『やまなし』評論文 〜理想と成長〜     第127回へもどる

 目  次
 
 
 1 造語の検討
 (1)クラムボンとは何か
 (2)イサドとはどのような場所か
 2 五月・十二月のイメージの検討
 (1)各段落のイメージ
 (2)グラフから読めること
 (3)五月のマイナスイメージをつくる物
 (4)十二月のプラスイメージをつくる物
 3 かにの対話の検討
 4 やまなしとは何を表しているのか
 5 言葉の検討
 6 「やまなし」の中の輪廻と無常
 7 「やまなし」と「春と修羅・序」
 8 「やまなし」とは理想を描いたのか
 9 色の検討
 (1)共通している色
 (2)青は何を象徴しているのか
 
「やまなし」を終えて

 
 宮沢賢治の作品の一つである「やまなし」。僕が最初にこの話を読んだ時の気持ちは今でも覚えている。
「なーんだ、えらい簡単だな。」
 こんな気持ちで取り組みだした。しかし、読み進むうちに、かなりの量の語句、文章の意味などを無視していたことに気が付いた。「クラムボン」「とってるんだよ」「光のあみ」「やまなし」……。これらのことの意味は全く分からなかった。分からないことを置いといて、ただ前に進んでいたためだ。だが、先へ進めば進むうちに、意味不明になってくる。僕はそこで分からなかった語句を振り返り、最初から読み進めていることにした。すると、だんだんと届かなかった深い部分まで理解できるようになってきた。「クラムボンとは何か」「魚は何をとっているのか」「光のあみは何を象徴しているのか」「十二月のやまなしの実が、なぜ題名につながるのか」など。それらの内容に、今ではすべて説明がつく。
 「やまなし」の最初と最後に出てくる言葉“幻灯”について少し解釈を述べよう。この「私の幻灯」とは「私にとって特別な意味を持つ幻灯」という意味である。私にとって特別な意味とは、ただ単に表面を読んだだけでは分からない。数々の情報を知った上で話し合い、少し進んでは振り返り…そういう努力をしてゆくうちに、やがて見え始めるものなのだ。僕達はそうした努力を続け、だんだんと幻灯の内容について自分なりの解釈を述べられるようになってきた。
 僕がこの「やまなし」の勉強の中で学んだことは、大きく三つある。
 一つめは、文章の中にかくされた筆者の考えを理解できるようになったこと。
 二つめは、自分の意見に対する理由が述べられるようになり、自信が付いたこと。
 三つめは、文章の書き方を覚えたこと。
 この三つを覚えたことで、僕の文章の読解力がつき、作文も上手に書けるようになった。
 「やまなし」の勉強は小学校六年間の中で最高に楽しいものであった。その成果を、ここに記す。

1 造語の検討
(1) クラムボンとは何か
 クラムボンとは賢治の妹のとしである。
 以下その理由を述べる。
 僕はこの話に出てくるカニ・魚・やまなしなどはすべて賢治の身近なものが例になっていると考える。そしてこの物語は妹のとしが死んだ悲しみを書いたのだ。賢治はとしや自分をモデルとする作品を多く書いた。この「やまなし」もその一つであると考える。ずばりクラムボンがとしになっているのだ。
 第一の理由は、クラムボンの説明に「意味はよく分からない」と書いてあることである。賢治はとしの死をとても悲しく思っていた。そのためできるだけ事をかくそうとする。だから「銀河鉄道の夜」でもジョバンニとカンパネルラというように実名を使わず、物語として書いているのだ。このクラムボンの意味が分からないのも、賢治ができるだけかくそうとしたからだと考える。
 第二の理由は、クラムボンが変化するということだ。二・三・五・六段落に子供ガニが「死んだ・笑った・殺された」と言っている場面がある。子供のカニたちはまだ幼いので実際にそういうことが起こったかどうかは分からないが、変化があったことは読みとれる。よって岩とかの意見は違うのである。また、あわや日光であるという意見も違う。あわはゆれ動くし、日光は水中できらきら光ったり暗くなったりするが、その物は変化しない。子供のカニが「笑った」とか「死んだ」と言っているからにはその内容を知っていると思われる。よってその物に変化があったと考えられる。だから違うのだ。
 第三の理由は、この物語のカニが現実の人物に置き換えられることだ。ぼくは子供カニは賢治・親ガニは父・やまなしは新たな夢だと考える。魚は病であるのだ。五月には魚=病が来て、クラムボン=としがしんだ。しかし十二月にと新たな夢を見つけ、進んで行こうとしている。その賢治の心情と周囲の様子を記したのが「やまなし」だ。以上のことからクラムボンというのは賢治の妹のとしであると言える。

