地図は大正7年測圖 朝鮮總督府刊 五万分一地形圖 信川/載寧/公税里/新院 より   寒井里は中央下 Google map
2006.11.15

パリデギ
客人
懐かしの庭
武器の影

"gook"という言葉

国を挙げて「北朝鮮タタキ」と「いじめによる小中学生の自殺」が進行中です。一件関係ない事柄のように見えますが、どこかで繋がっているようにも思えます。自分の意志で心を込めて「君が代」を歌うのでなく、「式典で歌えと言われた君が代を歌わないのは法律違反」ということになると、実は日本が急速に「北朝鮮化」しているのでは、とも思えるのです。 そんなことを考えていて行き当たった本の一つが

「客人」/黄晳暎/2004/岩波書店  でした。

舞台は1950年10月18日前後、朝鮮民主主義人民共和国黄海道信川面周辺。 19世紀末からキリスト教の盛んだったこの地で、朝鮮戦争中に米軍による住民の大量虐殺があったとする「史実」に疑問を抱く著者は何と、この信川付近に本籍を持っています。「光州五月民衆抗争の記録」を編集・刊行の後、現地を確かめるべく越北、亡命生活の後帰国、反共法違反で服役中も構想を温めて、ついに生存者を探し当てて執筆、というタイヘンな小説です。この間に著者は亡命・獄中記とも言うべき「懐かしの庭」をまとめています。

戦後日本の知識人がはまってしまった「進歩的左翼思想」というのも、金日成から金正日への父子相伝でシラケ、ある日突然ソヴィエト連邦なるものが無くなって振り返ると、今さらながらに「近代化の為のカラクリ」という正体が見えてきます。

19世紀のイギリスでマルクスさんが「高度に発達した資本主義経済が進化した形」として夢想したユートピアが、農奴制農業経済を基盤としていたロシアで、産業近代化で西欧に追い付き、追い越す為の、一発大逆転を狙ったお題目に利用されたのですね。シベリア抑留体験記からは戦争捕虜が前近代的な農奴であったことが読み取れます。

日本でも同じように「文明開化」が日清戦争から高度経済成長まで、人々に幸せをもたらしましたが、90年代のバブル崩壊とともに未来は暗く、「いじめの国」の正体が次第に現れています。

「いじめの国」の表側は「甘えの国」です。昨今の公務員の不祥事も是非善悪を弁えない「甘えの国」のオハナシであり、甘えという全体構造の中で「お前が俺に従うか、俺がお前に従うか。」といういじめが無数に積み重なって、日本と言う国が出来上がっているのではないでしょうか。そうした大人の世界を忠実に反映したのが子供のイジメです。感性豊かで是非に従順な子供がこうした「甘えの国」からドロップアウトするには、今では死しか残されていないのですね。

よく韓国人、朝鮮人は「恨民族」だと言われますが、「客人」では「恨」とはそれに囚われるものではなく、人間として克服すべきものとして描かれています。そしてそのためには軍事境界線をかいくぐって10年以上に亘り真実を「明らめる」ことが必要だった、ということのようです。物事を「明らめる」ことなく「シカタガナイ」と「諦め」てしまうのが、日本人の良いところでもあり、欠点でもあるようですが、これとはエライ違いです。

黄晳暎の行き着いたのは、「階級闘争」と称して同じ村の住民を殺し合いに導いた「共産主義」も「キリスト教」も、ともに異国からやって来た厄災であるというものです。そして文明開化の妖術に幻惑されない東洋的な「赦し」を描いて終わっています。なかにし礼はキリスト教の聖書の言葉を「赤い月」の巻頭に置いていますが、黄晳暎は「客人」全編を黄海道の巫俗儀礼の形式に則って構成しています。ここでもBGMに次の曲が流れてるのですが、やがてそれは果樹園のイモ穴でヴァイオリンのケースを抱えて震える、人民軍兵士の軍服に身を包んだ少女の上に流れ、傷付き、散ってゆきます。

「鳳仙花」洪蘭坡/作曲、金享俊/作詞

急速に文明開化の皮が剥がれ、2001年9月11日以降、キリスト教徒の中の「いじめっ子」の傲慢さが目につく此頃、ぐさっと来るのはこの辺りでしょうか。

2008.9.12

ワタクシ的には「文明開化をどう見るか」というテーマで面白かったのですが、これが子供にとって選択の余地の狭い学校教育でどう教えられるか、となると別の議論がある様です。
韓国近・現代史教育、健全な常識の下で (朝鮮日報 社説 2008.9.12)