7時過ぎにチェックアウトし、少し建物を見ることにする、先ずはコイト・タワーの上から見当を付けようとするが、開館は10時だとのこと。太極拳をやっているオバサングループが塔の下を取り巻いていた。景色はよいし、実に気持ち良さそうだ。「出窓が無ければ建物でない。」と言わんばかりのデザインの木造中層建物の続く丘を降り、ノースピーチの道端に車を駐めて朝食を取ることにした。


ノースビーチのイタリア料理屋。点前左がリーバイス・プラザ。


リーバイス本社ビル、裏手の丘の上にコイト・タワーがたっている。

古い堂々としたレストランだが、再開発のオフィス街なので朝から営業している。近くの事務所に動めるヤング・エクゼクテイブという雰囲気の客が多い。この辺りは元はイタリア系の街なのか、メニューはイタリア語で書いてある。天井も6-7mはありそうで、ウエイターも背の高く、顔だちのしっかりしたゴッドファーザー一家のごとき青年がぴしっと立って注文を待っている。K君と二人で

「これは一体何だろうねえ、さぞかし本格的なイタリア風の朝食なのだろうねえ。」

とメニューをあれこれ見ていたら、ゴッドファーザー青年が待ちくたびれたらしく、

「単品よりセットメニューの方がいいですよ、これはベーコンエッグとハッシュドポテトで、、、」と説明してくれた。

何のことはない普通のアメリカの朝食だ。エスプレッソを飲んで外に出ると、再開発で造られたプラザになっていた。リーバイスの本社を中心にした現代風の建物がプラザを囲んでいるが、外壁の色は今のイタリアンレストランの入っている建物と同じレンガ色にしてある。後ろの崖の上には高級住宅が屋根の端だけを覗かせている。朝のこととて、ビジネススーツの男女が脇も見ずにすれちがう。

物見高くリーバイス本社の受付まで侵入し、社史のパンフレットを頂戴してきた。受付は長身の、流石にジーパンの似合う黒人のハンサムボーイであった。車を再びモスコーン・センター近くのパーキングメーターに置き、ダウンタウンをもう少し見て回ることにした。

ユニオン・スクウエアに行き、河合君の案内でフランク・ロイド・ライトのモリス商会を見る。高層ビルに挟まれているのが残念だが、外観はなかなか美しい。中は画廊になっている。グッゲンハイムと同じようなスロープ構成である。一番上まで行くと、天井のアクリル製円形パネルが手の届きそうなところにある。

繊細なデイテールがゆがんで、すきまから軽量鉄骨の下地が見えている。アクリルという、可塑性と透光性を合わせ持つ素材がもたらされた時には、時代の最先端を感じさせたデザインだったであろうが、同じ素材がありふれたものになってしまった現在では、場末のパチン屋でも使わないデザインであろう。と根性の曲がった僕は考えてしまう。

サンフランシスコにもう一泊し、南米に向かうというK君と別れ、ゴールデングートパークに向かった。60年代後半、フラワーチャイルドの巣であったヘイト・アシュベリーは、1906年の地震後に新興住宅地として拡大し、古びて行くと共に荒廃した街だというが、ありとあらゆる建築スタイルをごちゃまぜに詰め込んだまちなみが、いかにもサンフランシスコらしい。


ヘイト・アシュベリーの古い住宅、様々なスタイルを混ぜ合わせた「お菓子の家」が並ぶ。


木の柱に不思議な彫りもの。スタイルとは難しく、厳密に考えるものではなく、自分で作るものである。










「夢のカリフォルニア」ではあるのだが、
現代人の目から見れば、決して充分なフィジカル・スペックとはいえないのではないか。


震災復興ということで、避難階段も完備なのだが、今までペンキの抜き替えを怠ったことは無かろうか?

しかしヴェトナム戦争に反対して昂揚した当時のサブカルチャーは、同じヴェトナム戦争の終了と共に目標を失ってしまったかに見える。反体制の主張を持っていたヒッピーは散り、残っているのはただの乞食であるようだ。

ヘイトの突き当たりにあるスーパーに車を駐め、ゴールデングートパークを覗こうとしたら、立派な体格をした物乞いが寄ってきた。もっともここは新宿駅の馬の水飲み場の様なもので、観光客を待ち伏せする場所なのかも知れない。公園の北側をしばらくうろついて、写真を取った後、ゴールデングート・ブリッジを渡って、再び北に向かうことにした。


橋を渡ったところにある展望台には、けっこう人の姿があった。観光らしい中年夫婦、地元の恋人達、それに最近アメリカ人になった人も含まれているであろうメキシコ系、アジア系の人達。ゴールデングイト橋の左、海の向こうにはダウンタウンが遠望できる。

サンフランシスコでは1915年にパナマ運河の開通を祝って「パナマ太平洋万国博覧会」が開催された。1906年の大地震からの復興を祝う意味も含まれている。アメリカ合衆国の全土に鉄道が張り巡らされ、無限の富がこれから産み出されようとしていた。そして眼前には無限の未来を約束する太平洋が拡がっていた。この時がサンフランシスコの最も輝いたときではないだろうか。鉄道による富と共に、人々の未来にも夢が満ちていた。会場にはフオードの組立工場が作られ、誰もが自家用車を持ち、郊外住宅にすむことが出来る、と言う現在のペイエリアの都市のあり方が未来の姿として展示された。



1915年パナマ運河の開通と震災復興を祝って開催された万国博覧会の会場。

右手中央の塔はエントランスに立つ「宝石の塔」全体にボヘミアガラスのビーズが吊るされて、そよ風に揺れるクリスタルビーズが太陽に照らされて光り輝いたという。

San Francisco Invites the World
Chronicle Books, 1991



会場に作られたフオードの組立工場、人々の見る前で10分間に1台、期間中に合計4,400台のT型フオードが組立られた。

「郊外住宅から自家用車でダウンタウンヘ。」という現在のベイエリアの都市の姿の原形が提示されたのだ。