(2) イサドとはどのような場所か
 輝きが多い場所である。
 以下、理由を述べる。
 まず、親子のカニの好む場所の違いについて検討する。五月は、「二ひきのカニの子供らが、青白い水の底で話していました。」から、昼に外へ出て話していたことが読みとれる。その上、感情の変化も激しくて多くしゃべる。
 つまり、カニの子供らは元気いっぱいであったのだ。
 それに対して十二月はどうだろうか。十二月の文章には「あんまり月が明るく水がきれいなので、ねむらないで外に出て」とある。この「あんまり」とは、この場合“特別に”とか“とても”という意味を持つ。十二月では特別に月が明るかったために、外で話していたのだ。また、「しばらくだまって」とあり、これからも口数が少ないことを読みとれる。
 子供は五月と十二月で変わっているのだ。
 では父カニはどうか。五月は騒ぎがあるまで穴の中であった。明るい外にはあまり登場しないのである。ところが十二月では後半にずっと登場する。口数も多い。これは何を表すのだろうか。
 僕は、昼と夜との違いが関係していると考える。ずばり子ガニは明るい昼を好み、父カニは暗い夜を好むのである。また、もう一つの文について考えてみよう。21段落「連れていかんぞ。」だ。子ガニの騒ぎようによっては連れていかないとも言っている。このことからイサドは、子供ガニが喜ぶ所であると言える。ここで二つの考えを組み合わせる。すると、イサドとは明るい、つまり輝く場所であると言える。
 次に、文章の上や下にあるさし絵を検討する。「やまなし」のさし絵はたいてい文章に関係あるものが描かれていることが多い。例えばp13はあわの絵、p16はやまなしの絵、などである。そのように考えると、このすべての絵は何を示すのかが分かる。では、イサドが描かれるp14の絵は何を示すのか。僕は、イサドの町そのものだと思う。それはクラムボンと関係がある。イサドはクラムボンと同じく筆者の造語である。そこでクラムボンが出てくるp4、p5を見ると、光るものが書かれているのが分かる。この光は、クラムボンの生命だ。造語であるクラムボンには、それを示す絵があるのだ。だからp14の絵も、同じく造語であるイサドを示すのではないか。このページの文章には、イサド以外当てはまりそうなものがない。やはりイサドを表した絵なのである。絵をイサドであると考えると、イサドとは絵の通り、“輝く場所”であると分かる。
 以上のことから、イサドとは輝きの多い場所であるといえる。                目次へ

2 五月・十二月のイメージの検討
(1)各段落のイメージ

      表    略

(2)グラフから読めること

      グラフ  略

     




・ 五月も十二月もプラスがたくさんある。
 ・ 全体的に五月は暗く、十二月は明るい。
 ・ 五月はプラスの段落が一番多い。
 ・ 五月から十二月へ入ると急に明るくなる。
 ・ 五月はグラフの上がり下がりの変化がとても激しい。
 ・ 十二月はだんだんとプラスが多くなり、へこんだところがあまりない。
 ・ プラスの3がとても多い。
  グラフのまとめ
五月と十二月をグラフで比較してみると、五月はプラスとマイナスの変化が激しく、全体的にはマイナスイメージがする。なぜ賢治は五月・十二月と分け、それぞれのイメージを変化させたのか。それは、賢治の周りの環境や自分の心に大きな変化があったからだ。五月には悲しい出来事があり、十二月では希望がわいたのだ。

(3)五月のマイナスイメージをつくる物
魚やかわせみである。以下理由を述べる。
魚やかわせみは他の生物をえさとし、他の生物の命を取って生きていく。五月はまさにそのことを表す意味段落であり、川の底の食物連鎖(生存競争・弱肉強食)を表している。かわせみは魚をえさとし、魚は10段落にあるように何かを「取って」いるのだ。よって、五月で川の食物連鎖を表していることがわかる。
では、なぜ賢治は五月の文にこのようなことを書いたのか。その原因は最愛の妹→としが亡くなったからだと考える。賢治と父は宗教や家の仕事の関係上、対立していた。そんな賢治にとって、自分の考え方に賛成して力をかしてくれるとしの存在はとても心強かったのだろう。しかし、けなげに生きていたとしも、1922年に亡くなるのだ。そのことで賢治は激しいショックを受け、おしいれの中で泣いたという。賢治が一人前の農民となるために独り暮らしを始めたのは1926年、としが亡くなった後のことである。としの死で、賢治は命というもののはかなさを知った。だから独り暮らしをしてからは玄米やみそ、野菜を好む菜食主義者となり、同じ地球に生きる生物の肉や魚などは、いっさい口にしなかったのである。このことからも賢治がすべての動物や自然を愛していたことがわかる。また、童話や詩によく生命が出てくるのも、この賢治の性格からわかるのである。賢治は、妹のとしが亡くなったことによって一つの教訓を受けたとも言えるのだ。以上のことから五月のマイナスイメージをつくるものは魚やかわせみなど、他の生物の命をえさとするものであると言える。

