日本文化と川世界の古代文明はいずれも川の流域に成り立っていました。 黄河・ナイル川・チグリスユーフラテス川といった畑作地帯の文明を育んだ川の流域は、 いずれも現在は砂漠地帯と化しています。文明の発達と共に灌漑が進み、 自然環境に比べて格段に大量の水分を大気に向けて蒸発させる畑作の高度化が、 これらの砂漠の始まりに密接な関係を持っているとも言われています。 古代文明の故郷を砂漠に変えたのと同じ過度の灌漑が北米ではリオグランデ川の塩水化を引き起こし、 ロッキー山脈に積もった雪の数万年の蓄積である地下水の水位低下をも引き起こしているとのことで、 世界中の水の消費がこのまま進めば、20世紀の戦争が「領土の戦争」であったのに対し、 21世紀の戦争は「水の戦争」になる、という説もあります。 こうした「水を奪う」農業とは対照的に、揚子江文明に代表される、 水田稲作を基盤とする農業が「水を作る農業」だというのは興味深い見方です。 畑作灌漑では大気に向けて蒸発させる水が、水田稲作では上流の田んぼから出た水が下流の田んぼに流れ、 川の流域沿いに限りなく循環して行きます。ある地域からの下水排水が別の地域の上水水源になる、 という水利用の究極の形を、水田稲作文明圏では紀元前から数千年にわたって行っており、 我が国における水利用のかたちも、長い時間を掛けて作り上げられた高度なものだ、 ということです。水田そのものが調整池であると同時に、 川の流域全域に対する水量の安定化を計るためにも水源函養林が重視され、 奈良時代にはすでにそのための法律が整備されていたとのことです。
大正14年、浜松地域に関する初の都市計画審議会への地元からの意見も、
芳川村からの「農業水利に支障なきことを望む。」というものでした。
近代以前の日本人の暮らしの中にはそうした水の循環利用が見事に組み込まれていたことは、
我々の記憶にもまだ残っています。生活雑排水は屋敷内の「溜め」で浄化され、
敷地から出るときには水田に用水できるものとなっていました。パリの下水道が、
道路に捨てられたし尿を洗い流して郊外の川に「生流し」するために作られたのと違い、
し尿の肥料還元技術が畑作生産性の高度化を実現していました。
ミラノのホテルで日本ではありそうもない体験をしたことがあります。
一応ちゃんとしたホテルのバスルームなので、
それらしいリネン類といっしょに洗面台には歯磨用のコップが置いてありました。
喉が乾いた私は何気なくコップに水を汲んで口に含み、あまりのまずさに吐き出してしまったのです。
後でバスタブにお湯を入れながら、気になってコップにお湯を入れて観察して見ると、
コップのなかで、湯から小さな泡が湧いてくるではありませんか。ミラノの水道水は炭酸水だったのです。
どうも「懲りる」ということの無い性分なのか、 別の折韓国の離れ小島でも同じような体験をしたことがあります。 夏休みに子連れで金大中さんの故郷の、そのまた向うにある島の民宿に泊まった時のことです。 夏のことで、船付き場には若者が一杯、 荷物をバックパックにして手にはミネラルウォーターのペットボトルを持っています。 なるほど、あれの冷えたのがアイスキャンデーよりは良いわい、と子供共々一本づつ持って船に乗り込みました。 宿を定め、海岸に出て遊ぶ間に、「冷えてる間に飲んでしまえ。」とペットボトルは空。 また民宿で水を汲めばいいや、と考えたのが間違いでした。島の部落には飲める生水が無いのです。 若者達はミネラルウォーターを節約して、水場の水で手廻しよくコーヒーなど入れています。 夏場の喉の乾きは辛いものです。民宿のおばさんに水はないかと聞くと、 「困ったねえ、どうしても水が飲みたいのかね。」と言いながら、 若者達がコーヒーの湯にしていた水場のホースの水を、しばらく手ですくっては味を見て、 「飲めると思うよ。」と言ってくれました。
その時は何とか喉を潤して、後でホースの先を辿って見ると、
