで負けて全国へ行けなかったのが2回、全国優勝が1回。
これらの実績の出発はこうだ。
試合に負けて初めて目が覚めた。勝ってるときはどうでもいい。負けるときにどうするか?1回負けると2年間新聞に載らない。
朝早く家を出て生徒を迎えて、授業をやる。そのあとにクラブ活動。絞れば逃げるし、おだてれば図に乗る。だましだまし、あいさつも教え、ユニフォームの洗濯も教え、進路の面倒も見て、ボールの空気の入れ方、グランドのならし方、こうして、決勝戦を迎えて勝てば官軍、まければやけ酒。
やけ酒を飲んでいて気がついた。その店で、客に来てもらうためにいろいろと工夫をしていることに。ママに聞くと、「こうでもしないと店はやっていけない」と言った。。
「いろいろな工夫をしている」というママさんの言葉で自分の失敗が見えてきた。自分はうぬぼれていた。こうして自分を改革することになった。
自分を改革した5項目は
1 つとめて明るくいこう
有名校の監督はみな明るい。
2 並の練習なら並のチームしかできない 並の努力・生活なら並の人生しかできない
より工夫をして、遊びをちょっと減らす。
本を3冊書いた。本は前からああだこうだと書いていけばよいから楽だ。
海外へ行くと初めてわかる もうちょっと勉強していけば英語で会話できたのに。 今は200円で勉強できる
新聞に連載をしているが、新聞は、はじめにどきっの部分が必要。30回も50回 も書き直し、たいへんだった。やっと代われてホッとしている。
前の自分は、並以下の努力で並以上の結果を求めていた。
3 筋肉はデパートで売っていない。知恵はデパートで売っていない。
知識は売っている、社会教育では生きる知恵を教えてほしい。学校は知識を教える 社会教育でやっていいことといけないこと、どう生きるか生き抜くかを教えてほしい
4 調子の良いものをほめてあげる
それまではしかってばかりだった。ほめて導く。他もほめてもらいたいと思う。
5 過ぎ去った時間は取り戻さない
後からでは遅い
つぎに、選手たちに求めた5項目
1 挨拶は自分からしよう
親の敵来てもあいさつをする。日本人は、農耕民族だから西洋人と挨拶が違う。
放牧民族はすれ違いの挨拶。「ハ〜イ」で済む。日本人は、定住しているので、そ うはいかない。あいさつから相手の気持ちをくんだり自分を表現したりする。
2 言葉使いは丁寧に
聞き手のそそうはいいてのそそう。相手に敬意を。わかりやすく話して最後に確認 する。
3 服装はきちんと
イギリスから発達したスポーツは襟付き、ストッキング、審判は1人、タイムがな い、メンバーチェンジがない。
アメリカは野球、フットボール、バスケ、バレーなど、タイムがある、メンバーチ ェンジがある。日本は空手柔道
4 自分のことは自分でする
5 早ね早起き 体調をととのえる
私の失敗例をいかして、もっと良い人生を送ってほしい。これから決勝戦のビデオを見ていただきたい。子どもが生き生きしているパワーを見てほしい。
ビデオ視聴 15分 対啓光学園(4連覇した学校)
観客席の下に更衣室がある。そこでは、試合に出られないこの名前を書く。肉親をなくした子はマネージャーに写真を向けてもらっている。「この試合に勝ったら日本一だぞ」選手は試合前から泣いている。「練習通り!こうきたらこうくるんだ」と指示を出す。暗い更衣室から選手を送り出す時は、監督冥利に尽きる。ふるい立つような場面を作れればと思う。彼らは青春のまっただ中だが、本人にはわからない。何かに打ち込むこと、それが宝になる。
選手は明治や法政、同社、青山学院でそれぞれキャプテンやサブをやっている。就職もいいところへ、リコーやセコム、JRなどへ行っている。
今は、結婚シーズン。毎回5万円いるし、スピーチも頭が痛い。でも彼らは一生の宝を得た。祝ってあげたい。
一隅を照らして、生きる力生きる知恵を与えてほしい。そんな子を育ててほしい。先生に巡り会えて良かったといえる子を育ててほしい。ありがとうございました。