(4) 十二月のプラスイメージをつくる物
やまなしである。以下、理由を述べる。
 川に入ったものを比べると、五月はかわせみ、十二月はやまなしである。かわせみには鳥・こわがられる・命をとる・食べるというイメージがあり、やまなしには植物・喜ばれる・命をつなげる・食べられるというイメージがある。そのため五月はかわせみを中心に、十二月はやまなしを中心に書かれているのだ。グラフからわかるように、十二月で一番プラスイメージが強いところは、やまなしを追って話す場面である。他の言葉も良いイメージを持つが、それは一部に出てきただけであり、全体的に大きくプラスになるわけではないのだ。よって、やまなしであるといえる。
 次に賢治の生き方と「やまなし」の存在を比較する。五月の段落でとしが亡くなった悲しみを書いたのではないか、と述べた。この十二月の文もその続きなのである。としが亡くなったことは大きなショックではあった。しかし、賢治もいつまでも弱気になっていたのではない。きっと立ち直っているはずだ。つまり、新しい「希望」を見つけたのである。その希望が目標となり、賢治が立ち直るきっかけとなったのだ。すなわち「やまなし」は希望であるのだ。
 では、賢治の“希望”とは何か。この希望=目標は、たくさんあると思う。しかし、その中で 一番強かったのは『童話を書くこと』であったのだろう。賢治はとしが死んでから、農民の仕事を始めるとともに、今まで以上にたくさんの詩や物語を書いた。そのような童話は、最初は妹のとしと関係している話が多い。だが、悲しみを書くだけではない。自分が悲しみから抜け出したいということを書いている童話もたくさんある。この「やまなし」の五月と十二月の違いも、悲しみと希望という形で書かれているのだ。
 最後に題名と内容を比較する。この「やまなし」の中心は五月か十二月か・・・それは十二月である。賢治は悲しみより希望を中心に童話を書いたのだ。そのことはこの話の題名からも読みとれる。題は普通、中心となる物(者)や事件などの名をつけることが多い。この話が「やまなし」であるのも、やまなしが中心となり、やまなしを強く表したと思うからである。以上のことから、十二月のプラスイメージをつくるものは、“やまなし”であると言える。

3 カニの対話の検討
 子供ガニの対話について考える。
 まずは、五月の「なぜクラムボンは笑ったの。」と「それなら、なぜ殺された。」について解釈を述べる。
 この二つの文は、両方とも「なぜ…」と問いを表している点で共通している。なぜ問いかけるのか。この文章を読んでいくと、分かるわけないことがすぐ読みとれる。それでも問いかけているのは、クラムボンがとしであることと関係している。としの死は賢治にとって最大のショックであった。理由はそれがすべてだ。としの死の後になっても、「なぜとしは笑ったの。」「なぜとしは死んでしまったの。」という思いがどんどん込み上げてくるのだろう。その感情を文章に表したのが、この“カニの子供の対話”である。
 次に十二月の「やっぱり、ぼくのあわは大きいね。」から「そうじゃないよ。ぼくのほう、大きいんだよ。」までのあわの大きさ比べの話について解釈を述べる。
 これは「争うことのみにくさ」を描いているのだ。この二匹はたかが「あわの大きさ」のことで、泣きそうになるまで言い争った。別に相手を傷つけるような言葉を使ったわけではないし、暴力をふるったわけでもない。ただ普通に“自分と相手とを比較”しただけである。しかし賢治にとっては、こんな些細なことでも争いには変わりなく、とてもみにくいのである。この兄弟の話が争いのみにくさを示すということには理由がある。それは、なんでこんな所に前後の内容と関係ない兄弟の対話が描かれているのだということだ。この対話がここに出てくるのは、やさしい形で争いの関係を表そうとしたためである。「やまなし」には賢治の考え方のすべてが集まっている。だから自然と奥が深くなり、読解が困難になる。そう考えてくると、争いはみにくいものであるという内容も、どこかに入っていると言える。ずばり、この場面が争いに関する話であるのだ。よってこのあわの比較は、争いを描くと分かる。
 一見同じような感じの兄弟の対話も、実は五月と十二月で大きく違うと分かった。以上で、カニの対話の検討を終わる。

