←左に目次がない時は,マーリン通信 をクリック! このフレーム名は 随想「白い雲」です。

 臨床心理士 G さんのコーナーです。

 

随想 「白い雲」フォルダ の 目次
更新月日 タ  イ  ト  ル
22.07.10  中学校1年生の思い出    
21.10.02  鳥を見るという趣味は 満たされない趣味?
19.09.10  遠征? 撤退? ゲット?    
19.01.29  (閑話休題)50年来の疑問
16.04.03  老人が始めた戦争で死ぬのは若者
15.02.14  街中の広告を見て    
14.12.11  肩ひじを張らず ゆったりと    
12.09.27  何のために 働く?    
12.06.02  乾いた砂に水    
12.02.08  興味の方向    
11.12.25  出世    
11.07.09  一生もの    
11.05.22  正常だから…    


中学校1年生の思い出


臨床心理士 G  

 今日は主に認知の歪みについて書こうと思います。

 わたくしが中学校1年生の時のことです。クラスの中のある女子生徒と仲良くしていました。昔の言葉で言う「両思い」「相思相愛」ということで,クラスの中でも公認の間柄でした。あるとき彼女が盲腸の手術で入院しました。手術が無事済んで,しばらくしてから担任の先生とクラスメイト何人かでお見舞いに行きました。最初わたくしは後ろの方に立っていて,前のほうで先生や仲間が彼女とにこやかに話をする様子を見ていました。そのうち順番というわけではないですが,わたくしが前の方に行って話をし始めると,彼女は目をそらすように少し横を向いてしまいました。わたくしは何を言ったのか今は正確に覚えていませんが,「もうすぐ退院できるからあと少し頑張ってね」というようなことを言った記憶があります。ところが問題はその時と,その後のわたくしの受け止め方でした。彼女の表情を見ていてわたくしはてっきり嫌われたと思い,確信するかのようにそう決めつけてしまいました。そして,嫌われたという苦しみから逃げるために何とか彼女のことを忘れようと思って,いろいろ理由を考えたり理屈を並べたりああだこうだと忘れる努力を重ねてしまいました。そして忘れて,ほかのことに集中し始めました。

 かなりの年月が経ったころ開かれた学年同窓会での出来事です。あの日一緒にお見舞いに行った一人の女性が「彼女はここに来れないけど,元気にやっていますよ」というような趣旨のことを言うのでした。ずっと後で開かれた歳をとってからの次の同窓会でも同じ女性が「彼女は同窓会には出て来ることができないけど,彼女はあなたのことをずっと今だに思っているんですよ」と。わたくしはあの時「嫌われたんだ」と決めつけていましたが,実は好きな人にこんな所で会って恥ずかしかったようです。考えてみればそれももっともなことで,普通の仲間とは普通に話をすることができても,一番好きな人とこういう状況で会って話をするという時は恥じらいの思いがあっても,それは当然なのでしょう。目をしっかりと相手に向けて話すことができなくて目をそらして話をしてしまう,話を短くしてしまうということももっともなことです。それを分かってあげられずに,勝手に「僕は嫌われた」と決めつけてしまうとは,当時のわたくしは何という歪んだ認知をしていたのでしょうか。今までの人生を振り返ってみると,自分自身の認知の歪みというものはいくつか思い当たります。一番大きなものは「決めつけ」,そして「白か黒か即座に判断してしまう」こと,そしてその判断によって「対象を引き寄せようとするか退けようとするかを即座に決めてしまう」ということです。わたくし自身の過去を振り返ってみて、最も歪んでいた部分がそこでした。訓練や瞑想を続けることによってある程度修正することはできましたが,今となっては過去を書き直すことは不可能です。かわいいワンちゃんを連れてわたくしの自宅近くを散歩している女性を見ると,ついこの人はあの時の彼女ではないかと思ってしまいます。帽子をかぶりサングラスをかけマスクをしておられると顔を拝見することはできないのですが,何か不思議な思いのようなものが伝わってくる気持ちになります。

 最近マーリンさんとは直接お会いすることが少なくなって,もっぱらメールで画像を送ったり観察の様子を話したり書いたりしています。ある時,ハイイロチュウヒだと思いこんで画像をお送りしたところ,「これはチュウヒの雄成鳥です」と言われたことがあります。どうしてそういう間違いをしてしまったのでしょうか。種の識別だけでなく,換羽のようすについても,抱卵中のできごとでも,あるいはほかのことにおいても,次から次と「そうではないです。それはこれこれです」とか,「どうしてそういうふうに断定したのですか」と指摘されつづけています。一時はどうしてこの人はわたくしの見解をこうまではっきりと否定し続けるのだろうかと思ったことがありましたが,今思うとすべて事実で本当のことでした。自然観察や野鳥観察という簡単に物事を見ることができそうな分野においてさえこんな状態です。

 目に入った光の情報を頭の中でどう処理するか,どう判断するかというあたりで,歪んでいるのでしょう。少ない情報で多くのことを組み立ててしまったり,推測程度でとどめておくべきことでもはっきり断定してしまってました。ちょっと観察しただけでは,正しい結論はそう簡単には出せないものです。鳥見でもこんな状況ですので,ましてや人の心という複雑なものをどう認知するかということは,鳥見とは桁が違うほど難しいことです。人の話を聞く時は長い時間をかけてじっくりと聞く必要がありますし,メールでは長いメールのやり取りを何回もしなければいけないことが分かります。

 世の中のいろいろなことは,一見簡単そうで単純そうに見えるのに,実は奥が深い,深すぎます!