民宿の前を流れている小川の石の陰に潜り込んでいます。
どうやらこの小川の水を引いているようでした。上流にはまだ何軒か家が並んでいます。
どの家でも牛を飼っています。上流の家の排水も、この小川より他に行くところはありません。
小川の河床で漉されているにしても、牛小屋の流し水が入っていることは確かでしょう。
世界中どこに行っても人が住んでいるところには水道があり、蛇口をひねれば飲める水が出て来る。
なんてことは良く考えるとありそうもないのに、水に恵まれて暮らしている私など、つい思い至らなかったのです。 蛇口をひねれば飲める水が出て来る。 というのはヨーロッパ型の「水を奪う」農業に対する「水を作る」農業である水田稲作文明だと思うのですが、 最近の日本ではどうもそれが危なくなってきているようです。 飲める水のある場所、と言うのが数千年の時間を掛けて築かれた日本文化の到達点であったはずなのに、 「どのような所に住むか」と言った時、東京などの大都市では水のことなど考えずにことが進んでおり、 最近では輸入物のミネラルウォーターを飲むのが流行っています。いったいこれは喜ぶべきことなのか、 悲しむべきことなのか、このまま水道の水がまずくなり続ければ、 私達の子供の時代には水のレベルでは確実に文明度が下がりそうです。 「住む」ことは「澄む」ことであるという時、空気が澄む、 というよりは「清き流れ」の方が先に来るような気がします。 空気と同様、水もまた使い捨てるものではなく循環するものだ、 という洗練された技術の上に、我が国の都市は成り立っていました。 今だに我々の意識下にはこうした水田稲作文明の遺伝子が、しっかりと保存されているよう思われます。 先年、天候不順で米が不足した折には日本全国がパニックに襲われたことは記憶に新しいと思います。 常々は米余りで苦労しているだけでなく、いざとなれば輸入もでき、 それよりなにより、ひと時代前に較べれば米の消費が減ったのが食生活の多様化であり、 豊かさの現われだと考えられていたのですから、あの時のパニックは単なる食料不足への恐怖を超えた何者かでした。
住宅用地などではとっくに「仕方がない」とあきらめてしまった、
国土の土地利用なのですが、日本人にとっては、稲作がやはり国土利用の一番底にあり、
それが支障なく行われることが、単なる農業生産の出来、不出来に止まらず、
「天下泰平」であるための最も重要なこととして意識下に組み込まれいることを思い起こさせてくれた様な気がします。
西欧文明は廃虚と化しても残り続ける石造建築物を作り出しました。それと同時に海外植民地へと農地を拡げ、 例えばカリブ海では近代戦争に続くような大量殺りくと、異民族を家畜として大量に移住させる、といったことまで起きたのです。 同じ頃、我々の先祖は最大多数にとって最も望ましい水資源の循環利用の型を求め、 近郷近在の村々と「水争い」を繰り返していました。時に暴力沙汰に及ぶことがあっても、 限られた土地から人間の労働を限りなく投入して生産性を上げる、という勤勉性と、 後々までひびく争いを避けて指導者にゲタを預け、限られた水資源を繰り返して使う流域全体を考え、 自分を殺して地域全体の為に「仕方がない」と諦める「和」の重視が育まれました。 こうして稲作文明が我々に残してくれたのは、世界でも最も優れた水資源の循環利用ではないでしょうか。 我が国が世界でも類を見ない森林国であるのも、 下流の水田への用水を安定させるために数千年に渡って続けられた山林経営の賜だそうです。 浜名湖北岸にも見られる「千枚田」もそうした水利用の究極の姿であり、 こうした「山田」の環境保全機能への補助政策が始まるとのことですが、 「フランスワインはフランス文化そのものだ」という言い方をするなら「水田は日本文化そのものだ」と言っても良いでしょう。 米を食う日本人にとって、水資源の循環利用とセットになった稲作は、我々が持つ21世紀への最大の資産ではないでしょうか。 |