4 やまなしとは何を表しているのか
 希望である。以下、理由を述べる。
 まず、やまなしは生命のかたまりである。やまなしは果物であり、命をつなげる物だ。やまなしが生まれてきた理由は、食べてもらうためである。そのために熟すのだ。だからやまなしは自分の仕事をはたすまでは生きている。生きたまま食べられ、死ぬのだ。そのかわり、他の生物が生きる。そのようなことが命をつなげるということである。反対意見にやまなしは死んだまま命をつなげるという意見があった。しかし、それは違う。やまなしは死ぬことによって命をわたすが、食べられるまでは生き生きしているのだ。28段落のように「ひとりでにおいしいお酒ができる」のはやまなしが生きている証拠であるのだ。そして他の生物に命をつなげるために準備するのである。
 また、やまなしが生きているということは23段落からも読みとれる。「きらきらっと黄金のぶちが光りました」という文からだ。光とは生命である。死んでいるものには輝きはない。生きているから光るのである。このぶちが黄金に光るのは、美しさから生命を表現しているのだ。よってやまなしは生きていると言える。
 では、生きているやまなしがなぜ希望となるのか。ぼくたちが、毎日生活しているのは、希望や夢があり、楽しいからである。生きたやまなしが他の生物に命をつなげると、その生物はやまなしのかわりに生きる。その生物の暮らしが希望であるのだ。楽しく生きるすべての生物は希望がある。しかし、五月の段落で賢治は激しいショックを受け、しばらくはとしのことばかり考えていた。だから、毎日が生き生きしたものでなくなり、希望がなかった。その希望を新しく見つけたのが十二月の段落である。このころから賢治はまた、目標に向かって激しく燃えていったのである。やまなしは希望であり、立ち直りのきっかけともなる。五月の悲しみの中心…かわせみとは全く対照的に十二月の希望の中心…やまなしが登場するのである。そして悲しみが賢治の心を弱く、希望が強くするのだと言える。以上のことからやまなしは希望を表現していると言える。
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5 言葉の検討
 「光のあみ」について検討する。
 水草である。以下、理由を述べる。
 まず、「光る」と「あみ」に分けて考える。「光る」とは生きている証だ。4やまなしとは何を表しているのか、で「生きているからこそ光るのだ。」と述べた。この光のあみも同じである。この「光」は「輝き」を表すのだ。決して太陽のことではない。その理由は後の文章で示す。この光のあみは生きているのだ。
 今度は「あみ」を考えてみる。あみというと、上のような物を思い浮かべるが、この場合は違う。水草を表すのだ。「やまなし」の中の光のあみの動きには、『ゆらゆら伸びたり縮んだり』というのがある。このゆらゆらとは、水草が水中でゆれている様子であり、伸びたり縮んだりとは、ぴんと立ったり、ぐにゃっと曲がったりしている様子を表すのである。こう考えるとなるほど、言葉にぴったりと当てはまる。よって光のあみとは水草である。
 次に、「光」がなぜ太陽を示さないのか、その訳を述べる。
 「やまなし」の文章を読むと、光は三種類あることに気付く。一つめは五月に出てくる「日光の黄金」。二つめは十二月に出てくる「月光のにじ」。そして三つめがこの「光のあみ」である。この三種類を別々の名で呼んでいるということは、全く異なるものなのだ。この三つがそれぞれに何かを考える。「日光の黄金」は太陽の光だ。このことは五月の魚がやってきた場面から分かる。九段落、「黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにして」から、魚が影をつくったと言える。よって上からくるものだ。また、六・七段落、魚が下の方へ行ったことで上からふってきたということは、やはり魚が影をつくるのだ。よって「日光の黄金」は太陽である。
 「月光のにじ」は月明かりである。これは、十二月が夜であるからと、二十八段落「月光のにじがもかもか集まりました。」から分かる。集まったとは、ここでは本来の意味ではなくて「照らされる」という意味だ。つまりやまなしの実が月光に照らされているのだ。よって「月光のにじ」は月明かりである。
 三つめの光、「光のあみ」はこの二つのどちらかではない。よって太陽によるものや月によるものではないのである。
 最後に「光のあみ」が水草であるとして、賢治の表したかったことを(自分なりに)述べる。ずばり、動物と植物の共存である。
 この「やまなし」を読んでいくと、植物が少ないことに気付く。動物は多い。カニの弟・兄・父とかわせみや魚やクラムボンである。それに対する植物はかばの花とやまなしの実だけである。しかもこの二つを花→実の成長とすると、たった1種しか登場しないことになる。それはおかしい。谷川の底を映した幻灯なのだから、もっと植物があってもよさそうなものだ。ここで登場するのが「光のあみ」だ。つまり多数の水草なのである。なぜ水草をそのまま水草と書かないのか。それは主でないからだ。この文章は童話なので主役であるカニややまなしなどは、はっきりと示すが、水草のようなものは言葉を変えていうのだ。
 ここまでくると分かるだろうが、賢治が言いたかったことは、『植物と動物は互いに助け合う』ということだ。たとえこのような簡単そうな童話でも、そのことが裏に描かれているのである。
 以上のことから「光のあみ」は水草であると言える。