(Uploaded on 10 July 2022)

▲この画面の上へ

 


鳥を見るという趣味は 満たされない趣味?


(Gさんの文章のコーナーですが、たまにはこういう類いの文章もよいだろうと思って、今日は若杉が書きました。)

 -----------------------------------------------

 鳥見、タカ見という趣味は満たされることの少ない趣味です。いくら見ても十分に満足したということが少ない趣味のように思います。50年弱の間タカを見続けてきても、いまだに昨日見に行ったばかりなのにまた翌日見に行きたくなることがあります。「私はもう十分にタカを見ました。だからもうこれで見なくてもいいです」ということには決してならないようです。呼吸と同じで、今まで何十年と空気を吸ってきたから明日からはもう吸わなくてもいいや……ということにはならないのと同じです。かなり年をとって、生きる気力がなくなり何にも興味がなくなってきてもやはり空気は吸いたくなります。

 先々回の文章で書いた薮内正幸さんとシロハヤブサの関係のように、鳥を見ても十分に満足するだけ見たということは非常に稀です。仮に捕獲して手に取って近くで見たとしても、そういう鳥は人間に対する恐怖がすぐピークに達してしまい、ありのままの鳥の姿を見ることはできないです。檻に入れて飼ったとしても野生の飛翔は見られないですし、野生の鳥の美しさは飼育鳥にはないです。巨大な檻に入れていても話は同じで、そのうち「嘴がちょっと傷ついている」とか「羽が傷んできた」とかが気になるようになり、いわゆる完璧な自然な状態の鳥というものは人の支配下にはいません。

 満足できない要因は次の2つあるように思います。

(1) 実は見ていない

 出現した鳥をじっくりと見ていないことが原因です。タカが出ても、写真を撮りまくったり、数をカウントすることで忙しかったりすると、鳥の表情を見たり、動き・飛翔を追うことがなくなります。景色や周り全体の雰囲気を味わうこともなくなります。写真を撮った後でカメラの液晶画面で、あるいは帰宅後にPC画面で初めて鳥を見るという人もいますが、これは見たことにならないことがほとんどです。ちらっと目には入ったものの、「見ていない」のでまたすぐに見たくなります。このことに関してはこれ以上書かなくても分かると思います。

(2) 期待・希望が大きい

 次の原因は「期待・希望」が大きいことです。不満足(=苦)は期待の大きさに比例するようです。誰かに鳥情報をもらって深夜に出て現地へ朝一番で駆けつけていくときはなおさらそういう状態になることが多いようです。目的の鳥がいないことが多く、いたとしてもそうそういつも良い条件で見られるとは限らないです(私は昔から情報をもらって鳥を見に行くという見方はかなり少ないですが……)。

 ただ、まったく満たされていないかというとそうでもないようです。どこでもフィールドに出ればそれなりに何かは出現しますし、それなりの時間、目的の鳥が見られることもあります。

 また、思いもかけないような出会い、想像もしていなかったような出会いもあります。ここには書けませんが、話をすると誰もが「私も連れて行ってくれ~!」と叫ぶような魅力的な地点がいくつかあります。苦労して自分で探し出した地点であったり(実際は運が良かっただけかもしれません)、友人に極秘で教えてもらった地点であったりします。ただ、多くはその年限りで、そのシーズンが終われば翌年はそれほどのことはないということもよくあります。まれに何年も続くことはありますが、環境や状況は常に変化していて同じような状況がそのまま続くことはないです(仮に状況がほとんど同じであっても、観察者に同じような満足感がずっと続くことは少ないです)。

 満たされないことの理由は過去・現在・未来に対する誤った認識によるもので、これにはいくつかあるように思います。

〇 (過去に対して)
 過去の経験に翻弄されていることが大きいです。あの時ここでこういうものを見た、こういう経験をした……というものに取り憑かれていることです。それはそれでその時は現実であったのですが、過ぎ去った今となっては妄想です。過去の得難い出来事が頻繁にいつでも起こるわけはなく、大きな期待を知らず知らずのうちに培養・増幅してしまっているのでしょう。40数年前の鍋田干拓(愛知県)ではおびただしいほどの鳥がいて、夏羽のきれいなエリマキシギが水田に何羽もいて、他にも珍しいシギがいっぱいいたり、目の前の連なった電線に10数羽のコチョウゲンボウがとまっているとか、鳥の群れの大きさ(大群)とか……、そういう時代と現在を比べてしまうと不幸です。鳥の種類も数も桁が違うほど少なくなりましたが、でも今は今で対応するしかないです。過去のできごとは過ぎ去ったもの(捨てたもの)で、今現在からみれば妄想です。

