市営名残アパート

犀ヶ崖のすぐ近くに市営名残アパート・亀山アパートがある。昭和24年入居開始という松城アパート共々、昭和20年代の明るさを代表する様な建物群だ。







建築基準法が制定され、市街地建築物法による建築許可が建築確認になったのが昭和25年であり、国家中枢部は茫然自失の態であったことがうかがわれる。これと対照的に、浜松市役所の動きは素早かった。

昭和20年6月18日の空襲による被災者に対して、各企業へ軍事物資放出を依頼「2,000円住宅」といった応急バラックが市民の記憶には残るが、同時に耐火建築物による団地建設を開始している。市営松城アパートの入居が昭和24年、亀山アパート・名残アパートの入居が昭和25年とのことで、昭和初期から押さえつけられていた近代都市建設への情熱が、一気に吹き出した感がある。

昭和24年入居、ということであれば、終戦前に作成された計画を8月16日から実施に移したのではなかろうか。首都では復興金融公庫が汚職の巣窟となり、ドッジラインの緊縮財政に向かう頃、すでに浜松の復興はフルスピードで進められていたのだ。名古屋では「100m道路」が戦災復興の象徴となったが、浜松では市営住宅が復興の中心であり「丘の上のモダンアパート」がその象徴だった。

「鉄道・道路は国の根幹、住宅水道は枝葉末節」と心得た上で、国に代わって道路を復興のシンボルにしたのが名古屋であれば「そんなものは放っておいても、国がどうにかする。」とばかり、住宅を復興の中心にしたのが浜松だ。

同潤会









名残アパート・亀山アパートには階段室型4階建てのフラットだけでなく、2階建てメゾネットのテラスハウスもある。同潤会の渋谷アパートと同じ形式だ。

昭和24年以来の市営アパートは日本住宅公団による標準設計よりも、その前身である同潤会のスペックに近いのではなかろうか。戦後60年で身長が10cm以上延びてしまった、といわれる現代日本人からすると、いささか「間尺に合わぬ」ところもある。

しかし東京では同潤会による「震災復興住宅」が近代都市形成の中心となり、表参道・代官山といった「近代都市のまちなみ」が現在に至る間で貴重な景観資産として守られている。

民間開発による今日の集合住宅では「戸当り駐車台数」が敷地計画を決めてしまう。しかし「自家用車」が考えられなかった時代に計画された名残アパートは、随分豪華な敷地利用をしており、今ではその芝生が駐車場に使われている。



代官山 渋谷アパート





表参道 青山アパート



こうした貴重な都市景観資産を、なんとかリノベーション出来無いものか。代官山の同潤会渋谷アパートは跡形も無くなってしまったが、さすがに表参道では都心にありながら、道路際の高さを継承した建替えが行なわれている。

同潤会が住宅公団となり、都市再生機構となって、民間マンションの地上げ屋と堕ちてしまう間に「マンション」という言葉もすっかり日本語になってしまった。「公団アパートより豪華です。」というウリなんだろうが、中身は伴っていない。日本語の「マンション」は、まあ江戸の裏長屋をタテにした様なものだろう。それを支えているのが都市計画法の中高層住居専用地域という基準だ