北朝鮮との拉致問題が膠着状態に入っている。独立国家の善意無過失の国民が、ある日突然暴力によって、あるいは甘言に釣られて他国へ連れ去られるという現実に、国民は皆唖然とした。2年半前の小泉訪朝時に、金総書記がこれを認めたことで、拉致問題は一気に解決に向かうとの、一部に楽観的な見方もあったが、あまりにも甘かった。
日本国憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めており、国民の身の安全は国家によって保証されている。拉致は冒涜だ。
日本政府は、これまで帰国した5人とその家族の他に10件15名の拉致被害者を認定しているが、特定失踪者問題調査会の調査によれば、拉致被害者は少なくとも200名は存在するとされている。 昭和57年1月4日、浜松市西山町の実家で正月休みを終え、下宿先の横浜に向かった河島功一君は、その年の3月20日に関東学院大学機械工学科を卒業することになっていた。当時の株式会社石川鉄工(現ソミック石川)に就職も決まっていた同君は、卒業式の翌日の21日に、両親に「荷物を取りに来てほしい。」と自ら電話連絡している。荷物を引き取りに行った両親に対し、「電車で帰る。」と午前9時半頃に別れた後、行方不明になった。
当時、世間一般にも両親にも拉致という概念がなく、捜索願を出しに行った警察の係官には「お母さん、大学卒業した大の大人が少しぐらい居所不明でもそんなに騒ぎなさんな。」と軽くあしらわれたという。
16年3月、特定失踪者問題調査会は、「河島功一君の失踪は拉致の可能性が高い。」と発表した。 昨年暮れ、お母さんと妹さんと「功一君を探す会」のメンバ−を石川知事と高石警察本部長に引き合わせるとともに、一緒に協力をお願いした。
父親は心労が重なって病の床についているということで同行されなかった。この足かけ23年間、毎日、毎日玄関を開けて待ち続けているというすでに71歳を過ぎた母親の涙が心に痛い。
経済制裁か話し合いか、ブッシュ大統領がいうところの「ならず者国家」「悪の枢軸」国家を相手に、新たな拉致被害者としての認定と救出は困難を極めることが容易に予想される。いずれにしても解決への道は、なお遠いといわざるをえないが、諦めることなく活動を続けることが大事だと思う。
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浜松にもいた?拉致被害者