〇 (未来に対して)
 未来に対する期待・希望が大きすぎるということでしょう。期待・希望も現在の妄想です。俗な言葉で言えば「欲が深い」ということです。

〇 (現在に対して)
 今現在目の前にあるものをあるように見るだけでよいのに、それができないことが不満足の一番の原因でしょう。多くの人間にとって一番苦手なことは「今を生きる」ことです。

 タカ渡り観察のシーンを例にして考えてみます。朝暗いうちに現地へ到着して、すがすがしい天候と風景で気分がよく幸福を感じることが多いです。でも時間経過とともにだんだんとその気持ちは薄くなっていき、そういえば昔ここでケアシノスリが出たなぁなどと思い出したりして、今日は出ないなぁと考えて、楽でも苦でもない不苦不楽の状態へ。そんな時に珍しい鳥が出現すると、例えばアカアシチョウゲンボウが出たとか、特に珍しくなくてもハイタカがかなり低いところをゆっくりと飛んで来たとか、そういう状態になるとまた幸福を感じるようになります。そして時間とともにまた不苦不楽の状態になり、これらを繰り返していくうちに、時間とともにだんだんと苦の状態になります。疲れてもそのままの状態で10時間12時間続くとなれば、当然、どんなに楽しいことでもやはり疲れて苦の世界になります。

 これは音楽を聴くときでも同じで、あまりに長時間聴き続けていると好きな音楽でも疲れます。同じ曲だったらもっと短時間ですぐに嫌になります。家電量販店などの店頭での繰り返し聞かされる刷り込み目的のテーマ音楽が嫌だからああいう店には長時間いたくない(買ったらすぐ帰りたい)という人の気持ちがよく分かります。

 食事をする量でもそうで、一度に何kgもの食事は当然できませんし、お金と時間をかけて愛情込めて料理されたものをおいしくいただいて、十分に満たされた後でも時間がたてば、翌朝になればまたすぐに空腹になってまた何かを食べたくなります。読書でも、その他のことでも人間のやっていることすべてで同じことが言えます。最初のうちは雰囲気が変わって真新しくて些細なことに喜びを感じますが、時間の経過とともに薄れてきて、さらに続けば苦になります。適度なところでやめるのが一番楽しいです。誰かと一緒にタカ観察をしていて、時々早い時間にあるいは短時間の観察の後に「今日はもうこれで終了です。お先に失礼します」という方がいらっしゃいますが、そういう人が一番要点をわきまえて楽しんでいる「人生の達人」なのかもしれません。私は朝暗いうちから現地に着いて、8時間とか10時間とかついつい長時間観察をしてしまいますが、他の人からは「ご苦労さんなことです」「奇特な人ですね」と思われているのかもしれません。

 ある程度のところで、「これで十分によく見た」「よく出た。十分に味わった」、(カメラマンなら)「十分にシャッターを切った」と満足すればいいのです。あるいは満たされることのない趣味だと割り切るか、「不満足のように感じたが、実は満たされていた」と理解し、納得できればそれはそれでよいでしょう。

 まぁここまで書いたことは鳥以外の生物、昆虫や魚類やその他の生物相手の趣味ならみんな同じようなことが言えるでしょう。

 ---------- +

 もっと言うなら、生物相手の趣味以外の他のどんな趣味でも同じようなことが言えるような気がします。人の期待・希望に合わせて世界の現象が変わることはありえないことなので、これは仕方がないことなのでしょう。急な坂道に停めておいた車がブレーキが緩んだからかブレーキがかけてなかったためか、自分で動き出してしまったとします。そんな車を人が一人で止めようと車の前に立ちはだかったとしても轢かれてしまうだけです。自然界に対して期待・希望を持つということはこの車を一人の人間が停めてしまおうとすることに似ていて、これはほぼ不可能です。つまり期待・希望=妄想です。

 ----------------- ++

 さらにもっと基本的なことに立ち返って考えると、いくら長く生きてきたとしても、どんな生命でも(誰でも)満たされることはなくて、それは「執着(渇愛)はとどまることがない」というところからきているのでしょう。その元はやはり「存在欲」であって、悟らないかぎりは苦(不満足)が続いてしまうのでしょうね。

(Uploaded on 2 October 2021)

▲この画面の上へ

 


遠征? 撤退? ゲット?


