マリン・シティーとあるので、ラィトをもう一つ、と降りていってみる。101号線がいきなり住宅分譲地の細い道に変わる。山を降りれば下に表通りがあるのかと恩ったら、どうも違うようだ。行き止まりの道に入ってしまった。庭木の手入れに来たメキシコ人らしい青年に道を聞くが要領を得ない。困っているとちょうど近くの住宅から高年の夫婦が出てきたので、再度道を聞いてみる。道を聞くのは若者よりこういう人達に限る。

「まあ、ラィトの建築をご覧になりに来たのね。ちょっと違ったようね、ここはマリン・シティーで、あなたが行こうとしているのはマリンカウンティーのシピックホールなのよ。ねえ、あなた、101号線を北に行くと高速道路からちらっと見えますわよね。ずっと行って、いくつ目の降り口だったかしら、山を一つ越してからなのよ。ちらっと見えるから一度通り過ぎてから降り口があるわ。ねえ、あなた、通り過ぎてから降りればいいのよねえ。ライトの建物は、世界中から見に来る人が大勢いらっしやいますわ。ねえ、あなた・・・。」

「どっ、どうも有難うございました。」

「あら、高速道路に戻る道はお分かり?この先を・・・」

「大体分かると思います。おじやましてすいませんでした。」

「いいえ、いいんですわよ。」‥・‥




マリン・カウンテイーではライトは「神」である。


道路の反対側は普通の郊外住宅地。


右手にボートハウスを眺めつつ、しばらく走って小山を越えると、大きな標識が見えてきた。マリンカウンティーのシピックホールも専用のインターチェンジとでも言うものを持っている。高速道路を降りると、最初の交差点の向こうに(オバサンが言う様に高速道路からちらっとは見えなかったようだ)同じスタイルの郵便局があり、向かい側が庁舎だった。

郵便局に車を置き、歩いて丘を登る。丘から丘にかけ渡した建物の下から遠くに丘の連なりが遠望できる。いかにもカリフォルニアの風景そのものだ。サイトデザインは良いのだが、建物自体のスタイルはどうも好きになれない。ラィトが常にそうであったように、この建物も「変わったスタイル」という印象でしかない。

入り口の案内所には人が居ない代わり、ちゃんと「建物のパンフレットは4階のどこそこにあります。」という張り紙がし てある。早速4階に上がってパンフレットをもらう。ライトのパンフレットの係の人に

「マリンガウンティーの歴史のパンフレットはありませんか。」
と聞いてみると、
「歴史のパンフレットは無いけど、この本はいかが?」と

「フランク・ロィド・ライト
マリン・カウンティー・シビックセンター」

の写真集、絵葉書を見せてくれる。
「よろしければハードカヴァーもあるわよ。」
と言うが、河合君は軽装版を購入する。
「歴史のパンフレットが無ければ、本でもよいのだけど。」
と食い下がる、
「○○さん、あなた歴史の本て、どこか置いてあるとこ知らないかしら。」
と聞いてくれるが、○○さんも心当りがない。
「商工会議所に行けばあるかもしれないわねえ、道の反対側よ、ええと、何番地だったかしら。」
と親切に住所を控えてくれ る。

どうもアメリカの多くの街がそうであるように、街の歴史を財産、と考えているのではないようだ。なんとなく感じられたのは、マリンカウンティーには歴史の代わりにフランク・ロィド・ラィトがある、ということだった。

マリンカウンティーの人にとっては、日本風の言い方をすれば、ラィトは「神」なのだろう。アメリカ人の言い方なら「地上に理想を現出せしめる、神の使い」とでも言うのだろうか。いずれにしてもライトがあるから歴史など必要ないのだ。

かってアメリカには理想があった。 1975年4月、最後のヘリコプターがサィゴンのアメリカ大使館から飛び立つまで、アメリカには未来があった。それまで、「自分で手を動かし、額に汗することでこの地上に理想の国を造ることができる。」という建国の理念は、悉く実現されてきたかに思われていた。「未来」は常に「理想への接近」と同義語でありえた。

近代建築もまた限りない理想への接近という根本原理によって動かされていた。「今まで見たこともない建物」は、人々にとって「理想への接近」として受け入れられた。北カリフォルニアの丘の上に、人々は理想の実現を見出したのだ。近代建築の時代には、歴史は過ぎた日々の物語に過ぎず、次第に色祖せて行くものでしかなかった。

サイゴン陥落によって一つの時代は終わった。

メイフラワー号がボストンに着いて以来、現在のアメリカ合衆国の姿を作り上げた、理想に近づき、神の国を地上に実現するため、「西に向かう」という半ば本能的な行動パターンはメコンデルタの沼地に消えた。封印された箱を誰かが蹴飛ばしたように様々な疑問が一時に吹き出してきた。「イージーラーダー」ではまだ若いジャック・ニコルソンが

