2007.2.11
自販機からロングピースが消え始めたのは昨年の夏頃からではなかったかと思う。それまでにもロングピースが入っていない自販機はあったのだが、その数が増えたような気がした。そのうち数少なくなったなった自販機でも、しばらく「売切」の表示が出た後、別のたばこに変わっていく。タバコ屋のオヤジに聞くと「売れないからね。」ということだった。なるほどタール21mg、ニコチン1.9mgというオヤジタバコは流行らないのかも知れない。レイモンド・ローウィのパッケージモティーフも61年経つとさすがに時代遅れなのだろう。
正月開け、買い物に出かけようという妻に「ロングピースを買ってきて。」と頼んだ。しばらくして帰ってくるとプンプン怒っている。「自販機を10ケ所くらい見たけど、どこにも有りませんでした。大変だったんだから。」なるほど浜松市の中心市街地を探してみたら、数十ケ所有るタバコの自販機の中で、ロングピースが入っているのは数カ所のみだった。これは困った。
こうなるとどうも「売れないからね。」というタバコ屋のオヤジを疑ってしまう。ロングピースは無いのに、マイルドセブンとかキャビンとかいう銘柄は、同じものが2列も3列も置いてあったりするからだ。良く売れないにしても同じものを並べるよりはマシではないだろうか。つまりタバコ屋のオヤジとしては、これまでロングピースを吸っていた客に、別の銘柄に乗り換えてもらいたい、ということだろう。そのためにピースミディアムとかピーススーパーライトとかいった銘柄が用意されている。大方売り値は同じでも、小売店のマージンがほんの僅かづつ違うのだろう。
しかしこれも考えてみれば当然だ。1946年にショートピースが発売された時、既存のたばこが10本入り20-60銭なのに対し、ピースは10本入り7円であったという。私がたばこを吸い始めた1968年には「しんせい」「いこい」という普通のたばこが50円位だったのに対し、「ハイライト」が80円、「ロングピース」が100円だった。現在でもショートピースの原料葉たばこの価格は、セブンスターのそれの2倍だそうで、これを同じ値段で売るのが無理なのだ。加えてロングピースは1.9mgという高ニコチンである。ロングピース1箱のニコチンを摂取するためには「マイルドセブン0.6mg」という「軽い」たばこでは3.8箱が必要となる。しかもその間にロングピースの21mgに対して22.8mgという多量のタールを吸引しなくてはならず、それでは健康に悪い。1日当たりロングピース1箱だったものが「マイルドセブン0.6mg」にしたら2箱になってしまった、というのはあり得ることだ。まあ努力の結果ニコチン、タール共に摂取量は減っているのだが、原料価格が倍半分とすればタバコ会社の利益は4倍となる。
タールを減らしつつニコチンを摂取しようと思ったら「軽い」タバコにするのでなく、「強い」タバコの本数を減らすのが最も経済的な方法だと思う。私は1日1箱であったロングピースを1日1/2箱にしようと思っている。健康オタクではないので、ニコチンの取り過ぎを防ぐ、というのではなく、経済的にばからしいからだ。
そのためには簡単に手の届くところにタバコを置かない、というのは結構利き目がある。最近はやりの「喫煙コーナー」というのもそれなりに役立っているのだろう。引き出しにしまって鍵を掛けておく、というのも「毒物」っぽくてよい。さらに効果があるのは集中喫煙である。朝食の後で立続けにロングピースを2-3本吸う。1本目は「飯を食った」という実感を、タバコで増幅させるという喫煙本来の形なのだが、2本目は「毒物摂取」の感が強くなる。3本目には健康に甚大な障害となるのでは無いかという実感が強く、昼過ぎまでは禁煙したくなる。
ニコチンの薬物効果は全身の毛細血管を麻痺させる、ということで、その昔「阿部定」なる婦人に首を絞めさせて快感に浸っていたバカ旦那とおなじなのだが、それ以前に私は糖尿病なので、全身の毛細血管は、血中のカロリーを組織に伝える力を失っている。そこへニコチンが効くので、全身の毛細血管がビリビリと痺れる様子が良く実感できる。阿部定のバカ旦那同様毒物摂取の快感である。バカ旦那は首を絞めさせ過ぎて昇天してしまったのだが、そうならないためには昼過ぎまで禁煙するのは当然と感じる。
ロングピースが消えた後に増えているのは"Marlboro", "Lark", "Lucky Strike"といった外国銘柄である。一般大衆の目に付くところに広告を出してはならぬ、という訳で、F1レースのスポンサーになってレーシングカーの車体をペタペタ塗りたくっているのもこうした外国タバコである。と思っていたらRenaultのスポンサーは「マイルドセブン」なのだね。いつのまにやらマイルドセブンのパッケージもフレンチブルーになっていて、一昔前にはセブンスターのパッケージが白と銀のだったことなど、皆忘れてしまったようだ。
などと思っていたらウェブのどこかで日本企業の外資比率が増えている、という記事があった。それによると日産などと同じく外資比率の増えている企業の中に"JT"も含まれており、すでに60%を越えているのだそうだ。「専売公社」が"JT"となり、すでにその"JT"も民族資本では無い、というわけで、「日産」が「日本にある自動車会社」であるだけなのと同様、"JT"も資本所在地を表しているのでは無い、ということらしい。いやいや、"JT"の"J"は"JAPAN"の"J"ではないことだってあり得るのだ。かっては「専売公社」であり、法的にはともかく、国民感情からすれば「国有企業」だと思い込んでいたものが、いつの間にやら外資系になっている、というのは驚きだった。財政再建の手っ取り早い方法としては、持ち物を売り払って現金を手にする、というのが簡単な手口であることが想像される。古い言い回しには「国を売る奴」というのがあるが、「郵政民営化」の攻防が花々しく取り上げられる陰で、こういう事態も進行していたのだね。現金を手にするだけでなく、その昔は「公労協」などと称して、お上の御政道に盾を突くバカヤロウどもがいたのも、外資系民間企業であればカタが付く、という一挙両得である。
旧「国有鉄道」にしても、首都圏でこそ「エキマエ」を「エキナカ」に取り込んで、昔で言えば「民業圧迫」の誹りを受ける横暴ぶりだが、その一方で「国有鉄道」とはなんだったのかを、きちんと振り返っていないのでは、という場面も見受ける。昭和10年4月27日午後5時30分丁度、満州国新京駅で国歌吹奏が終わると同時に、皇帝陛下お召し列車が赤い絨緞の前にぴたりと止まることが出来たのは、列車運行精度に、大東亜共栄圏の盟主たる大日本帝国の威信を込めるために、莫大なエネルギーが費やされたためだ。同じエネルギーを抜きに、列車運行精度を「阪神より便利です」という一民間企業の商品性能として実現させるため、若者を精神論で追い込んだ揚句が、JR西日本の福知山線の事故であったことに気付く人は少ない。国鉄解体時の25兆円といわれる赤字は「国家の威信」の対価とも言えるのだ。
三公社は民間企業として自活して下さい。というのは財政再建の正論であろうが、その一方で「国家への信頼感」が等閑にされているのでは、と心配になる。「子供に信用されない大人」を顧みることなく、「大人を信用しない子供」の首にナワをつけて「君が代」を歌わせようというのでは、北朝鮮と同じではなかろうか。