臨床心理士 G  

 マーリンさんに刺激を受けて,何年か前から鳥を見ています。タカ類の営巣のようすを見せてもらいたいのですが,「この巣は誰々さんに教えてもらった巣だから……」「この巣の主は警戒心が強いから……」とかで,なかなかチャンスがありません。でも,小鳥類や水鳥はよく見に行きます。野鳥の会の探鳥会に参加したり,月刊誌BIRDERを読んだりしています。ネットで皆さんの撮られた写真もよく見ています。傑作ばかりで物怖じしていて,私はカメラに手が出ません。

 ネット上の野鳥写真サイトでは,「遠征」「撤退」「ゲット」が大流行なんですね。なんとなく軍隊モードかゲーム感覚のように思えてきます。

 「遠征」はナポレオンがはるか遠くのエジプトまで攻め(征服)に行くような印象を持ってしまいます。標高の高い外国の山に苦労して登る時などは「ヒマラヤ遠征」のような遣い方をよく聞きますので間違いではないかもしれませんが,鳥を見に遠くへ行くのは,戦争や試合・登山ではないので,どうかな?という感じです。「撤退」は軍の部隊が,陣地や根拠地を捨ててしりぞくことが一般の遣い方で,広く捉えれば,会社などが今まで行っていた分野や営業していた地域から手を引くことですから,やはり違和感がありますね。「撤退」よりは「終了」のほうがよいですよね。

 どちらの言葉も軍隊のイメージが強いです。ずっと待っていても鳥が出ない時に「帰りたいな,終了したいな」と思った時,あるいは疲れてきた時に,「もう少し頑張るぞ!」と言いながら自分自身と「戦う」のならこの言葉もよいのですが,そうでない時にはちょっと使うのは躊躇しますね。「遠征」は「遠出」や「遠方での観察」,「撤退」は「撤収」とか「終了」のほうが合っているように思います。「撤収」はブラインドを使っていて最終日に片付ける時とか,定点に8時間ほどいた後,複数の三脚や椅子を片付けるような時(私はそんなハードな観察は少ないですが)にはよいかもしれません。それでも「撤収」よりは「終了」「片付け」のほうがよいですね。

 「ゲット」は若い人たちのゲーム感覚のような印象を受けます。僕はどちらかというとまだ若い年齢の部類に入りますが,見たことのない新しい鳥を見た時とかその日何種目を見たとかいう時にはあまり使いたくない言葉です。言葉は時代とともに変化していきますし,遣い方やシチュエーション,遣う人の年齢も変わっていきますが,お歳を召した方が遣っているとつい笑えてしまうような時があります。

(Uploaded on 10 September 2019)

▲この画面の上へ

 


(閑話休題)50年来の疑問


 いつも、このフォルダーの文章は臨床心理士のGさんが書いていますが、最近Gさんからの寄稿がないので今日は若杉が書きます。

 私の素朴な「50年来の疑問」です。私はバイオリンを若い頃から弾いていて、今は(すごく下手な)ピアノをほぼ毎日弾いています。言うも恥ずかしいほどの下手さ加減ですが、本人は開き直って、いたって楽しくやっています。素人ですから、五線譜のト音記号の譜表の上のほうにある上第一線の音(イ a)とヘ音記号の譜表の上のほうにある上第一線の音(ハ c)の音をしばしば読み間違えます。それだけではなく、線の上の音も線の間の音もト音記号の譜表の音とヘ音記号の譜表の音をついつい間違えてしまいます。この2者の間で音程が3度違うのですが、「どうしてこれを統一しないのか?」と中学生だった頃から今までずっと50年以上も思っていました。

 「なぜ人間はこういう譜表を今までずっと使ってきたのか」と、人に聞くのも恥ずかしいので誰にも言わなかったのですが、もうこの歳になれば恥ずかしいということもないので、書いてみることにしました。

 素人の失敗(私の楽譜の読み間違い)をなくすためには、五線譜を六線譜にすればよいです。六線譜というのは下の画像のようなものです。


五線譜ならぬ「六線譜」です!(読みやすいでしょう)

 

 6本の弦を使った楽器の簡易楽譜で6本の横線の使われたものを見たことがありますが、それは6本の線が6本の弦に対応するように表記しただけのものです。世界中の今までの歴史を調べてみると、上の画像のような六線の譜表が存在して使われていた時代があったかもしれませんが、私は知りません。

 六線譜には良いことがいっぱいあります。

〇 どちらの譜表も、上第1線、下第1線ともに4つの音がすべて同じ音 ハ c です。
〇 どちらの譜表も、6本の線の真ん中の「間」がともに同じ音 ハ c です。
〇 どちらの譜表も、同じ位置にある音はすべて同じ音です。
〇 すぐ覚えられて、小さい子でも素人でも間違いがなくなります。