6 やまなしの中の輪廻と無常
賢治は法華教の考えを深く信仰している。そのため仏教の考えというものを、数々の童話の裏にかくしているのだ。「やまなし」のような一見やさしそうな話も、裏をかえせば仏教を敬った賢治の考えがところどころに入っているのである。その解釈を述べる。
 まず、五月と十二月は無常という考えのうちに成り立っている。無常の意味のように、形あるものはすべてほろび、命は定まりなく絶えず変化し続けるのだ。「やまなし」を読むと、なるほど一種の動物が永遠に生き続けることはないだろう。これが無常であるのだ。無常は生滅でもある。また、無常や生滅と似た言葉に“生死一如”がある。この意味は、生と死はすべて裏返しにつながっているということだ。これを易しく言えば、何かが死ねばその代わりに他の何かが生きることである。魚が死に…かわせみが生・やまなしが死に…カニが生など。このことは賢治の現実的な考えであり、大きく言えば『輪廻転生』である。
 次にプラス・マイナスの関係を見る。五月も十二月もプラスとマイナスがすべて交互にあり、同じ形が絶えず続くことはない。それが「やまなし」では命の変化となっている。ということは、プラスとマイナスや生と死いう意味では、五月も十二月も全く同じ意味を示しているのではないだろうか。その中で大きく見ると五月はマイナスイメージであり、十二月はプラスイメージであるのだ。そして、五月と十二月は絶えずくり返していて、五月→十二月→五月…と続いてゆくのだ。ここでも無常の考えが土台となっている。
 以上が輪廻と無常の解釈である。

7 「やまなし」と「春と修羅・序」
 五月と十二月の内容が同じ考えを土台として成り立っていると考えると、一つ変わらないものがある。谷川の流れだ。「やまなし」では谷川の流れが時の流れと解釈できる。流水で時間、すなわち永遠の時を表現していると言えるのだ。時間はだれにもけがされず、終わりがない。すべての生物がほろびたとしても、時は過ぎる。賢治はこの中での自分の生がいをとても少なく、小さいと考えた。だから自分を小さな「電燈」と表しているのである。「因果交流電燈」の中の青い一つの照明となっているのも賢治自身であるのである。この因果の意味は原因となるものがあるからこそ、結果があるということである。ことわざで言えば「火のない所に煙は立たぬ」である。そのような関係が「やまなし」ではかばの花→やまなしの実や、魚が死→かわせみが生というような形で表されている。この話の中のクラムボンも生と死の両方を持っている。
 次に、賢治がよく青色を使っていることについて、解釈を述べる。僕達の周囲にある大きなものは、青が多い。空→青・海→青・森→緑(だが、どっちかといえば青に近い。)そして地球全体も青である。賢治はスケールがでかい。童話にも森が多く出てくる。また、銀河鉄道の夜などには“宇宙”という大スケールが風景で話が成立している。そのような話を書き続ける賢治の頭の中には、地球上の生物は生命がある限り青く輝くというイメージがあったのでは?。そんなことから「やまなし」も『賢治電燈』が『青い幻灯』として映し出されているのだ。