「アメリカ人というやつは自由のためなら人さえ殺すのに、目の前に自由を突き付けられると、耐えられない不安におちいってしまう。」

と言っている。疑問は汐が岸を浸すように、あらゆる価値観に拡がっていった。近代への疑問は、建築デザインをも逃がさなかった。

「1940年には、かってはラディカルで情熱的だったものが、すでに多くの場で一般的な冷たいものになっていた。新たな権威が古いものにとって代わり始めた。第二次大戦後に近代建築が勝利を収めたとすれば、その理由は単に近代建築が人類の夢を再生し、新しい世界に向けて立ち上がる助けになっただけではない。

近代建築は同時にデザインが楽で、建設するのが安かったので、巨大な産業、管理社会、そして未熟な設計者と労働者にとって誠に都合の良いものとしてもてはやされた。建物のコンポーネント、時として建物全体が機械的な美しさのおかげで際限無くコピーすることが出来た。技術革新は利潤を生み、建築理論はより大きく、より単純で、より早く建てられる構造を生みだしていった。」

「モダニズムの形態と材料は産業経済構造に組み込まれてしまっているため、地価、建築法規、都市計画、税制、建材産業の力、建設会社の施工体制と建設労働者の組合、企業と行政機構と言ったものが、個人住宅程度の小規模の建物以上はこれからも陸屋根、平らな外壁、装飾の排除、機能を満たすだけのミニマリズム、大方はRCか鉄とガラスによる構造、と言った建築の世界でいう「近代」的な建物として建てられることを実質的には決めてしまっている。」

ARCITECT:the life and work of Charles W. Moor>
David Littljohn>
Holt,Rinehart and Winston/1984より

開発されたときには、ライトが提唱した郊外住宅の暮らしを実現する、憧れの高級住宅街であったはずのマリンカウンテイーにも、様々な人種が押し寄せているらしい。ちょいと選挙人登録の様子を覗いてみた。それほど広いわけでもない窓口に大勢の人が押し寄せ、押し合いへしあいしてドアの外まで溢れている。昼中の所為か、メキシコ系のオバサンが多いようだ。まるでデパートの特価品売り場の様な騒ぎである。何とか潜り込んで

「選挙民じゃ無いけど、選挙のパンフレットくれませんか。」
と開くと、
「どうする、あげてもいいよね。」
と言いながら、投票内容の載った投票用紙のサンプルをくれた。最初に投票の仕方、
「投票用紙に付いているピンで所定の位置に穴を開けてください。」
とあって、投票の項目が続いている。

クリントン、ブッシュ、ペローだけでなく、大統領候袖には他にモロー、フィリップス、ダニエルズなどという聞いたことのない名前が戦っていた。泡沫候補なのだろう。連邦上院、下院、州上院、下院、マリン地区保健民と続いた後で、住民投票の対象となる法案が並んでいる。提案156は正確には、

「旅客交通施設のための公債発行を認める」
法案だったのですね。他には

「有料高速道路の通行料を35年以内に無料化できるようにする」
「戦死、戦病死者の住宅に対する不動産税免除」
「充分な判断力を持つ者が末期症状にあると診断された場合
 医師に死ぬ為の助けを求めることが出来る」
「キャンディー・ミネラルウオーター・スナック菓子の消費税を
 廃止する」

等というのもあって全部で13の法案が住民投票にかけられていた。全てに影響予測が付記されていて、「有料高速道路の通行料無料化」では2030年以降に「年間数千万ドルの税収減」などとしてある。マリンカウンテイーでの住民投票は2案、提案Aは 「マリンカウンテイー・シビックセンターに対する建築制限のイニシャテイヴ・オーデイナンスを発効させる」というのであった。イニシャテイヴ・オーデイナンスって何だろう。後は交通税関系、水道関係が一つづつあって「投票おわり」と書かれている。

登録所の外の廊下には様々なニュースレターが山積みになっている。選挙時期なので特に多いのだろう。商店街のもの、図書館利用者の会、子供会、ゲイ、等と言った民間団体のニュースレターが選挙目当ての各種新聞と混ざり合っている。考えてみるとアメリカの公共機関は、行政府も、立法府も、要は「民間団体」の集まりなのだ。

外に出ると丘の下に郵便局が見えるが、それ以外の建物はマリンカウンテイーの「神様」であるはずのフランク・ロイド・ライトとは関係ない、ガススタンドはガススタンド、スーパーはスーパーという普通のスタイルの建物が並んでいる。