 わずかですが、欠点はあります。

〇 五線譜と比べると線が一本多いので、六線譜は五線譜よりも若干「視認性」が悪いです。

 もう今まで数百年にわたって使われ続けてきた五線譜ですので、今さら換えることは不可能です。これから世界中の鳥類の学名を全部変更しようというよりももっとたいへんなことになります。混乱どころの騒ぎではないですので、「換えましょう」と提案する気はもちろんないです(笑)。

 バッハの書いた楽譜はまさに芸術品で楽譜を写真に撮ったコピーを手元に置いてしばしば眺めています。それほど美しいものですので、(六線譜というのはけっこう良いアイデアだとは思うのですが)やはり五線譜のままでよいです。

(Uploaded on 29 January 2019)

▲この画面の上へ

 


老人が始めた戦争で 死ぬのは若者


臨床心理士 G

 2016年3月発売の季刊誌 『SIGHT』 vol.63 の特集は,「老人が始めた戦争で 死ぬのは若者」です。

 


Net広告から

 

 SIGHT vol.63  特集 : 老人が始めた戦争で 死ぬのは若者

発行  ロッキング・オン
コード  09798-05
発売日 2016年3月31日
定価   743円+消費税

(Uploaded on 3 April 2016)

▲この画面の上へ

 


街中の広告を見て…


臨床心理士 G

 名古屋市内を歩いていた時のことです。ドラッグストアの入り口にあった下の写真の看板が目に入りました。「10円!」 に目が行ってしまい,「これは安いな!」 と思いました。

 


一枚10円!という誇大?広告
(社名は消してあります)

 

 近づいてよく見てみると,10円でプリントできるのは,同時に 500枚以上の注文の時に限られるとのこと。よく読めば,たしかにそう書いてあります。枚数が少ない時は一枚22円+消費税の値段です。でも,一時にSDカード内の全コマプリント,かつ,一回の注文で 500枚以上のプリントをする人は,数多いお客さんの中にどれだけいるのでしょうか。「10円」 という価格が 100%の嘘ではないのですが,こういう宣伝のしかたはどうなんでしょうか? 小さくてもただし書きさえ書いてあれば,それでよいのでしょうか。テレビの宣伝でも画面の下の方にほんとうに小さい字で大量の断り書きが,ごく短時間だけ表示されますが,すぐに消えますので読む時間がありません。この看板もそれと同じようなことで,通りすがりの人は小さい字までゆっくり読む暇がありません。

 話は変わりますが,コンドロイチンとかヒアルロン酸とかその他のサプリメントの宣伝をテレビでさかんにやっています。新聞も週刊誌もラジオも皆やっています。こういうものを口の中に入れても胃ですっかり消化されてしまい,肝心のひざや腰,あるいは物質によっては脳にまで,そのままの状態では届きません。それらが体内で合成される時の材料の元の一部になるものはあるでしょうが,ただそれだけのことです。「これらは商品の効能ではなく,使用者の感想です」 とか,「効能を保証するものではありません」 などと書かれてはいますが,この文言を見て,「あぁ,これは効かないのだな」 と思える人は少なく,多くの人はついついだまされてしまいます。

 こういう成分を体に補給することよりも,むしろ老化現象によって体の中で必要な物質を合成する力が衰えてきているということを問題にすべきです。毎日必要な量の運動をするとか,ぐっすりと睡眠がとれるような工夫をするとか,明るく笑って暮らすとかいったことのほうがはるかに効能はあるでしょう。いわゆるサプリメントというものは,総合ビタミン剤も含めていっさい口にしないという人もいますが,まだまだこれは少数派のようです。

 テレビあるいはテレビの宣伝・コマーシャルというものは一種のマインドコントロールだ,という書籍もあります。

 新潮新書378 『テレビの大罪』 (和田秀樹著 定価756円)
 PHP新書629 『テレビは見てはいけない -脱・奴隷の生き方-』 (苫米地英人著 定価756円)

などは,様々な観点から述べられており,参考になります。テレビだけでなく,ラジオでも過払いのお金が戻ってくるとか,高齢になると〇〇成分が減ってきてしまいますよ,だからこれを買って飲んでください…というコマーシャルが四六時中,特に午後に繰り返し繰り返し放送されています。有名タレントが言葉巧みに話をして,高齢の人たちの頭の中を麻痺させています。これらは,高齢者に対する「穏健な〇〇詐欺」と言ってよいかもしれません。

(Uploaded on 14 February 2015)

▲この画面の上へ

 


肩ひじを張らず ゆったりと


臨床心理士 G

 「マーリン通信」に,随想 「白い雲」というコーナーをいただいているのに,なかなか投稿できなくて申し訳なく思っています。これからはちょくちょく原稿を出させていただきます。