8 「やまなし」とは理想を描いたのか
 理想を描いたのではない。
 まず、賢治にとって現実・理想はそれぞれどのようなものであるかを考える。すると、
 現実→弱肉強食であり、にぎやか。
 理想→平和で静か、ひっそり。
となる。この考えをやまなしに当てはめてみるとどうなるか。五月も十二月も“現実”である。十二月は“理想”の意味に近い。しかし、食う・食われるの関係はしっかり描かれている。にぎやかではないが、決して平和ではない。平和に思えるのは、やまなしが植物であるからだ。もし、やまなしの実が動き、他の生物を食べるのだったらどうだろうか。おだやかではなくなるはずだ。やまなしの実とカニが食う・食われるの関係を表している点では、五月と変わらないのである。よって五月も十二月も同じ現実という世界を描いていると言える。
 次に、五月と十二月の内容を比較する。
  五月          十二月
  春              冬
  日光           月光
  明              暗
  温              冷
  にぎやか      おだやか
  多くの生物   少ない生物
  昼              夜
なぜこんな違いがあるのだろうか。それは、十二月は“理想に近い”からである。賢治は理想を追った。しかし、結局は現実に打ちのめされている。だから十二月は平和的でありながらも、現実であるのだ。賢治はなぜ理想を追ったのか。それは自分が平和で、静かにひっそりと暮らしたかったからだと考える。現実は決して悪いものではない。人々は明るく、にぎやかに生きている。賢治が助けようとした「農民」も苦しい生活を続けながら、互いに助け合い、気楽な生活を送っていたのである。理想を追った賢治よりも楽しく生きていたのだ。しかし、賢治は現実より理想をとった。争うことがたまらなくいやだった賢治にとって、現実のような争いが多い世界は合わなかったのだろう。しかし、現実は戦争をすることで統治したり、競争し合うことで新しい物を発明したりする面もある。発達に競争はつきものなのだ。それでも人々は毎日を楽しく送っている。だから賢治は自分の理想は本当に人々が求めているものではなく、いわば“自分の夢”であったことに感づいたのかもしれない。だから自分の思いを童話などにとけこませ、静かに伝えたのだ。
 さらに五月の「春」、十二月の「冬」について検討する。春は多くの生物が誕生する。冬眠から覚めた生物も活動するし、この時期に咲く花も多い。そんな生物たちは生き生きしていて、「生命の躍動感」がある。だから生存競争も激しいが、にぎやかで生命にあふれていて、明るいイメージがする時期であるのだと言える。しかし、賢治の理想は平和に、静かに生きることである。
十二月はその内容もふくんでいるのだ。現実という世界を描きながらも理想を静かに示している。決してにぎやかでない。だから現実と理想の持つ本来のイメージと内容とが逆になるのである。最後に賢治の生き方と童話を比較する。賢治は家のあととりとして大切に育てられ、あまり不自由なことはなかった。そんな賢治が農民の仕事をするのだ。当然、苦しいことであっただろう。
自分の理想を早く実現したいと思えば思う程、つらい仕事となっていく。そんな賢治と違い、今の生活でやっていっている人々は、気楽であった。童話を書くこともなければ、村から村へ走り回る必要もないのだから。このことからすると、賢治にとって“理想が実現するように力を入れる”ほどつらく、“現在の生活でやっていく”ほど気楽になる。よって、現実・理想の示す意味がイメージと逆であるのだ。
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9 色の検討
(1) 共通している色
 黄金と赤・白と黒である。
= 黄金と赤について =
 黄金と赤の共通点。それは一言で「生」である。
 黄金は4「やまなしとは何を表しているのか」や5「言葉の検討」で生きている証であると述べた。また、黄金は日光を表すとも述べた。日光は生命の源である。今地球上にたくさんの生物が住んでいるのも、太陽のおかげであるのだ。よって黄金は生きることを表す。
 では、赤はなぜ生なのか。この「やまなし」で赤が使われているのはたった一カ所。ずばり「かわせみの目」である。つまり、かわせみの目が生きることを表すのだ。なぜか。
 動物と植物の違いはたくさんあるが、その中の一つに動物には目があるということがある。植物には目がないため、周囲の様子は感じとるしかない。見えないのだ。そんな目には、いろいろな変化がある。だから人の目を見ればその人の何かが分かるとも言うし、動物とは話すことはできないが相手の目を見てコミニュケーション図ることはできるとも言う。目にすべてが集中していると思うのだ。ここでやまなしにもどる。かわせみは生きるものの命をうばって生きる。そのかわりに他の生物に食べられる可能性もあるわけだ。だからいつも命を張って生きている。ならば、赤いかわせみの目には、命を張って“生きる”という力強さがこめられているのではないだろうか。よって赤は生である。
 黄金と赤についての共通点は「生」である。
 黄金と赤についての共通点は「生」であると言える。
= 白と黒について =
白と黒の共通点は「因果」である。
 白はいろいろなものを表すが、その中の一つに「かばの花びら」がある。かばの花びらは十二月の「やまなしの実」につながっている。かばの花が咲く→その後に実ができる。これは因果だ。よって、白は因果である。
 黒は話の中でもかげを表すことが多い。そこでかげはなぜできるのかを考えると、これも因果である。日光がさし、上に何かものがあるから光がさえぎられて暗くなるのだ。よって黒は因果を表す。
 これだけではない。白も黒もその色に関する結果があれば、必ず原因があるのだ。原因なしでは絶対に結果は出ないのである。
 こう考えるとこの話に出てくる黄金・白・黒・赤・青・金・銀・鉄色・青白などの色は、全部因果になる。大きく考えると、みんな共通しているのだ。では、僕が黒と白だけを選んだのはなぜか。それは、他の色は因果よりも先に強く示す内容があるからだ。例えば黄金や赤について考えると、第一に“生”を表していることが分かる。また、青や銀などの色は第一に“仏教の教え”を表していることがわかる。つまり因果については、一番大きく考えた場合の共通点であるのだ。そんな中で他の内容より因果を表している色が白と黒であると言えるのだ。
 以上のことから、共通している色は黄金と赤。白と黒であると言える。

