今年の3月、2500メ−トルの滑走路に衣代えして開港した鹿児島県種子島空港を、空港利活用促進議員連盟の有志で行った。行きの機中で手にしたJALの機内誌スカイワ−ドの中に「ドイツ ツェッペリンという名の青い空」という記事が掲載されていた。そこには、『1929年(昭和4年)、人類の空翔ける夢を乗せた飛行船“ツェッペリン号”が、世界一周の旅にでた。航路中日本の霞ヶ浦に寄港したとき、1人の日本人少年が飛行船の中へ導かれ、その豪華な客室や操縦席を目にしたという。残された一葉の写真を探しに、ツェッペリンゆかりの地を尋ねる』というものだった。結局、写真は見つからないまま、『思い出の写真は、誰もの心の中にひっそりと浮かんでいるのだ。』と結ばれていた。その瞬間、私は小さい頃の記憶の断片を、飛行船について書かれていた本を胸踊らせて読んだ自分自身を、思い出した。
 その日、鹿児島に着いた後も、また次の5月の北九州空港の視察の時も、それぞれ2回にわたって、移動の車中からマストに係留されている、飛行船の姿を偶然見かけたことで、夢がふくらんでいくのを感じた。
1900年、ドイツでツェッペリン伯爵によってつくられた飛行船は、その後、ドイツの主要な都市を結ぶ航路が開設されている。そして1930年代にはアメリカ航路が開設され、当時既にあった飛行機を抑えて空の主役となっていた。全長245メ−トル、航続距離1万メ−トル、乗員乗客100人乗りという世界最大の飛行物体「ヒンデンブルグ号」 は、アメリカとの間を年に50回往復している。
 ところが1937年、悪天候の中をニュ−ヨ−ク郊外の飛行場に着陸寸前に、水素ガスが爆発炎上、乗客乗員97名中35人が死亡するという大惨事を起こし、空の主役の座から消えていった。
 それから約60年近くが経過した今から14年前に、ツェッペリン社が再興され、カ−ボンファイバ−や不燃性のヘリウムガスなどを使用した新型飛行船「ツェッペリンNT号」が製作された。関係者の間では、近い将来に45人乗りや85人乗りの飛行船がつくられるだろうとの観測が強い。
 コンピュ−タ−などの情報通信機器の発達、繊維新素材や軽量強靱な骨組み材などの開発が更に続くとすれば、その実現の可能性は高い。
45人、85人乗りといった飛行船が開発されれば、富士山空港から、富士山麓、伊豆半島、浜名湖などの観光地を結ぶコミュ−ト機能と観光遊覧機能、更に被災時の空中管制や情報収集、あるいは救助救援活動などに活用できる。 飛行船の係留基地化だけでなく、アセッンブリ−産業が盛んで、列島の真ん中という特性を活かして、本県に、こうした新型飛行船の建設基地をつくりたいと、今議会で質問を行った。
 当局は、情報を収集しながら、導入の可能性の研究を進めたいとしたが、採算性というハ−ドルをにらみながら、なお飛行船への夢を追い続けたいと考えている。

6月

飛行船の研究