 何年か前の話です。私は当時,いくつかの事業所の他に小学校・中学校・高等学校のカウンセラーを数校兼任していました。ある中学校には週一回の半日だけ,生徒さんや教職員・保護者のカウンセリングなどの相談活動に通っていました。そこの〇〇先生が定年退職されました。それまで日産「〇〇〇〇」という車に乗っていました。 ひところは不良中年がよく乗る車と揶揄されていた車だそうですが,でも高級な乗用車でした。ところが先生は, 定年退職後すぐに中古の軽自動車に乗り換えられました。

 ある日お会いした時に聞いてみましたら,「今までのように肩ひじ張って生きる必要がなくなったから…」と。退職して安心されたのか,いつもよりやや饒舌になって,「私は背が高くないし…」とか,「私の出身大学は偏差値がそれほど高くなかった…」とか,いろいろおっしゃいました。私がカウンセラーだったからお話になったのでしょう。他の職員にはきっと話をされなかったことと思います。もっとも,背の高さはそんなに目立つほど,極端に低いわけではなかったですし,ご卒業された大学の偏差値もそんなに低いわけではないです。〇〇〇県の教育界を牛耳っている〇〇教育大学も偏差値は全然高くないですので,校長先生がそんなに劣等感を持つことは全く必要ないはずなのですが…。やはり,「気にしてしまった」ということが原因でしょうか。「気にしてしまった」ために,蟻地獄のように,そこから出られなくなってしまったんでしょうね。誰かにうまく助けを求める方法を知っていれば,生活習慣病にならずにもっと健康に過ごすことができたことと思います。

 週一日の午後だけの勤務でしたが,この学校で3年間働いてみて感じたことは,他の学校に比べて「全体になにか無理している。背伸びしている」ということでした。その無理とか背伸びの理由の一部(ほんの一部でしょう)がなんとなくわかったような気がしました。

 肩ひじを張って暮らすと健康に過ごすことはなかなかできません。周りの人も疲れてしまいます。管理職や上司がそのような状態だと,下の人が大きな悪影響を受けてしまいます。社会的地位が高い人の場合,もっと広い範囲に大きな悪影響を与えてしまいます。

 人はその人の生き方しかできないのかもしれません。しかし,自分を見つめ直すことで若干の修正は可能です。努力すればかなりの意識変革を無理なく起こすことができます。自分の心身の健康のためにも,周りの人のためにも余分な力を抜いてみませんか。 

(Uploaded on 11 December 2014)

▲この画面の上へ

 


何のために 働く?


臨床心理士 G

 利用料金等の支払いでは,1週間でいくら,1ヶ月でいくら,1年でいくらという方法があります。1週間では期間が短すぎて,事務も煩雑なので,あまり聞かないですね。逆に1年となると,期間が長すぎて一回あたりの費用が膨大になるのでこれもあまり聞かないです。1ヶ月いくら(月払い)で支払うことが多いようです。年間で考えると×12となりますので,けっこう総額は大きくなります。

 うちで化学ぞうきんを使っています。1ヶ月に一回,訪問販売のようなかたちで取り替えていきます。月1,994円です。一ヶ月あたりはそれほど高くはないかもしれませんが,年では約2万4千円です。ぞうきんに年2万4千円も払うべきでしょうか? これだけのお金があったら,他に何かもっとすてきなものが買えそうな気がします。

 携帯電話やスマートフォンの利用料金も月払いです。ちょっと高いかもしれないなと思いながら,通話料も少し入れて,スマホで一人・月1万数千円を払っている人が多いようです。でも,家族4人では,月6万円。年間では6×12=72万円にもなります。72万円ですよ。

 


1年にいくらかかっているかな?

 さらに,グレードの高い大きなワンボックスカーを買ったのでお金が必要だとか,あれにもお金がかかる,これにもお金がかかるということで,主婦が働きに出かけることになります。そのため子どもは小さいうちから保育園に預けられます。一番大事な乳児・幼児の時期を母と子が十分な時間いっしょに過ごすことなく,出さなくてもよい物にお金を払うために働きに出る…。何か,おかしくはないですか? 支出・出費を見つめ直すと,意外といらないところにお金を使っていますよ。

(Uploaded on 27 September 2012)

▲この画面の上へ

 


乾いた砂に水


臨床心理士 G

 美食であろうが質素な食事であろうが,空腹の時に食べる食事は実にうまいものです。音楽も同じで,毎日たくさん聞いていると耳や脳が疲れてきてしまいます。しばらくの間,何も聞かない後で音楽を聞くと,メロディーや通奏低音が実にスーッと体中に染みわたってくるものです。音楽を,連日聞き飽きるほど聞くのはどうも良くないようです。また,家電量販店やスーパー等でのマインドコントロールまがいのバックグラウンドミュージックはたいへん迷惑です。ましてや,電車内の音楽は,日本ではこれはないのでいいのですが,もしあったら,たいへんな迷惑になってしまうでしょう。