(2) 青は何を象徴しているのか
 生滅である。以下、いくつかの理由を述べる。
 第一の理由…この「やまなし」は青が中心に描かれている。幻灯も青・かわせみも青・波も青…。だいたい、この話が小さな谷川の底の話であることがすでに青色を語っている。その中の“波”を検討してみる。波とは、変わらずに流れ続けるものであり、仏教の考えをつなぐと、「永遠の時間」である。永遠の時間の中で、生命はやがてほろんでいくことであろう。その関係には、数々の生滅がある。生物は絶えず生存競争をし、弱肉強食の世界になっている。強い者が弱い者をせいし、強い者は死ぬと一番弱い者に分解される。そういうように、生命が受けつがれて、絶えず実体が変化していく。永遠の時間の中では、そのような関係が、くり返されているのだ。これはもちろん生滅を表している。よって、青は生滅であるのだ。
 第二の理由…「やまなし」一段落にある、「二枚の青い幻灯です」という言葉に注目する。この二枚の幻灯とは、もちろん「やまなし」のことで、五月と十二月を示す。これは、やまなしの中の生滅を表す。五月と十二月について、別々に検討していこう。
五月→ 魚が命をとっている。その魚をかわせみがとらえる。この二つの生物は、両方とも自分が生   きていくために、しかたなく他の生物をえさとするのである。そして命をとられる代わりに、   とるものが生きる。また、クラムボンも生と死をつかさどり、両方の象徴として描かれている。
十二月→五月に登場したかばの花が成長し、やまなしの実として登場する。やまなしの実は、カニに   食べられるために熟し、準備をする。そして生きたまま命をつなげるのだ。
 この二つの話は、数々の生滅を表している。青色である「やまなし」が生滅を示すのだ。よって、青が生滅である。
 第三の理由…「春と修羅・序」の文章の中に登場する“因果交流電燈”と“有機交流電燈”という言葉について検討する。賢治は自分のことをこの交流電燈のなかの“青い照明”と言っている。では、因果交流電燈・有機交流電燈とは何を表すのか。
= 因果交流電燈 =
 この因果とは、原因と結果の関係を表し、結果があるものには必ず原因があるということである。交流とは、交わりながら流れていくという意味だ。つまり、因果が交流する電燈なのである。
= 有機交流電燈 =
 この有機とは、生物という意味だ。つまり生物が交流する照明である。
 この電燈は風景やみんなといっしょにいそがしく生滅している。賢治はこの中の青い照明であるというのだ。すなわち、青は生滅だと言える。
 第四の理由…仏教の考えのうち、『六道』について検討する。六道は魂が行く場所であり、上から順に天→人間→修羅→畜生→餓鬼→地獄となる。賢治は「春と修羅」「無声慟哭」などの文章で、自分を修羅だと語っている。では、修羅とはどういう意味を表すのか。修羅を調べると、闘争・悲惨・戦闘・ねたみ・恨みというような言葉が多く使われていた。賢治が修羅であるということは、自分の心にいやしい心を持つということである。ということは、性格なども外と内の二面があるということなのだろうか。外に内の姿は決して見せなく、内の姿や感情は文章に描いているのだ。では、どうして賢治は自分のことを修羅であると思ったのだろうか。それは、仏教の勉強と深く関係がある。
 輪廻転生や無常の意味などを、小さい頃から習った賢治は、輪廻とは、六道がめぐっているという内容を学ぶうち、自分の性格・考えなどがいやしく、修羅であると感じたのだろう。修羅は青暗い。賢治は修羅を歩いている。では、修羅と生滅にはどのような関係があるのだろうか。
 修羅は六道のうちの一つであり、六道とは、前にも述べたように魂がくる所である。当然命を受けわたしてきた者らがくる。ということは、修羅と生滅とは何かと関係があるのではないか。よって、生滅は青暗いのである。
 第五の理由…としの生死について。としの死は、賢治にとって激しいショックを与えた。としの死・賢治・童話について検討しよう。すると大きな変化に気付く。それは、悲しみから立ち直る時だ。「無声慟哭」「永訣の朝」「春と修羅」を書くころは、賢治は修羅を歩いている。しかし、「やまなし」を書くころは、悲しみも少々うすれ、自分の理想に向かっていく。このような童話には、すべて青が使われ、それが共通している。としの生滅とその後の文章の青とは、つながりがあるのである。そのため、青とは生滅を表す。
 第六の理由…賢治の本当の理想について検討する。賢治が修羅であり、外と内とでは違うのではないかと述べた。では理想についてはどうなのだろうか。ぼくは、やはり理想も違ってくると考える。これから、外の理想と内の理想について自分なりの解釈を述べる。
〜 外の理想について 〜
 外の理想とは、みな平等であり、争いなどが起こらないよう、平和に…というものだ。一言で言うと「みんなのため」である。そのような内容は、どんな童話でも表面に思いをこめ、一回読むとすぐにわかるようにしている。「やまなし」を読んだ時に、ゆかいな話だと思ったのも、このためであろう。
〜 内の理想について 〜
