浜松の歴史と川
奈良時代、全国規模で行われた条里制は水田稲作の為ものだ、と言うことですが、
その時代の遠州地方の姿はまだまだこれからの研究に待つところが多いようです。 後に千葉大学医学部長となる伊藤弥恵治は明治39年から40年に掛けて、 受験勉強の寸暇を惜しみ、浜松周辺のスケッチを残しました。 まだまだ江戸時代の面影の残る明治の頃の浜松の絵を見ると、 驚くほど川面が当時の生活から近くにあったことが伺えます。
下の絵など、水面から地面までが一尺位しかありません。当時の生活が大水に弱かった、
ということもありましょうが、上流から下流まで、細かく水監理がされていて、
水田自体が調整池の働きをし、現在の河川よりも増水が緩やかであったこともあると思います。
昨年の夏、激しい雨が降った後を見ると、
新川では土砂降りが小降りになると30分ほどで増水は収まってしまい、
想像した以上に排水速度が早いのに驚きました。
昔に較べ、防災の点からは遥かに安全になっているのでしょうが、
都市の魅力、という点からは失ったものも多いと思います。
都市部でもきめ細かな川づくりが行われたようです。
明治23年の1/20,000地形図、大正6年の地積図を見ると、
今の元目橋付近から田町玄忠寺西に向かっていた新川が、
家康による浜松城の拡張工事によって現在の位置に付け替えられた様子が見えます。 「この沢近き方に君ども多数住みける由、 かしこに行く道細くありけるにより、 夕されば通うおの子どもの此所につどうことのあまたありければ恋沢の名あり」とまあ、現在の有楽街は400年前とほぼ同じ姿をしている様です。
中心市街地でも、気を付けて見ると、
そうした生活のなかを水が流れていた時代の名残を見つけることができます。
大正11年に鴨江に遊郭が移るまで、街道一の盛り場であったという旅篭町の裏など、
今でもそうした古い石垣が残されています。今はコンクリートで固められて、
水のない川になっていますが、上流にまだ緑が多かった頃には、
川面に色めいた明りが映り、水の上に三味線の音が流れていたのでは、と思わせる景観です。 日本にはヨーロッパや中国に見るような、壮大な石の遺跡はありません。 「石の文化と木の文化」として説明されることもあります。しかし城の石垣などを見ると、 我々の伝統には石の文化がなかった訳ではなく、 遺跡として使われないままに残される様な「もの」として都市を造ることが文化だとは考えられなかったのかもしれません。 その代わりに日本人の作り上げた都市は、石のような「もの」としてではなく、 「水の使い方」のような「こと」として成り立っていたのではないでしょうか。 ケビン・リンチは晩年、伊勢神宮の式年造営に触れ、 「古いものを残す」という西洋の都市と対照的な「古いことを残す」という我が国の伝統の在り方に驚嘆しています。
20世紀が終わりに近づくにつれ、地球全体が人間の作り出した「もの」の集積の重みに悲鳴を上げているようです。
「水を奪う」農業から始まった「もの」の文明は環境問題というキーワードのもとに、
やっと「こと」の重要性に近づいてきたようです。
21世紀に向けて、「水を作る農業」である水田稲作文明の「こと」を考える、
という方法はますます重要になりそうな感じがします。
浜松市の中心部を考える際にもそうした「水の使い方」の集積である川の姿を見直すことは、まちづくりにとっても有効な手段だと思います。
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