 人の感覚は,眼,耳,鼻,舌,身(皮膚),意(心)から入ってきます。これは多くの仏教経典で,「げん,に,び,ぜつ,しん,い」とひとかたまりで出てきますから,聞いたことがある方もいらっしゃることでしょう。「眼」では美しいものや醜いもの(見たくないもの)を見ること,「耳」では,音楽,人の声,雑音(聞きたくない音)を聞くこと,「鼻」ではかぐわしい臭いやくさい臭い(嗅ぎたくない臭い)を嗅ぐこと,「舌」では,美味や甘み,えぐみ,嫌な味(味わいたくない味)などを味わうこと,「身」では,心地よいものや嫌なもの(触れたくないもの)に触れること,「意」では,心を感じる,人の気持ちを感じる,びっくりする,感動する,悪意(感じたくないこと)を感じるなど,眼,耳,鼻,舌,身,意はいわゆる人と外界との窓口です。これらの窓口から「刺激を受けること」=「生きていること」,です。

 

 
舌と耳(Wikipediaより)

 これらの感覚は,すべて人に対する「刺激」ですので,「刺激論」として研究されていますが,先日,マーリンさんとこの話をしていたら,実にこのことをしっかりと認識していらっしゃったので,私のほうがちょっとびっくりしました。乾いた砂だからこそ水がたくさんしみ込むように,喜びを味わうために,いろいろがまんしていて心を少し乾かし,時々刺激を入れてやると喜びは永続し,充実します。つまり,自分で刺激をコントロールすることが大切だと思います。「タカや鳥を飽きるほど見すぎることがないように調整しています。朝起きた時に空腹感を味わいたいから夕食をほどほどの量にしています」などとおっしゃっていました。私は,あまり禁欲的になることはほんとうは良くないと思うのですが,五官と五感を自分で,つまり,大脳新皮質で管理することは大事だなと思って聞いていました。

 でも,ある種の禁欲的な生活は,実は,最も「欲の深い」生活である場合もあります。常に最高の喜びや幸福を味わうために,前々から計画的に過ごすわけですから…。単純な例ですが,「夕飯のビールがまずくなるから」といって,昼食後からは一切のおやつや飲み物,水さえも拒む人がいます。

(Uploaded on 2 June 2012)

▲この画面の上へ

 


興味の方向


臨床心理士 G

 私はクライアントさんに,「あなたの興味が向いている方向は,きちんとした正しい方向でしょうか」と聞くことがあります。その方のさまざまな悩みや問題の陰に,この「興味」というものが隠されていることがあるからです。

 有名な喩えに,「群盲,象を撫す」というものがあります。三省堂の「大辞林」には,「大勢の盲人が象の体をなでて,それぞれが自分の触れた部分の印象だけから象について述べた,というたとえによる。凡人には大人物や大事業などの全体を見渡すことはできないものだ。元来は,涅槃経・六度経などで,人々が仏の真理を正しく知り得ないことをいったもの。衆盲象を摸(も)す。」 と説明されています。

 耳を撫でて「大きな扇」,鼻を撫でて「長くて太いパイプ」というのは正しいでしょう。でも,「ゾウは大きな扇のようなものだ」とか,「ゾウは長くて太いパイプのようなものだ」となってしまっては,おかしいですね。耳から鼻へ,そして目へ,胴体へ,尾へ,足へ…と続ければよいのです。全体像が分かってくるはずです。ただ,その移動がなかなかできないのが問題のようです。そう,対象が大きすぎるのか,自分が小さすぎるのかが原因のようです。

 人が興味を示す部分は,この「象」の体のごくごく一部分です。ルネッサンス期を代表する巨人,レオナルド・ダ・ヴィンチくらいの人ならば,胴体も手も足も…と,興味を示すことができるでしょう。でも,凡人には,足の皮膚のごく一部分しか無理です。一部分しか無理ならば,正しくなでて,正しく興味を持ちましょう。

 たとえば,「〇氏物語」を一生懸命に研究している人がいます。最近では主婦の間でも,また,カルチャースクールの講座でも人気があるようです。しかし,よく考えてみると,この小説には,いわゆる性愛変質者の主人公が悪いことを繰り返すことばかりが書かれています。主婦が読むよりも,心理学教室や警察学校の学生のテキストにしたほうがよいような内容です。主婦や若者にはよくないでしょう。私は学生時代の夏休みに,一気に通して読んだことがあります。有名なものだからとか,人気があるものだからとか,世間の評判で読むことになりましたが,もし今読んだら,どう感じるでしょうか(もっとも,私はもう読むことはないですけど…)。

 興味の方向は,人それぞれです。まさに十人十色,千人千色です。好きなことをやればいいのですが,でも,その方向が正しい方向かどうか,考えてみる必要はあります。今やっていることが心の悩みや問題の原因になっていることがあります。いつか,人生の終末期を迎えた時,自分が今までやってきたことはなんとむなしいことだったのか…では,悲しいですから。自分が今までやってきたことが悪いことだった…では,寂しいですから。その時楽しかったからそれでよかったとか,その時の稼ぎ(収入)になったからそれでよかったという問題ではないですね。