 内の理想とは、自分が人間として一人前になっていくことではないか。つまり、自分自身のためなのである。そのような内容は、童話の奥深い所にこめ、一見分からないようになっている。しかし、そのところが賢治にとっての本当の感情であったのだろう。この、「自分が人間として一人前」という思いからなっていると考えられる話がいくつかある。例えば、父、政治郎の後をつぐ時のことである。賢治がどうしても後をつぎたくないと言ったのは、質屋の仕事が弱い者いじめのように感じたのも一つかもしれないが、本当は自分が修羅であると思い、人間として一人前になっていないと感じたのだと考える。
 また、農民の仕事をする時もそうである。賢治が「農民のため」と言って農作業をするのは、別の角度から考えて「自分のため」なのではないだろうか。賢治は常に弱者の味方であった。それは良い。しかし、そのことがなぜ農民の味方へとつながるのだろうか。
 賢治が弱者の味方になる理由を考えてみる。すると、自然に「毎日の生活を楽しくさせてあげる」というような感情が浮かんでくる。弱者はつらい立場になることが多い。それを賢治は見過ごせないのだろう。みな平和・平等に生きるためだ。しかし、農民はそれとはまた違う。確かに天候によって収穫を左右されて、毎日重労働するわりに収入は少ないことが多い。だが、農民は弱者ではないと考える。なぜなら一点だけ異なる点があるためだ。その一点とは、生活の明るさについてである。本当に弱い立場に置かれている人々は、楽しい暮らしは送ることができない。しかし農民は違う。農作業はつらい仕事であるが、日々の暮らしの中から楽しみを見つけて一生懸命生きているからだ。農民に生まれた人で、本当に悲しく思う人はいない。農民には農民しか感じることのできない、特別な楽しさがあるのだ。考えてみれば、そんなに苦しい立場の人などいないのではないか。
 これらの理由をつなげていくと、農民には農民の良さがあると考えられる。では、なぜ賢治は苦しい生活をしてまで農民を助けようと努力したのか。賢治は物事の考え方がしっかりしている。数々の童話作品から見ても、農民の真の楽しさに気付かないはずがない。これらの考えをつなげると答えが出てくる。「自分のため」だ。何も賢治が実行に出ることはないのである。それ程までに助けたいならば、教師として理想を説き続けるとか、肥料相談所をもっと幅広く全面的に行うとか、石灰の研究を続け、農作業に役立てるとか、いろいろと手段がありそうなものである。賢治一人が農作業の手助けをしたところで、全体的に大きく変わりそうにない。しかし、賢治は実行した。それは「自分をみがくため」なのだ。農民…とは表面的な理由であり、結局賢治は自分のために行動していたのだ。
 また、雨ニモマケズの詩にはその賢治の感情のすべてが記されている。
 この詩は賢治の死が近くなった頃、寝床でつくったものである。人が死ぬ前には、誰でも自分の本当の気持ちを表す。僕はこの詩に賢治の自分に対する考えが集結していると考えた。この詩について検討する。
 十・十一行目の「あらゆることを自分の感情に入れずに」とは、修羅を語っている。修羅のように心がみにくい者は、二つの心を持つと述べた。この「感情に入れず」がまさにそのことを表す。自分が示さなかった感情はどうなるのか。人の心の中に残り、それがもう一つの考えを作る。それが修羅であるのだ。
 次に「そういうものに私はなりたい」を考える。そういうものとは詩に表れているように、弱い者に味方をする者だ。ここでこの言葉と賢治の表面的な理由とを合わせると、一つの矛盾が出る。なぜ賢治は自分が「そういうもの」になることを望むのか。農民が幸せになれるのならば、自分の理想は実現する。なぜそのことを記さないのか。これからも、自分のためなのだと分かる。
 こういうように考えを進めてくると、賢治は悪い人であり、表面はうそで心の中を見せないというイメージがわく。だが、それは違う。賢治は本当は美しい理想を夢見たのだろう。しかし、賢治は自分に厳しかった。修羅であるうちは、理想は遠い。そう考えたのかもしれない。だから賢治の童話は本当に美しいとされ、人々に愛されているのだ。
 第六の理由には、修羅が出てくる。修羅はある面では暗い青を表し、またある面では生滅の変化ともつながる。青と生滅は、修羅を通してつながっているのだ。
 以上、六つの理由を述べてきた。そのどれもが賢治の考えや修羅との関係から、青色が象徴するもの=生滅であるという内容が書かれている。以上のことから、青は生滅であると言える。
  
「やまなし」を終えて
 何十回もくり返した討論。書いてまとめた作文用紙の束。このような努力のあとをふり返ると、この勉強はとても長かったように感じる。
 宮沢賢治が出した課題「やまなし」は、無事乗り越えることができた。これは自分の力だけではない。賛成して僕を励ましてくれたり、反対して考えさせてくれた仲間の力や、情報を提供して下さった先生の力もあるのだ。
 やまなしを越えた自信は、これからもいろいろな面で土台となると思う。有難う。
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