(Uploaded on 8 February 2012)

▲この画面の上へ

 


出世


臨床心理士 G

 どの事業所でも,出世競争というものには驚かされます。悩みや神経症等の裏側に,出世願望,昇進願望というものが透けて見えてきます。

 企業では,出世や昇進そのものがその人の年収にひじょうに大きく影響してきますので,必死になることは理解できます。同じ経験年数の人と比べて,数倍も,時には数十倍もの収入があるわけですから,分からないわけではないです。学校では,管理職になっても消費税率程度の管理職手当がもらえるだけで,その金額は企業に比べたらごくわずかで,たいしたものではありません。退職金に加算されるということはありますが,でも,しれた金額です。校長になりたかった人が,教育長に 2,500万円のゴルフ会員権を渡して昇進したという話が,10数年前ですが,愛知県の某市でもありました。これほどのことですから,出世欲の根源はかなり根深く,とても年収だけではないようです。

 人はなぜ,出世したいと思うのでしょうか。今までよりも大きな仕事をしてみたいから。高みに登ると違った世界が開けてくるから。人を動かしたいから。組織の中枢で仕事がしてみたいから。世間の人に尊敬されたいから。自分が人格までもが立派になったような気になるから。…。

 出世したからといって,誰も尊敬なんかしてくれません。人格が向上する訳なんかありません。偉くもなりません。同じ仕事を繰り返すよりもマンネリ化がなくなるだけのことです。ですから,いずれにしても,出世はみな,「欲」なんですね。心を汚す三毒=貪瞋痴(とん・じん・ち)のうちの一つ目の貪(むさぼり,欲ばり)です。そして,この欲のせいで精神障害になってしまう人が多くあります。出世や昇進は病気になってまで追い求めるものだとはとうてい思えません。カウンセリングをしていて,自分で自分の「愚かさ」にやっと気がつくことができる人がいます。この人たちは,病気になったことで,一回り人間が大きくなっていきます。少し,悟りに近づいていきます。でも,病状が回復すると,また再び同じ穴のムジナになってしまう人も中にはいます。それほど強い「欲」なのです。

(Uploaded on 25 December 2011)

▲この画面の上へ

 


一生もの


臨床心理士 G

 高校に入学する時,記念に買ってもらったのが,平凡社の「世界大百科事典 全35巻」です。しっかりと活用しましたが,古書店も引き取ってくれませんので,ついに5年前に廃棄しました。

 大学に入る時には,記念に,北海道民芸家具(ホクミン)の「両袖机とイス」を自費で買いました。これは気に入っていて,今もしっかりと使っています。この先も,壊れる可能性は低いと思います。

 就職した時の記念に,「生命保険」に加入しました。後日,「終身保険」に切り替えましたので,これはまさに,死ぬまでの一生ものです。

 結婚した時の記念に,ペアでオメガの「腕時計」を買いました。革のベルトは汗ですぐに傷んでしまったので,これまでに数回交換しましたが,時計本体はすこぶる好調です。〇〇年近くたっても実に正確に時を刻んでくれます。

 順番が逆になりましたが,産まれた時に母からもらったこの「カラダ」。「ココロ」というソフトウェアが付いていて,若いころは順調に働いてくれましたが,途中から,「ココロ」が「アタマ」(大脳新皮質など)と不仲になってしまい,時々芳しくない状態になります。でも,何とか折り合いを付けています。この「カラダ」も死ぬまで使えそうですので,まさに,産まれた瞬間から死ぬ瞬間までの究極の一生ものです。

(Uploaded on 9 July 2011)

▲この画面の上へ

 


正常だから…


臨床心理士 G

 企業や大学でのカウンセリングで最も多い相談はやはり「人間関係」と「神経症」,「うつ」に関するものです。先日,うつ病をわずらっていらっしゃる方たちに勇気を与えてくれそうな雑誌を見つけましたので,紹介します。「SIGHT」という季刊雑誌の2011年春号です。下の写真。

 


SIGHT 2011年 春号

 また,この本の中に登場している泉谷閑示(いずみや・かんじ)氏の分かりやすい文章がダイヤモンド社のビジネス情報サイト DIAMOND online で見られます。

 (後日 追記)

 内容は,

【 「うつ」にまつわる24の誤解 その1 】 

【 「うつ」にまつわる24の誤解 その2 】 

【 現代人に突きつけられた「うつ」というメッセージを読み解く 】

の3つです。ネット上では期限切れで見られなくなりました。その代わり,これら3つをまとめた本として,泉谷閑示著『クスリに頼らなくても「うつ」は治る』が出版されています。ダイヤモンド社,2010年11月発行。1500円です。

(Uploaded on 22 May 2011)

▲この画面の上へ